↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
九州の地下に眠る海  作者: めこねこ
第五章 荒尾

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
17/23

第一章 欠けた一束

 五百年を、一息に、下ろう。


 燃える石のあの晩から、五百年。荒尾は、もうあのころの名もなき丘陵ではない。石炭が、この土地を変えた。掘って、掘って、掘りぬいて、丘の下は蟻の巣のように、坑道が縦横に走った。人が集まった。一万にも満たなかった界隈の人口は、最も栄えたころ、大牟田と合わせて三十万を超えた。町が生まれ、鉄道が通り、港が築かれた。すべては、あの燃える石の、魅力の為せる技であった。


 そして、その石炭も、掘り尽くされた。


 平成九年、坑は閉じられた。百年を超える採炭の歴史が、幕を下ろした。人は去り、坑道は水に沈められ、あるいは埋め戻された。三十万の賑わいは、遠い語り草になった。


 いま、令和八年の、冬。


 荒尾の丘に残っているのは、赤煉瓦の、櫓である。


 万田坑。かつて、日本一の深さを誇った、竪坑の跡。赤い煉瓦の巻揚機室。鉄骨の櫓。そして、埋め立てられた二百七十四メートルの竪坑の、坑口。それらは、いま世界文化遺産として、静かに保存されている。柵で囲われ、順路が定められ、料金所が置かれ、ガイドが案内をする。人々が訪れる。写真を撮る。かつて黒いダイヤと呼ばれた石を、地の底から運び上げた、その機械の亡骸を、見物する。


 誰も、その二百七十四メートルの坑口の、さらに下を思わない。


 順路の案内板には、書かれていない。竪坑は埋め立てられました、と書いてある。だが、埋め立てられたのは、坑口からしばらくのところまでである。その下は――その遥か下は、どうなっているのか。案内板は語らない。ガイドも語らない。あるいは、語ることを許されていない。


 語り手だけが、知っている。


 その、埋め立てられた坑口のさらに下、水に沈んだ坑道の、そのいちばん深い、いちばん暗い、いちばん奥に――鉄の戸が、ある。人の手で掘り抜かれ、そして、いま、辛うじて蓋をされている、五つ目の戸が。


*  *  *


 その日、万田坑に、一人の若者が来た。


 歳は、二十歳をいくつか出たばかり。まだ学生のようにも見える、痩せた青年であった。名をここでは、仮に、透――「とおる」、としておく。透は、その朝、福岡から電車を乗り継ぎ、バスに揺られて、荒尾に着いた。手には、大きな封筒を、一つ、提げていた。


 透がこの土地に来たのは、その封筒の、中身のためであった。


 三月ほど前、透の許に、一人の男から、荷物が届いた。男は、透の遠い縁者であった。出版の仕事をしていた、とだけ、聞いている。ほとんど会ったこともない。その男が、ある日、忽然と行方をくらませ、そして、失踪の前に、透の許へ、この荷物を送りつけていた。


 荷物の中身は、四つの、原稿の束であった。


 阿蘇。人吉。八代。天草。四つの土地の、四つの、恐ろしい話。透は、それを読んだ。読んで――信じはしなかった。信じられるものではなかった。だが、忘れることも、できなかった。四つの束の、いちばん最後、天草の話の結びに、こう書かれていたからである。


 ――私は、五人目の書き手である。あとは、あなたが、どう、なさるか。


 あなた、と、名指しされていた。透は、その五人目の男から、名指しで、この束を託されたのだ。読む者のところへ、来る。読まれなければ、いなかったことになる。だから、来る。透は、それを読んでしまった。読んでしまった以上、透は、もう、六人目になっていた。


 そして、透は、気づいていた。


 四つの束には、五つ目が、欠けている。


 阿蘇の火。人吉の水。八代の灯。天草の波。四つの戸のことは、書かれている。だが、話の中で、幾度も繰り返し示唆される、五つ目の戸――そのことだけが、どこにも書かれていない。五人目の男は、五つ目を書く前に、消えた。あるいは、書けなかった。あるいは、五つ目を書くために、どこかへ行った。


 透は、四つの束を読み込むうちに、五つ目の戸が、どこにあるかを突き止めた。荒尾。三池炭鉱。鉄の戸。そして、いま、その真上に、立っている。


 なぜ、透が、来たのか。


 透自身にも、うまくは言えなかっただろう。怖いもの見たさ、ではなかった。義務感、でもなかった。ただ――四つの話を読んで、そのいちばん最後が、欠けたままなのが、耐えられなかった。物語は、終わっていなかった。終わっていないものを、そのままにはしておけなかった。若さというものは、時に、そういう衝動を持つ。完結していないものを、完結させたい。たとえ、それがどのような結末で、あろうとも。


 透は、まだ若かった。先が、あった。だから、来られたのだ。


 すべてを見てきて、疲れ果てた者には、この最後の一歩は、踏めない。この最後の一歩は、まだ何も失っていない者、まだこれから生きていく者にしか、踏めない。五人目の男が、この束を、老いた誰かではなく、透のような若者に託した理由も、あるいは、そこにあったのかもしれない。


*  *  *


 万田坑ステーションで、透は、入場券を買った。


 券売機の脇に、パンフレットが積んであった。世界遺産、明治日本の産業革命遺産。透は、それを一枚、取った。写真の中の赤い櫓が、冬の青い空に映えていた。美しい、と、透は思った。恐ろしい話の舞台であることを、忘れそうになるほど、それは、ただ美しい、産業遺産の風景であった。


