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九州の地下に眠る海  作者: めこねこ
第四章 天草の波

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13/23

第一部 和ヶ浦

 ――深江羽鳥の綴りより



 島に戻って、一日目


 フェリーを降りたときから、なにかが、静かすぎると思っていた。


 三年ぶりの島だった。祖母の葬式のとき以来。あのときは、いろんなことが慌ただしくて、島の音を聞く余裕なんてなかったから、気のせいかもしれない。そう思うことにして、バスに乗った。天草の下島を、海沿いに、南へ。窓の外は、覚えているままの海だった。覚えているままの、入り江と、石垣と、段々畑。


 和ヶ浦のバス停で降りたのは、私ひとりだった。


 集落は、変わっていなかった。坂の途中の小さな教会堂。その先の寺。港のそばの神社。歩いて五分のあいだに、三つの祈りの場所が、あたりまえの顔をして並んでいる。子供のころは、それが普通だと思っていた。よそでは普通じゃないと知ったのは、島を出てからだ。


 祖母の家は、港を見下ろす坂の上にある。


 三年、閉めきっていた家。町の空き家バンクから連絡が来て、家をどうするか決めてほしい、と言われて、それで、私は帰ってきた。会社は先月、辞めたばかりだった。熊本市内で七年働いて、二十九歳で、辞めた。理由は、うまく言えない。強いて言えば、疲れた。次を決めないまま辞めるなんて、と母には電話で呆れられたけど、ちょうどよかったのだ。家の片づけには、時間がかかる。


 二週間の、つもりだった。


 鍵を開けると、家のなかは、線香と、蝋燭と、潮の匂いがした。


 三年前と、同じ匂い。祖母の匂いだ。仏間には、仏壇と、その隣の小さな棚に、白い観音様が、並んで置いてある。子供のころから、そういうものだと思っていた。仏様と、観音様。祖母は、朝と夕方、その両方に手を合わせていた。それも、そういうものだと思っていた。


 観音様の顔を、久しぶりに、まじまじと見た。


 白い磁器の、子供を抱いた観音様。その子供の組んだ手の形が、少しだけ、変わっていることに、私は、二十九歳になって、初めて気がついた。


*


 三日目


 片づけは、思ったより、進まない。


 祖母は、ものを捨てない人だった。戸棚という戸棚に、几帳面に紐で括られた古いものが詰まっている。捨てる、残す、迷う。三つの山を作りながら、私は、祖母の九十年を、少しずつ、掘り返している。


 今日、簞笥のいちばん下の引き出しから、桐の小箱が出てきた。


 中身は、三つ。


 ひとつは、数珠。ただし、玉が、貝殻でできている。小さな巻貝を、丁寧に磨いて、繋いだもの。房のところに、銀色の、小さな飾りがついている。よく見ると、それは、十字の形をしていた。


 ひとつは、古い絵。木の板に描かれた、観音様の絵。仏間の白い観音様と、同じ構図。子供を抱いて、立っている。ただ、その背景に、岩場と、洞窟のようなものが、描き込まれている。観音様の絵に、背景なんて、あっただろうか。絵の具は褪せているのに、その洞窟の暗がりだけが、妙に、黒々としていた。


 そして、ひとつは、手帳。


 黒い表紙の、古い手帳。開くと、細かい字が、びっしりと並んでいた。祖母の字だ。だけど、読めない。日本語じゃ、ない。


 カタカナだった。カタカナで、意味の分からない音が、延々と、綴られている。


 アメマリヤ、カラサビンノ、ドミノスケコ――


 声に出して読んでみて、あ、と思った。


 知っている。この音の並びを、私は、知っている。


 祖母の、おまじないだ。


 祖母は、朝と夕方、仏壇と観音様に手を合わせたあと、必ず、海の見える縁側に出て、小さな声で、何かを唱えていた。意味の分からない、歌のような、呪文のような、長い言葉。子供のころ、一度だけ、聞いたことがある。ばあちゃん、それ、なんて言いよるの、と。


 祖母は、笑って、言った。


「ばあちゃんも、知らんとよ」

「知らんの? 知らんとに、唱えよるの?」

「知らんでも、唱えんばん。ばあちゃんの、ばあちゃんも、そのまた、ばあちゃんも、ずうっと、唱えてきなはったけん。意味はなあ、とうの昔に、どっかに、落としてきたばってん――音だけは、落とさんごつ、って」


 音だけは、落とさんごつ。


 手帳は、その「音」の、全部だった。祖母が、忘れないように、カタカナで、書き留めていた。祖母の字は、頁を追うごとに、老いて、震えていく。最後のほうの頁は、同じ音の並びが、何度も、何度も、繰り返し書かれていた。まるで、消えかけの記憶に、上から何度も何度も、なぞり書きをするように。


 そして、手帳の後ろ半分には、別のものが書かれていた。


 日付と、記号。毎日の日付の横に、波の形のような、小さな印。印は、三段階ある。小さい波、普通の波、大きい波。何十年分も。祖母は、毎日、何かの「波」を、記録していた。


