第二部 渡る
――編者の記録より
【十二月二日】
発つ朝、私は、机の抽斗から巻き尺を取り出して、鞄に入れた。
旅先に、測るべき対象は、ないはずだった。それでも、入れた。測らずにいられる自信が、もう、なかったからだ。
鞄には、天草の封筒と併せ、三つの束も入れた。阿蘇の手記。人吉のノート。八代の語りの綴り。持っていく理由を、私は自分に、参照のためだ、と説明した。半分は、本当だと思う。残りの半分については、考えないことにした。三つの一束が、海へ帰りたがっている――そんな考えは、正気の側に踏みとどまりたい人間の、持つべき考えではない。
社には、長い休みを願い出た。理由の欄は、うまく、書けなかった。
羽田から、熊本へ飛んだ。着陸の少し前、窓の下に、冬枯れの外輪山が見えた。カルデラの縁が、鈍い光の中で、巨大な器の口のように開いていた。あの窪みのどこかに、地図から消えた谷が――
私は、窓の日除けを、下ろした。
*
【十二月三日】
熊本市内で一泊し、朝のバスで天草へ向かった。
宇土半島を西へ。三角の港を過ぎると、海の上を渡る橋が、はじまる。天草五橋。半島と島々を、五つの橋が、順に繋いでいく。車内の観光案内が、橋は五つあります、と言った。
ひとつ。
最初の橋を渡りながら、私は、数えはじめている自分に、気づいた。ふたつ。やめよう、と思った。三つ。窓の外を見た。四つ。海を見た。そして、気づいたときには、五つ目を、渡り終えていた。
五つの橋。
五つの、戸。
私は、その連想に、蓋をした。蓋、という言葉を選んだ自分に、また、蓋をした。
橋の上から見下ろす海は、十二月の光の下で、油を流したように、平らだった。波が、ない。風はあるのに、波が、ない。一艘の漁船が横切っていったが、その航跡だけが、いつまでも、白く、消えずに残っていた。掻き乱すものが、ほかに、何もないからだ。凪、というより、それは、静止だった。
南のほうに、島影のあいだから、遠い海面が覗いた。あちらが、八代の海になるはずだった。あの婆さまが九十年、波音を聞き続けた海。源蔵という人が、死んでなお数え続けた海。私は、目礼のような気持ちで、そちらを見て――すぐに、目を戻した。遠い海面も、鏡だった。
松島を過ぎたあたりで、膝の上の鞄が、重くなった気がした。
開けると、三つの古い一束を包んだ紙が、うっすらと、湿り気を帯びていた。今朝、ホテルを出るときには、乾いていた。海を渡ったからか。それとも――連れて、帰ってきたからか。
天草の封筒だけが、乾いたままだった。
隣の席の老人が、窓の外を見たまま、誰にともなく、呟いた。
「今年ん海は、鳴らんなあ」
独り言は、誰にも、拾われなかった。私も、拾わなかった。拾えば、続きを、聞くことになる。
*
本渡で乗り継ぎ、午後の遅くに、和ヶ浦に着いた。
バスを降りたのは、私ひとりだった。
彼女の綴りにあったとおりの、入り江だった。坂の途中の小さな教会堂。その先の寺。港のそばの神社。歩いて五分のあいだに、三つの祈りの場所。綴りで読んだ風景を、自分の足で辿るのは、奇妙な体験だった。初めて来た場所なのに、答え合わせをしているような。
そして、静かだった。
波音がない、ということが、これほど、音として聞こえるものだとは、知らなかった。港に立つと、耳が、勝手に波音を探す。探して、見つからず、その見つからなさが、耳の奥で、圧力になる。沈黙は、無音ではなかった。沈黙は、そこに、あった。
*
港のそばの商店に、入った。
綴りにあった、ミサヲさん、と思われる老女が、店番をしていた。私は、深江トキさんのお宅を訪ねたい、と告げた。
老女の顔から、すっと、表情が引いた。
「トキさんな、三年前に、亡くなりよらしたばい」と老女は言った。「あんた、どちらさんな」
東京から来た、出版の仕事をしている者だ、と答えた。老女は、私を、上から下まで見た。それから、柔らかい声で、言った。
「そぎゃん遠くから。ばってん、あすこはもう、片づけの最中やけん。よそん人に、見せるごたるもんは、なんも、なかですよ」
私は、この柔らかい戸の閉まり方を、知っていた。