 展示室を抜けた。パネルと、ジオラマ。かつての坑内の様子。炭鉱夫たちの道具。古い写真。石炭が、いかにして掘られ、運ばれ、この国の近代を支えたか。誇り高い歴史であった。壁一面の年表。燃える石の発見から、閉山まで。五百年。そこには、無数の人の、汗と命が、刻まれていた。


 透は、その年表の、ある一点で、足を止めた。

 昭和の、ある年の欄。ほかの出来事に紛れて、ごく小さく、こう記されていた。


「この年、坑内災害。詳細は、記録に、乏しい」


 それだけであった。何人が、どうなったのか。何が起きたのか。書かれていない。ほかの大きな出来事は、写真つきで大きく扱われているのに。その一行だけが、奇妙に素っ気なく、まるで、そこだけ誰かが、言葉を選び、削り、最小限に留めたかのように、そこにあった。


 透は、知らない。


 その一行が、何を指しているのかを。だが、語り手は、知っている。その、昭和のある年の、記録に乏しい坑内災害こそが――鉄の戸が掘り抜かれた、その日のことであった。三池炭鉱の百年の歴史の中で、最も大きな、そして、最も語られなかった、災害。人の言葉で書けば、崩落、となる。だが、崩れたのは、岩盤だけではなかった。


 その話は、後に、語られる。


 いまは、透の背中を、追おう。透は、年表の前を離れ、順路に従って、外へ出た。冬の光の中に、赤い櫓が聳えていた。その真下へ。地の底の、戸の真上へ。透は、歩いていく。


*  *  *


 屋外の遺構を、透は、歩いた。


 巻揚機室の、巨大な機械。安全灯室。浴室。炭鉱夫たちが、地の底へ潜る前と、上がった後に通った、その場所。すべてが、時を止めていた。冬の風が、赤煉瓦の壁を撫でて、通り過ぎた。観光客の姿は、まばらであった。数組の家族連れ。年配の夫婦。カメラを提げた一人客。みな、思い思いに、遺構を眺め、写真を撮り、静かに歩いていた。


 誰も、足の下を、思わない。


 透は、それが奇妙でならなかった。四つの束を読んでしまった透には、この平和な観光の風景が、薄い膜の上に載っているように見えた。膜の下には、坑道がある。水に沈んだ、暗い坑道が。そして、そのいちばん奥には――。だが、ここにいる誰も、それを知らない。知らずに、写真を撮っている。知らずに、笑っている。知らずに、歩いている。


 知らずに、地面を、踏み固めている。


 その、無数の足が。何十年も、この遺構を訪れた、何百万の足が。知らず知らず、この地面を、上から踏み、固め、押さえつけてきた。まるで――蓋をするように。まるで、下から何かが出てこないように、上から重しを載せ続けてきたかのように。


 透は、ふと、そんな埒もない考えに、囚われた。


 だが、それは、埒もない考えではなかった。語り手だけが、知っている。人々の無知な足踏みが、それと知らぬまま、この百年、鉄の戸の蓋を、上から踏み固め、辛うじて押さえ続けてきたことを。八代の海で、人が火を見ることが、火を沖に留める楔であったように。荒尾の丘で、人が地を踏むことが――戸を閉じておく楔で、あったことを。見る者が絶えれば、火が上がったように。踏む者が絶えれば――。


 だが、いまは、踏む者が絶えることは、ない。


 なぜなら、ここは、世界遺産だからである。永久に保存される。永久に人が訪れる。永久に地面が踏み固められる。それは、偶然ではなかった。


 透は、まだ、そこまでは思い至らない。透は、ただ、赤い櫓を見上げ、その足元の、埋め立てられた坑口の、金網越しに、暗い穴の名残を覗き込み、そして、かすかな――ごくかすかな揺れを、足の裏に感じて、顔を上げた。


 地面が、揺れた、気がした。


 地震、ではない。誰も気づいていない。家族連れも、年配の夫婦も、平気な顔で歩いている。だが、透の足の裏には、確かに伝わった。地の遥か底から。規則的な、低い、拍動のような揺れ。一度。そして、間を置いて、もう一度。まるで、大きなものが、深いところで、ゆっくりと脈を打っているような。もしくは、寝相の悪い巨大な何かが、軽い寝返りを打ったような。


 透は、金網を握って、暗い坑口を見下ろした。


 風が、吹き上げてきた。地の底からの、冷たい、湿った風。その風は――かすかに、潮の匂いがした。


 海から、何キロも離れた、丘の上で。埋め立てられた、はずの、竪坑の底から。潮の匂いが、した。


 透の、背後で、声がした。


「坊《ぼん》。そこは、あんまり、覗きこまんほうが、よかよ」


 振り返ると、一人の老人が、立っていた。作業着に、ヘルメット。世界遺産のガイドの腕章をつけた、小柄な老人であった。日に灼けた皺深い顔に、穏やかな目をして、透を見ていた。


「昔、ここで、働いとった者ですたい」と、老人は言った。「案内が、要るなら、してやろうか。……あんた、ただの、見物じゃ、なかろう」


 老人の目が、透の提げた封筒を、見た。

 それから、その暗い坑口を、見た。


 そして、もう一度、透を見て、静かに言った。


「その顔は――なんか、探しに、来た、顔たい」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。