 最後の記入は、祖母が死ぬ、前の日だった。


 その日の印は、私がそれまでの頁で見たことのない、四つ目の印だった。


 波の形では、なかった。


 ただの、まっすぐな、横棒だった。


*


 五日目


 港のそばの商店に、買い出しに降りた。


 店番のミサヲさんは、私が子供のころから店番だった。齢は、たぶん、八十を超えている。私の顔を見て、トキさんの孫の、はっちゃんね、と、すぐに分かってくれた。


 世間話のつもりで、島は静かですね、と言った。


 ミサヲさんは、少し、黙った。それから、レジの向こうから、港のほうへ、目をやった。


「静かすぎるとよ」と、ミサヲさんは言った。「波の、変わったけんね」

「波が、変わった?」

「凪の、続きよるとよ。もう、ふた月も。風の吹いても、波の、立たん。海がなあ、息ば、殺しとらすごたる」


 息を、殺している。


「そいでなあ、はっちゃん。おかしかとが、もうひとつ、あるとよ。凪いどるとに――沖で、海鳴りの、しよるとたい。ごろごろ、ごろごろ、ち。風もなか、波もなか、真っ平らの海の、ずうっと沖で。夜になると、よう聞こゆる。年寄りはみんな、気味ん悪か、ち言いよらす」


 帰り道、港の防波堤から、海を見た。


 ミサヲさんの言うとおりだった。海は、鏡みたいに、平らだった。夕方の光が、油を流したような水面に、そのまま映っている。波の音が、しない。港なのに。海のそばなのに。子供のころ、この島の音といえば、波の音だった。どこにいても、いつでも、遠くで、ざざ、ざざ、と鳴っていた。それが、しない。


 音の抜け落ちた風景は、写真のなかに立っているみたいで、私は、少しだけ、怖くなった。


*


 八日目


 夜中に、ウタで、目が覚めた。


 最初は、夢だと思った。遠くで、誰かが、ウタっている。ひとりじゃない。たくさんの声が、揃って、ゆっくりした節を、ウタっている。男の声とも、女の声ともつかない。低くて、柔らかくて、波のうねりみたいに、寄せては、引く。


 目が覚めても、聞こえていた。


 窓を開けた。ウタは、海のほうから、来ていた。凪いだ、真っ暗な海の、沖のほうから。風もないのに、ウタだけが、水面を渡って、届いてくる。


 こんな夜中に、沖で、誰がウタうんだろう。漁船の灯りは、ひとつも見えないのに。


 そして、気づいてしまった。


 その節を、私は、知っている。


 祖母の、おまじないと、同じ節だった。


 言葉までは、聞き取れない。でも、旋律が、同じ。あの、上がって、下がって、最後に長く延ばす、独特の節回し。祖母が九十年、毎朝毎夕、海に向かって唱えていた、あの節。


 沖のウタは、夜明け前に、やんだ。


 私は、朝まで、眠れなかった。


*


 九日目


 ミサヲさんに、夜のウタのことを、聞いてみた。


 ミサヲさんは、今度は、長く、黙った。それから、店の奥をちらりと見て、声を低くした。


「聞こえたとね、はっちゃんにも」

「ミサヲさんも、聞いたの?」

「年寄りはみんな、聞いとらす。ばってん、誰も、口にゃ、出さんと。……あんなあ、はっちゃん。あん節はなあ、あんたのばあちゃんの、唱えよらしたとと、同じ節やろ」

「うん。同じだと、思う」

「そうたい。あれはなあ――古か、古か、唄やとよ。この島の、いちばん古か節。うちのばあちゃんの言いよらしたとには」


 ミサヲさんは、そこで、また港のほうを見た。


「――四郎さまも、唄わした、唄っち」

「四郎さま……って、天草四郎?」

「ほかに、四郎さまの、おらすな」


 それ以上は、ミサヲさんは、話してくれなかった。ただ、帰りぎわに、ひとつだけ、言われた。


「はっちゃん。トキさんの、手帳、あったやろ」


 どうして知っているんだろう、と思った。


「あったら――捨てなさんなよ。燃やしなさんなよ。あれはなあ、あんたが思うとるより、ずっと、大事なもんばい」


*


 十日目


 夜、また、ウタが聞こえた。


 私は、縁側に出て、暗い海に向かって、座った。祖母が、毎朝毎夕、座っていた場所に。膝の上に、祖母の手帳を、置いて。


 沖のウタに、耳を澄ました。そして、手帳のカタカナを、目で追った。


 合っていた。


 沖のウタの節と、手帳の音の区切りが、ぴったり、合っていた。アメマリヤ、で上がって、カラサビンノ、で下がる。祖母のおまじないは、沖のウタと、同じものだった。いや、逆か。沖のウタが、祖母のおまじないと、同じものなのか。どちらが、どちらを、唄っているのか。


 気づいたら、私は、小さな声で、口ずさんでいた。


 手帳の音を、沖の節に、乗せて。アメマリヤ、カラサビンノ――意味も分からないまま。祖母がそうしていたように。音だけを、落とさないように。


 そして。


 気づいた。


 波の音が――しない。


 いや、もともと、凪いでいて、しなかった。そうじゃない。沖のウタが、やんでいた。私が口ずさみはじめてから、沖のウタが、ぴたりと、やんでいた。夜の海が、しん、と、静まり返っている。まるで。


 まるで、聞いているみたいに。


 私は、唄うのを、やめた。


 しばらくして――沖のウタが、また、始まった。遠くで、低く。何事もなかったように。


 もう一度、口ずさんでみた。


 沖が、やんだ。


 やめた。


 沖が、ウタい出した。


 間違いなかった。偶然じゃ、なかった。


 海が、聞いている。


 私の唄を――海が、聞いている。

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