第二章 掘るなかれ
ふたたび、時を、遡る。
透という若者を、万田坑の、冬の光の中に、しばらく待たせておこう。老ガイドとの話は、後に聞く。その前に、語り手は、三池という家が、五百年をかけて、どのように敗れていったかを、語らねばならない。透が、これから、老人の口から、断片として聞くことになる、その全体を。透は、断片しか知り得ない。だが、読み手は、知っておくべきである。
* * *
燃える石が見つかってから、二百年ばかりは、まだ、よかった。
そのころの採掘は、ささやかなものであった。里の者が、丘の斜面の、地表に近いところを、少しばかり掘る。掘った石を燃やす。塩を焼き、鍛冶に使う。その程度であった。地の深くまでは、掘らなかった。掘る術もなかったし、掘る理由もなかった。
三池の家は、その、ささやかな採掘を、苦々しく見ていた。掘るな、と、家は伝え続けていた。だが、地表を浅く掻くくらいのことを、いちいち止めることは、できなかった。家は、こう考えて、自らを慰めた。浅いところなら、よい。深く、あのいちばん薄い岩の層に、届きさえしなければ。あそこまでは、まだ、途方もなく遠い。人の手が、あそこまで届くことなど、あるはずがない、と。
その考えが甘かったことを、家が思い知るのは、ずっと後のことである。
* * *
時代が、動いた。
江戸の世に、藩が、この石炭に目をつけた。財政の助けにするためである。
柳河の藩も、三池の藩も、競うように、採掘を始めた。役人が来た。人が集められた。坑が掘られた。それまでの、里人のささやかな採掘とは、桁が違った。組織立って、深く、大きく、掘られはじめた。
三池の家の当主は、三池藩を治める立花家に、訴え出た。
この丘を、深く掘っては、なりませぬ、と。古くからの、戒めにございます、と。深く掘れば、取り返しのつかぬことになりまする、と。
役人は、笑った。
取り返しのつかぬこととは、何か。祟りか。山の神か。そのような迷信で、藩の財政を左右できると思うてか。石炭は、藩の宝である。掘るなとは、片腹痛い。下がりおれ。――当主の訴えは、そう一蹴された。当主は、食い下がった。幾度も、幾度も。だが、そのたびに、追い返された。しまいには、うるさい、と、咎めを受けかけた。
三池の家の務めは、このとき、すでに、半ば破れていた。
一つの家の、掘るなという声は、一つの藩の、掘れという意志の前に、あまりに無力であった。当主は、悟った。もう、止められぬ。時代が、変わった。掘るな、で通じる世は、終わった。
だが――ここで、三池の家は、逃げなかった。
当主は、こう考えたのである。止められぬのなら、せめて、見張るしかない。藩が、どこまで掘るのか。あの、いちばん薄い層に、近づいていないか。それを見張り、近づいたなら、命がけで止める。そのために、家は、絶えてはならぬ。むしろ、家は、炭鉱の内側に、入り込むべきだ、と。
三池の家は、採掘を担う側に、回った。
掘るなと言っていた家が、掘る現場の、監督の役を、買って出た。矛盾である。だが、当主には、勝算とも言えぬ、一つの決意があった。掘る場所を、掘る深さを、自らの目で見張れる場所に、身を置くこと。触れてはならぬ層へ、坑道が向かおうとしたなら、地質がどうの、水が出るだの、理由をつけて、その方角の採掘を、断念させること。内側から、坑道の進む先を、逸らし続けること。
それが、三池の家の、新しい務めとなった。
もはや、掘るな、とは言えない。ならば、あそこだけは、掘らせぬ。負けは、認めぬ。当主は、そう決めたのである。掘り進む時代の、その舵の、すぐそばにしがみつき、舵を、ほんの少しずつ、あのいちばん危うい一点から、逸らし続ける。それが、たとえ、何代かかろうとも。
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明治に、なった。
炭鉱は、官のものとなった。国が掘った。しかし、遅々として進めないそのやり方に、国が業を煮やした。そして、やがて、三井の手に渡った。近代の技術が、入ってきた。それとなく、その技術が入らないようにしていたのに、入られてしまった。西洋の機械が、蒸気の力が、坑を、それまでとは比べものにならぬ速さと深さで、掘り進めた。竪坑が穿たれた。地の底へ、まっすぐに。百尺。二百尺。それまで、途方もなく遠いと思われていた深さへ、坑道は、みるみる届いていった。
三池の家は、この近代化の渦の中にも、あった。
もう、藩に訴え出る当主ではなかった。時代は、変わった。家の者は、炭鉱の技術者として、あるいは、現場の監督として、坑の内側にいた。表向きは、石炭を、一尺でも多く掘り出すために、働いていた。だが、その心の底には、ただ一つの、代々受け継がれた務めが、あった。
あの、いちばん薄い層にだけは、坑道を向けさせぬ。
