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九州の地下に眠る海  作者: めこねこ
第三章 八代の不知火

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八ノ火・九ノ火

【八ノ火 出ていった娘】


やっつ 八代ぁ夜ん代 火ん代ぞ



さて。こっからはね、おどんが、婆さんに、なってからの話たい。


おどんが仕えた、三人目の旦那さん。源蔵(げんぞう)さん、ち、いいよった。あの、テレビん撮影のあった晩に、まだ若旦那やった人。そん源蔵さんが、立派な、旦那さんに、ならしよった。


源蔵さんにはね、ひとり娘さ、おらした。


汐里さん、ち、いう。


まうごつきれいか、子でね。賢うて、気の強うて。それでいて、やさしぃか子やった。おどんは、汐里さんが赤ん坊のころから、知っとる。子守りも、した。だけん、ほんなこつ、孫さ、思うとりました。


矢部ん家はね、男が、継ぐとが、ならわしやった。ばってん、源蔵さんには、汐里さんしか、子の、おらんやった。男の子は、ついぞ生まれんやった。だけん、汐里さんが、継ぐことに、なる。汐里さんが、いつか婿ばとって、その婿か、あるいは汐里さん自身が、火ば数える役に、なる。そういう、はずやった。


*  *  *


源蔵さんはね、汐里さんが十五、六になったころ、役目の話ばしたとです。


おまえさんが、いつかこの家の火数帳ば、継ぐとぞ、ち。八朔ん晩に、浜んおりて、火ば、数える役ば、継ぐとぞ、ち。


汐里さんは――嫌がった。


いやいや、無理もなか、ち、おどんは、思うとです。今ん世の中に生まれた、若か娘さんに。海ん底の化けもんば、押さえる役ば継げ、ち、言うても。そぎゃんもん、信じられんとが、あたりまえ。汐里さんは、学校でいろんなことば習うとらした。蜃気楼のことも。科学んことも。


「お父さん、そぎゃん迷信たい」ち、汐里さんは、言うた。「不知火は、蜃気楼でしょう。学校で習うた。そぎゃん化けもんの、おるわけなか」ち。


源蔵さんは、なんも言い返さんやった。


ただ、悲しそうな顔ば、しとらした。言うても分からんとは、分かっとらしたとやろ。今の世に生まれた娘に、これば信じろ、ちゅうとが、どぎゃん難しかことか。


汐里さんはね、高校ば出て。そして――この浦ば、出ていったとです。


大学に行く、ち。福岡の。そして、そんまま、帰ってこんやった。福岡で、仕事さ就いて。そっちで、暮らすごつ、なった。


役目ば、捨てて。家ば、捨てて。


源蔵さんは、止めんやった。無理に引き止めることは、せんやった。「あれん人生やけん」ち、それだけ、言うて。娘ば、送り出した。


*  *  *


源蔵さんは、ひとりになりよった。


奥さんも、早う亡くなって。娘さんは、出ていって。広か屋敷に、源蔵さんとおどんだけ。年寄りが、二人。


ばってん、八朔ん日は、毎年、来る。


源蔵さんは、ひとりで、浜におりていかした。毎年。年ば、とっても。腰が、曲がっても。


おどんも、ついていった。墨ば、する役やけん。ばってん、おどんも、もう婆さんたい。手が震えて、墨も、ようと、すれんごつなった。そいでも、ついていった。源蔵さんを、ひとりにゃ、できんけん。


浜んおりて。源蔵さんが、数えて。おどんが、帳面につける。二人で。年寄りが二人で、寄り添うごつ、して。沖の火ば、押さえとった。


……火数帳の、数さね。


そんころにゃ、もう、ずいぶん、増えとった。


おどんが、初めてお給仕した晩は、十七やった。それが、源蔵さんの代ん終わりごろにゃ――三十ば超すごつ、なっとった。三十以上ん火が、沖んとこで灯りよった。火が、三十も四十も、立つごつなっとった。


源蔵さんは、火数帳ば繰っては、ため息ばついとらした。「増えよる。年々、増えよる」ち。「おどの、目ん黒かうちは、よか。ばってん、おどの、あとは――誰が、数えるとな」ち。


