数えじまい
【数えじまい】
とお …………
源蔵さんが、亡くなって。
矢部ん家にゃ、わたし、ひとりに、なってしもうた。
葬式は、身内だけ集まってやったとです。
もちろん、汐里さんも帰ってきなすったけど、初七日まで終えたら、福岡に帰らされよった。家んもんは、婆ちゃんが管理しちょってって言い残されよって。
奉公人の、おどんひとり。家ん人は、誰もおらん。広か屋敷に、婆さんがひとり。火数帳だけが、残った。何百年分もの、火ん数の、書きつけられた、あん帳面だけが。
おどんはね、汐里さんさ、手紙ば書いたとです。
福岡の汐里さんに。お父さんが、小さい頃に言うとったこと。その、矢部ん家の、ほんとうの役目のことば、書いたとです。
源蔵さんは、最期まで汐里さんに、ほんとうのことば、言わんやった。信じてもらえん、ち、思うとらしたけん。ばってん、おどんは、もう、隠しておけんやった。だって、源蔵さんが亡くなったら――もう、数える者のおらんごつなる。汐里さんしか、おらんとです。矢部ん血は、汐里さんしか。
おどんは、手紙に、ぜんぶ書きよりました。不知火んこと。火数帳んこと。八朔ん晩のこと。矢部ん血のもんが見ることが、押さえることやと。数える者が、おらんごつなったら、火は岸に上がってくると。だけん、どうか、帰ってきてほしい、と。婆さんの勝手なお願いやと、分かっとる。あんたの人生ば、縛ることやと分かっとる。ばってん、どうか、と。
……汐里さんはね。
帰ってきたとです。
* * *
今年ん夏。
八朔んすこし前に、汐里さんは、福岡から帰ってきなすった。
もう、四十を、過ぎとらした。すっかり大人の、女ん人になって。ばってん、面影は、おどんの知っとる、あの汐里さんやった。
汐里さんはね、こう言うた。
「婆ちゃん。お父さんの、手紙ん話――わたしは、ずっと、迷信や、ち、思うとった。いまでも、半分は信じられん」
「ばってん」
「お父さんが、ひとりで何十年も、それば守ってきたとなら。婆ちゃんが、ずっとそばで支えてきたとなら。わたしは、それば、無下にゃできん。信じる、信じんは別として――継ぐ。お父さんの役目ば、継ぐ。それが娘の、務めやろうけん」
……わたしはね、泣いたとです。また。
うれしかった。汐里さんが、帰ってきてくれた。役目ば継ぐ、ち、言うてくれた。これで、矢部ん家は、続く。火数帳は、続く。火は、また、沖に押さえておける。
汐里さんと、おどんは、八朔ん晩の支度ば始めたとです。
白か着物ば、出して。火数帳と、硯と、筆ば用意して。応えん灯の、油ば差して。汐里さんに、数え方ば教えて。浜の、いつもん場所も教えて。
何十年ぶりに、矢部ん家に、灯の、ともった気が、したとです。
これで、よか。これで、続く。
おどんは、そう、思うとった。
* * *
八朔ん晩が、来た。
今年の、九月ん十一日。旧暦の、八月一日。
夕方からね、風の、出とった。よか塩梅の、海風が。空が藍色から墨色に、変わりよった。いつもん、八朔の、晩のごつ。
おどんと、汐里さんは、浜さ下りた。
ござば、敷いて。汐里さんが、座って。沖を、向いて。おどんは、そんうしろに控えた。何十年も、源蔵さんのうしろで、してきたごつ。墨ば、すって。震える手で。
汐里さんは、緊張しとらした。初めての、役目やけん。「婆ちゃん、わたしに、できるやろか」ち、小さ声で。おどんは、言うた。「できる。あんたは、矢部ん娘やけん。血が、覚えとる」ち。
そして、待った。
火が、立つとを。
* * *
……待った。
長いこつ、待ったとよ。
沖は、暗うなっとった。
いつもなら、とうに、ひとつ目ん火が、立つころ。ばってん、そん晩は、いつまで待ってん、火ん、立たんやった。
汐里さんが、不安そうに言うた。「婆ちゃん、まだ、立たんと?」。おどんは、答えた。「もうちっと、待ちなはれ。今夜は、遅かとかもしれん」ち。
ばってん。
待っても、待っても。
火は、立たんやった。
沖は、ただ、暗かった。墨ば、流したごつ、暗かった。ひとつも、立たん。ひとつも。
おどんはね、何十年、この浜で、火ば、見てきた。八朔ん晩に、火ん、立たんかったことは――いっぺんも、なか。多か少なかは、あっても。ばってん、ひとつも、立たんかった晩は、何百年の、火数帳んなかにも、いっぺんも、なかったとです。
源蔵さんが、生きとらしたら。
きっと、青うならした。そして、こう、言わしたはずやと、思うとです。「とうとう――立たんごつ、なった」ち。
* * *
おどんは、そん晩、ようやく分かったとです。
なして、火が、立たんとか。
火がね、立たんとは――よかこと、じゃ、なかとです。
火が、沖に立っとる間は、よかったとです。火が、沖におる、ちゅうことやけん。沖に見えとる、ちゅうことやけん。
火が立たん、ちゅうことは。
火がもう、沖におらん、ちゅうことたい。
どこに、行ったとな。
……岸に、上がってきたとですよ。
源蔵さんが、亡くなって。数える者が、おらんごつなって。半年、誰も、見よらんかった。数えんやった。その半年の、隙に。火は、とうとう沖から、岸に上がってきてしもうた。
もう、沖に、立つ必要が、なか。もう、こっちに、来てしもうとるけん。