家の者は、抗った。地質の図面を引くとき、密かに、その方角を避けた。この方角は、断層がある、水が出る、地盤が悪い、と、もっともらしい理由をつけた。実際、そう報告すれば、会社は、その方角の採掘を、後回しにした。何十年も、家の者は、そうやって、坑道の進む先を、あの一点から、逸らし続けた。
誰にも知られずに。感謝もされずに。ただ、代々、黙って。
それは、報われぬ務めであった。逸らし続けても、逸らし続けても、坑道は、ほかの方角から、じわじわと、深く、広く、あの一点を囲むように、迫っていった。石炭が、あるからである。あの、いちばん薄い層の周りには、良質の石炭が眠っていた。会社は、それを掘りたがった。家の者が、いくら避けさせても、別の技師が、別の坑道を、そちらへ向けようとした。
それでも、三池の家は、諦めなかった。
一人が逸らせば、また一人が向ける。向ければ、また逸らす。何十年もの、目に見えぬ綱引きが、地の底で続いていた。会社の、掘りたいという意志と、三池の家の、あそこだけは、という意志と。石炭という、莫大な富を賭けた、綱引き。そして――綱引きの常として。片方が、金と、人と、機械の、すべてを注ぎ込める、大きな力であり。もう片方が、たった一つの家の、密やかな抵抗で、あったなら。
勝敗は、初めから、見えていた。
だが、三池の家は、負けを認めなかった。認めれば、その日に、坑道は、あの一点へ、まっすぐ向かうからである。負けたくない、という、その一心だけが、家を支えていた。勝てぬと知りながら。ただ、一日でも、長く。あの、最後の一枚を、削らせぬために。
* * *
坑が深くなるにつれて、不吉なことが、起こりはじめた。
それらは、初めのうちは、炭鉱につきものの災いとして、片づけられた。
落盤。
出水。
坑内の火。
ガスの突出。
炭鉱とは、そもそも、危険な場所である。地の底で働く者には、死が、常に隣り合わせであった。だから、坑夫が、幾人、命を落としても、それは、痛ましいことではあったが、異常なことではなかった。
実際、記録には、幾度もの災害が、残されている。
ある年の出水。
ある年のガス爆発。
ある年の落盤。
それらは、みな、実際に起こったことであり、多くの坑夫が、命を落とした。この国の近代を支えた、地の底の労働は、おびただしい犠牲の上にあった。それは、まぎれもない史実である。語り手は、それらの犠牲を、決して軽んじない。それらは、怪異ではない。人が、地の底で働き、そして、死んだ、という、重い事実である。
だが。
三池の家の者だけは、その、幾度もの災害の中に、ときおり、ほかとは違う、においを、嗅ぎ取っていた。
落盤が起きた坑区。その崩れ方が、おかしい。
まるで、下から突き上げられたような。
出水があった切羽。
その水の味が、おかしい。
塩辛い。
海から、何里も離れた、地の底で。
そして、そういう、おかしな災害のあった坑区では、決まって、その後、坑夫たちが、妙なことを言うのであった。
暗がりで、水の音がする。
ヒタヒタと、水気を帯びた足音がする。
坑道に、大きな鱗が落ちていた。
誰もいないのに、何かを数える声が、聞こえる。
灯が、ひとりでに消える。
三池の家の者は、それを聞くたびに、青ざめた。
近づいている。坑道が、あの層に、近づいている。小さな、緩み(・・)が、起こりはじめている。まだ、破れてはいない。だが、薄くなった岩の、向こうの気配が、少しずつ、滲み出しはじめている。家の者は、いよいよ必死に、その方角からの採掘を、逸らそうとした。だが――良質の石炭は、まさに、そこにあった。会社は、どうしても、そこを掘りたがった。
そして、家の者は、幾度目かの、その密やかな抵抗のさなかに。
ついに、恐れていた報告を、聞くことになる。
――第七の切羽で。おかしなものに、行き当たった、と。
その報告を受けたときの、当主の顔を。語り手は、こう描いておく。それは、ついに、負けたか、という顔ではなかった。掘るなと、あれほど言うたのに、という、諦めの顔でもなかった。
それは――まさか、行き当たったか、という。
五百年、恐れ続けてきたことが、とうとう、現実になってしまった、という。信じたくない、あってはならぬ、しかし、来るべくして来た、その一点を、目の前に突きつけられた者の。絶望と、そして、その絶望の、いちばん底で、なお消えずに灯っている――負けてたまるか、という、一点の火の。
その両方が、混じり合った顔で、あった。
当主は、立ち上がった。第七の切羽へ、向かうために。まだ、間に合うかもしれぬ。まだ、閉じられるかもしれぬ。負けを認めるのは、まだ、早い。――そう、自らに言い聞かせながら。
だが、そのとき、地の底で、実際に、何が起こっていたか。
それを語るには。章を、あらためねばならない。
透という若者が、あの年表の、素っ気ない一行――『この年、坑内災害。詳細は、記録に、乏しい』――の前で、足を止めた、あの災害。三池炭鉱の百年で、最も大きく、最も語られなかった、その日のことを。