読んだことが、あった。人吉の、あのノートの中で。「うちんとこは、もう、よかですけん」。土地が、よそ者に向ける、優しい拒絶の文法。怒気はなく、敵意もなく、ただ、戸が、静かに閉まる。三つの一束が、私に、その読み方を教えてしまっていた。
だから私は、閉まりかけた戸の隙間に、持っているものを、置いた。
「トキさんの、手帳のことで、参りました」
老女の手が、止まった。
長い沈黙のあと、老女は、低い声で言った。
「……あんた、なして、そるば知っとらすと」
答える代わりに、私は、頭を下げた。老女は、しばらく私を見て、それから、ふう、と息をついた。
「はっちゃんとこに、行きなっせ。坂ん上の、いちばん高か家たい」
礼を言って、店を出ようとしたとき、背中に、声が来た。
「そいで、あんた」
振り返ると、老女は、もう私を見ていなかった。港のほうを、見ていた。
「よそん人やけん、ひとつだけ、言うとくばい。――夜、ウタの聞こえても、ついて行きなさんな。窓ば閉めて、寝なっせ」
*
坂の上の家の戸を叩くと、若い女性が出てきた。
深江羽鳥さん。綴りの主。警戒の色を隠さない顔で、彼女は、私を見た。当然だった。片づけの最中の家に、師走の夕方、見知らぬ男が訪ねてきたのだ。
私は、名を名乗り、勤め先を告げた。ここには、記さない。それから、鞄から、あの封筒を出した。
「これが、先月の終わりに、私のもとに届きました。あなたの、書かれたものだと思います」
彼女は、封筒の中の綴りを見て――最初、意味が分からない、という顔をした。それから、頁をめくるにつれて、顔から、血の気が引いていった。
「……これ、私の、ノートの」
彼女は、家の奥へ駆け込み、大学ノートを持って、戻ってきた。開いて、見せてくれた。ノートの、後ろのほうの頁が、数枚、破り取られていた。切り口は、綺麗だった。定規を当てて、破いたように、まっすぐに。
「破った覚えは、ないです」と彼女は言った。声が、乾いていた。「誰かに、見せた覚えも。……出した覚えも」
私は、封筒の消印の日付を、彼女に見せた。彼女は、壁のカレンダーを遡って、その日、自分がこの家に、ひとりでいたことを、確かめた。誰も来ていない。郵便局へも、行っていない。
「じゃあ、誰が」と彼女は言った。「誰が、出したんですか」
私は、答えを持っていなかった。いや、正確に言えば、持っている答えは、口にできる種類のものではなかった。人吉のノートの中の、あの言葉――水は、字を読まない。字は、外に出る。文書は、届く。届くように、なっている。私は、その配達網の、受取人に、いつのまにか、指定されている。
「分かりません」と、私は言った。嘘では、なかった。
*
彼女は、私を、家に上げてくれた。
警戒が解けたからではないと思う。むしろ、ひとりで抱えるには、破られた頁も、届いた封筒も、あまりに不気味だったからだろう。ひとに話せる相手が、たぶん、この島には、いなかったのだ。
茶を淹れてもらいながら、私は、いくつかのことを、確かめた。
島に戻って、どれくらいになりますか、と聞いた。彼女は、二週間の、つもりでした、と答えた。それから、壁のカレンダーを見て、小さく、笑った。笑い方が、少し、こわかった。
「四箇月、経ってました。気づいたら」
帰らなかった理由を、聞いた。彼女は、しばらく考えて、片づけが終わらなくて、と言い、それから、言い直した。
「……違うな。ウタが、あったからだと、思います。あのウタを、聞いてしまってから、なんだか、ここを離れたら、いけない気がして。離れたい、とも、思わなくなって」
九月十一日のことを、聞いた。日付を出した瞬間、彼女の目が、変わった。どうして、その日を、と。私は、答えをはぐらかした。まだ、三つの一束の話を、する勇気がなかった。どこから話せばいいのかも、分からなかった。
彼女は、その夜のことを、こう語った。
「あの夜だけ、ウタも、やんだんです。波の音がないのは、ずっとだけど、あの夜は、ウタまで、やんで。虫の声も、風の音も、何もかも。海が――息を、止めたみたいに。世界から、音が、抜けた夜でした。朝まで、一睡もできなかった。静かすぎて」