汐里さんは、帰ってこん。


矢部ん血は、源蔵さんで、終わる。


数える者が、おらんごつなる。


*  *  *


あん時は、いつやったか。


そう、大きか地震ん、あった年。


熊本の、大地震たい。山んほうが、ひどう揺れて。城の石垣も、えらい崩れて。あんたも覚えとるやろ。あん、地震。


あん年はね――八朔でもなかとに、火ん、立ったとです。


季節外れに。地震のあった、すぐあとん晩に。沖さ、ぽつり、ぽつりと。八朔でも、なかとに。


源蔵さんは、それば見て、青うならした。「山が、揺れたけん」ち、つぶやいて。「山が、揺れると、海も、揺れる。山ん戸が、軋むと、海ん戸も――」ち。


おどんには、その意味は、ようと分からんやった。山ん戸。海ん戸。源蔵さんは、それ以上は、言わんやった。


ただ、そん晩。源蔵さんは、季節外れの火ば数えに、浜におりよった。八朔でも、なかとに。震える手で、火数帳に書きつけて。


……いまんなって、思うとですよ。


あれは、八代だけの、話じゃ、なかったとやないか、ち。山んほうにも、なんか、あったとやないか、ち。火が、季節外れに立ったとは、山と海が、どこか底んほうで、繋がっとって――山さ揺れたけん、海んほうも、応えて、火ば立てたとやないか、ち。


ばってん、それは、おどんには分からんこと。おどんは、八代ん海しか、知らん。山んことは、山ん人に、聞かんと。


やっつ、八代ぁ夜ん代、火ん代ぞ。


八代、ちゅう名はね、夜ん代、とも、火ん代、とも書くっち。夜と、火ん、土地。昼より夜んほうが、ようけ、ものん見ゆる土地、ち。源蔵さんも最後んほうは、昼より夜んほうが、よう見ゆるごつ、なっとらした。矢部ん家の、目たい。数え続けた者の、目。


……ああ、すまんね。話が、あちこち、飛んで。年寄りの話は、まとまらんけん。


あと、ふたつ。九ノ火と、数えじまい。


いちばん、新しか話と――いちばん、つらか話たい。




【九ノ火 ここん津さ】


ここのつ ここん津さ 来なはんな



六年前ん、こつたい。


あん年は、ひどか大水んあった年やった。


ああ、あんたも、覚えとるやろ。球磨川ん氾濫した、あん年。人吉んほうが、まうごつ、やられて。たくさんの人ん、亡くなった。八代も、川下んほうが、浸かりよった。


つらか、年やった。


ばってんね。おどんがここで話すとは、その大水の話じゃ、なか。大水んことは、おどんが、軽々しく語ってよかことじゃ、なか。亡くなった人ん、おらすけん。


おどんが、話すとは――そん年の、不知火の、こつたい。


*  *  *


そん年の、不知火は。


八朔を、待たんやった。


夏ん盛りに。あの、大水んあった、すぐあとに。沖に、火の、立ちはじめりよったとです。


それも――夜じゃ、なか。


昼たい。


真っ昼間ん、八代ん海に。火ん、立ったとです。


……あんた。それが、どぎゃんおかしなことか、分かるな。


不知火はね、夜ん、もんたい。暗かけん、見ゆっとよ。昼間は、立たん。立ったとしてん、日ん光で、見えん。何百年、何千年と、不知火は、夜ん、もんやった。


それが、そん年は、昼に、立ちよった。


青白か、火が。真っ昼間の、明るか海ん上に。ずらぁりと。日の光んなかでん、はっきり、見ゆっほど、強か火が。


源蔵さんは、それを見て、立ちすくみよりました。


「昼に、立った」ち。「何百年、聞いたことん、なか。昼ん、立つとは――もう、暗いとこん、隠れる気もなかとぞ。堂々と、出てきよる。もう、止めきらんとかも、しれん」ち。


そして、源蔵さんは、そん日から、数えはじめた。


昼も。夜も。


火が、立つ限り。


昼間も、浜におりて、数えて。夜も、寝んで、数えて。三日も、四日も。寝んで。飲まず食わずで。火数帳に、つけ続けよらした。数が、どんどん、増えていくごつなって。三十、四十、五十……、ち。


おどんは、止めたとです。「旦那さん、休みなはらんと、体がもたん」ち。


ばってん、源蔵さんは、聞かんやった。


「おどが、数えるとをやめたら」ち、源蔵さんは、言うた。「そん隙に、火は、岸に、上がりよる。おどが、数え続けとる間だけ、火は沖んおる。だけん、やめられん。いっちょん、見逃しちゃ、ならん」ち。


源蔵さんは、目ん見えて、痩せていからした。


白か、矢部ん家の目が、もっと、白う濁って。昼も夜も、見開いたまんま。寝んけん。まばたきも、せんごつなって。


ばってん、不思議と、火は――秋になって、すうっと、引いたとです。


あん、昼ん火は、ひと夏で、消えらした。また、沖んずっと向こうに、戻っていきよらした。


源蔵さんが、ひと夏、寝んで数え続けたけん、かもしれん。もしかすっと、ただ、向こうの、気まぐれやったかもしれん。分からん。ただ、そん夏は――源蔵さんが、数えきった。なんとか。


*  *  *


ばってんね。


その夏で、源蔵さんは、燃え尽きてしまわした。


ろうそくが、最後に、ぱっと明るうなって、消えるごつ。あんひと夏で、源蔵さんの命ば、ほとんど使い果たされてしもうた。


そっから源蔵さんは、ずうっと、弱っていからした。


毎年ん八朔は、なんとか続けらした。震える手で。おどんが、支えて。二人で、浜におりて。だんだん、火ん数も、また、増えていく。源蔵さんは、それを、数えるたんびに、すこしずつ、命ば削っていからした。


そして――去年の、冬。


令和七年の、冬たい。


源蔵さんは、逝からした。


*  *  *


……あんた。ちっと、待ってな。


この話は、いつしても――喉が、つまる。


……はぁ。


源蔵さんはね。


そん晩も、浜に、おらしたとです。


冬ん時の寒か晩やった。八朔でも、なんでもなか。ただん、冬ん晩。ばってん、源蔵さんは、夜中に起き出しよらして、ひとりで、浜さ、おりていからした。おどんが、気づいたときにゃ、もう、おらんやった。


慌てて探しに、行ったとです。婆さんの、足で。提灯ば、提げて。寒か、寒か、浜ば。


源蔵さんは――浜の、いつもん場所に、おらした。


ござに、座って。沖を、向いて。


おどんは、ほっとして、声ば、かけたとです。「旦那さん、こぎゃんとこにおらすと、風邪ば、ひきよらすよ」ち。


ばってん、源蔵さんは、答えんやった。


近づいて――おどんは、分かった。


源蔵さんは、もう、息をしとらんやった。


座ったまんま。背筋ば、伸ばして。沖を、向いて。目を、見開いて。


逝からしたあとも、源蔵さんは――沖ば、見とらした。


その、見開いた目ばね。まだ、動いとったとです。


いや。動いとった、ち、言うたら、嘘になるかもしれん。ばってん、おどんには、そう、見えた。源蔵さんの、白う濁った目が、沖ん暗い海ば、左から右へ、ゆっくり、なぞるごつ。


まだ、数えよらした。


死んでも。息が、止まっても。源蔵さんの目は、まだ、沖んなにかを、数えよらした。


おどんは、源蔵さんの、冷とうなった肩さ手ば置いて。そして、いっしょに沖を見たとです。


そん晩は、火は、立っとらんやった。暗い、海が、あるだけ。


ばってん、おどんには、分かった。源蔵さんは、最期まで、役目ば果たそうとしとらした。最期ん息まで。死んでも、なお。誰も、代わりんおらんけん。自分が、やめたら、火が上がってくるけん。だけん、死んでも、目ば閉じんやった。


……ここん津さ、来なはんな。


ここん津さ、来なはんな。こん港にゃ、来なはんな。沖ん、なんかに向かって、こん浦の人間は、何百年も、そう、祈ってきた。来るな、来るな、ち。


源蔵さんは、そん祈りの、最後の、ひとりやった。


矢部ん家の、最後の、戸守りやった。


……ああ、すまんね。婆さんが、泣いて。みっともなかね。


梅酒ば、もう一杯、おくれ。……ああ、おどんが、注ぐけん、よか。手は、まだ、動く。


あと、ひとつ。


数えじまい、たい。


源蔵さんの、亡くなった、あと。今年ん八朔に、なにが、あったか。


それを話して――この話は、しまいたい。


もうちっと、付き合うてくれなっせ。夜明けまでにゃ、まだ、間んある。

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