「次の日から、ウタは、また始まって。……ただ、前より、近くなってました。それから、少しずつ。週ごとに、少しずつ、近くなってる気がします」
九月十一日。人吉が霧に沈み、八代の火が岸に上がった、あの夜。天草では、海が、息を止めた。
そして、それからずっと、ウタは、近づき続けている。
*
日が落ちてから、彼女は、祖母の手帳を、見せてくれた。
黒い表紙の、古い手帳。頁を開いた瞬間、私は、自分の呼吸が、浅くなるのを感じた。細かいカタカナが、びっしりと、並んでいた。意味の分からない音の羅列。頁を追うごとに老いていく筆跡。最後のほうの、なぞり書きの反復。そして、後ろ半分の、波の印の記録と、最後の頁の、あの、まっすぐな横棒。
「読んで、みてもらえますか」と私は頼んだ。「お祖母さまが、読んでいたとおりに」
彼女は、少し、ためらってから、読んだ。子供のころから耳で覚えた、あの区切りで。一息に、流れるように。
「アメマリヤ、カラサビンノ、ドミノスケコシタノウミシズマリタマエ、サンタマリヤ――」
待ってください、と私は言った。自分の声が、震えているのが分かった。
「いまの、真ん中のところを。もう一度。ゆっくり」
「ドミノスケコシタノウミシズマリタマエ、ですか?」
私は、手帳を、指でなぞった。そして、彼女とは、違う場所で、音を、区切った。
「ドミノ、スケコ。――シタノウミ。シズマリ。タマエ」
間が、あった。
彼女の唇が、私の区切りを、なぞった。したのうみ。しずまり。たまえ。
「……下の海、鎮まり、給え?」
「日本語です」と、私は言った。「音の中に、日本語が、埋まっている。外つ国の祈りの音に、挟み込まれて。おそらく、四百年――誰も、区切りを、間違えたまま。いや」
私は、言い直した。
「正しく、間違えたまま、伝えてきた」
彼女は、手帳を見つめていた。意味のなかったはずの音に、意味が、あった。祖母が九十年、意味を知らずに唱え続けた音の中に、日本語の祈りが、ずっと、眠っていた。彼女の顔には、驚きと、それから、もっと別のもの――たぶん、畏れに近いものが、浮かんでいた。
「下の海って」と彼女は言った。「何ですか」
私は、すぐには、答えられなかった。
その四文字を、私は、知っていた。最初の一束――阿蘇の手記の中で、何十回も、読んだ。山の下に広がる、もうひとつの海。眠っているもの。五つの戸。この島の、意味を失くした祈りの中に、あの手記と同じ言葉が、眠っていた。四百年前から。
「……長い話に、なります」と、私は言った。「そして、信じてもらえるかどうか、分からない話です。明日、聞いていただけますか。私の鞄の中に、読んでいただきたいものが、三つ、あります」
*
夜半、ウタが、始まった。
彼女が、縁側の障子を、細く開けた。凪いだ、真っ暗な海の沖から、あのウタが、渡ってきた。綴りで読んだとおりの――いや、読んで想像したものより、ずっと、近いウタだった。たくさんの声。低く、柔らかく、寄せては、引く。
そして、私の隣で、彼女が、口ずさみはじめた。
無意識のようだった。目は、暗い海を見たまま。唇だけが、小さく、あの節を、なぞっていく。すると――沖のウタが、やんだ。
彼女の綴りで、読んでいた。それでも、実際に耳にすると、背骨が、冷えた。凪いだ海の沈黙が、質を変えたのが、分かった。ただの静けさではない。聴いている静けさだった。海のぜんぶが、耳に、なっていた。
彼女の、小さな唄だけが、夜の中に、あった。
そして、私は、気づいた。
私は、数えていた。
彼女の唄う節の、区切りを。ひとつ。ふたつ。八代の癖が、私の中で、勝手に動いていた。やめろ、と思った。膝の上で、指を握り込んだ。それでも、頭の中の声は、数え続けた。五つ。六つ。七つ。
八つ。
九つ。
そこで、彼女は、ふっと、唄を、やめた。
偶然だと、思いたい。
沖のウタが、遠くで、また始まった。彼女は、我に返ったように、障子を閉めた。すみません、なんか、勝手に、と小さく笑った。私は、なんでもない返事をした。何と返したか、覚えていない。
私は、十を、数えずに、済んだ。
――今夜は。