汐里さんが、帰ってきたとは。
間に、合わんやった。
半年、遅かった。源蔵さんが亡くなった、あん冬から、今年ん八朔まで。その半年の空白に。火は、上がってきてしもうた。汐里さんが、覚悟ば、決めて帰ってきたとに。そのときにゃ――もう、数えるべき火は、沖に、なかったとです。
汐里さんは、火数帳ば開いて、筆ば持って、待っとらした。生まれて初めて、自分の手で、火の数ば書きつけようと。
ばってん、書く数が、なか。
汐里さんは、しばらく待って。それから、おどんのほうば見て。それから、火数帳に、ひとつだけ、数字ば書いた。
零。
矢部ん家の、何百年の火数帳の、いちばん、最後ん行に。
零、と。
いっちょん、立たんかった、ちゅう、しるしを。
* * *
夜が、明けて。
おどんと、汐里さんは、まだ、浜におった。ひと晩中。火ん立たん海ば、見て。
夜明けの、潮ん引いた、干潟に、跡があったとです。
点々と。
なにかが、海から上がって、岸んほうへ、歩いていった、跡が。
足跡、ち、言うてよかか、分からん。人の、足ん形じゃ、なか。ばってん、点々と海からこっちへ、向かって。等間隔に。何かが、歩く歩幅でついちょった。
そして、その跡んひとつひとつに――
薄う、青白か、光の、残っとった。
朝の光んなかで、消えかけの燐の光が。ぼうっと。沖ん火と、おんなじ青白さで。
不知火が、岸さ上がった跡やった。
火はもう、沖にはおらん。こっちに、来よった。何百年も、こん浦の人間が、来るな、来るな、ち、祈ってきた、そん場所に。とうとう。
* * *
……あとで、聞いた話やけどね。
その晩――山んほうも、おかしかった、ち。
人吉んほう。あん盆地の。そん晩、人吉ぜんたいが、霧で真っ白になった、ち。秋でも、なかとに。九月ん宵に。盆地が、霧ん底に沈んで。朝まで晴れんやった、ち。
おかしか晩やった、ち、人吉ん人が、言いよらすった。
……海ん火が、岸に、上がった、その同じ晩に。山ん盆地が、霧に、沈んだ。
偶然、かもしれん。
ばってん、おどんは、源蔵さんの言葉ば、思い出すとです。山ん戸が軋むと、海ん戸も。海ん戸が開くと、山ん戸も。山と、海は、底んほうで繋がっとる、ち。
ひとつの、戸が、開けば。
みっつ、よっつと、続けて、開く、ち。
……五つ、ある、ち、聞いたことの、ある。戸がね。九州に、五つ。阿蘇に、人吉に、八代に。あと、天草に、荒尾に。五つの戸ば、五つの家が、守ってきた、ち。
八代ん戸は、源蔵さんで、終わった。人吉ん戸も、もう、終わっとる、とやろ。
あと、みっつ。
いや。
もう、ひとつも残っとらんかも、しれん。
* * *
汐里さんはね。
いまも、屋敷に、おらすとです。
毎晩、浜におりて。沖を見て。火数帳ば、抱えて。立たん火ば、待っとらす。
もう、立たんとに。もう、火は、こっちに来てしもうとるとに。それでも、汐里さんは待っとらす。自分の役目は、火ば、数えることやけん、ち。数える火の、なくなっても、待つんが、最後に残った、自分の務めやけん、ち。
いっちょん役目ば嫌うて逃げた人が。いっちょん最後まで、役目にしがみついとらす。
……人は、皮肉な、もんですなぁ。
意味の、あるうちは逃げて。意味んのうなってから、しがみつく。汐里さんだけじゃ、なか。人ちゅうもんは、たいてい、そぎゃんもんかも、しれん。
……ああ。
夜が、明けよらす。
窓ん外。見てみ。東んほうが、白んできた。長か夜やった。よう、付き合うてくれなはった。婆さんの、長か話に。
最後に、ひとつだけ。
数え唄んこと。
覚えとらすな。ひとつ、ふたつ、ち、九つまで唄うて。とおは唄わん、ち。浜ん子は、九つで止める、ち。
なして、とおを、唄うたらいかんか。今夜、ぜんぶ、聞いたあんたには、もう分かるやろ。
とおは――戸、たい。
とお、で、戸が、開く。
十、数えたら。十番目を、数えてしもうたら。戸が、開く。だけん、九つで止める。とおは、唄わん。何百年も、こん浦の子は、そうやって、戸ば開けんごつしてきた。九つで、止めて。
ばってんね、あんた。
今夜の、おどんの話は。
ひとつから、はじまって。一ノ火、二ノ火、三ノ火……ち、九ノ火まで、来て。そして、いま、数えじまい、たい。
数えて、みなはったな。今夜、あんたは。ひとつ、ふたつ、ち。おどんの話を。ひとつずつ、九つまで、聞いて。
そして、いま――とお番目を、聞いとらす。
* * *
……ああ。そぎゃん、こわか顔ば、しなはんな。
脅かすつもりは、なかとです。ほんとうに。
ただね。
おどんは、もう年たい。九十も、とうに過ぎて。いつ、お迎えが来ても、おかしうなか。源蔵さんも逝かした。矢部ん家も、もう、しまいたい。
だけん、誰かに、覚えといてほしかったとです。
こん話を。八代の、不知火の、ほんとうの話を。火数帳んこと。戸守りんこと。源蔵さんが、最期まで果たそうとした、役目んこと。
覚えとくとが――数えるとが――押さえることやけん。
見る者のおる間は。覚えとる者んおる間は。まだ、なんとかなるかもしれん。あんたが、この話を覚えとってくれたら。あんたん目が、覚えとってくれたら。
……だけん、あんたに、話した。
聞いてくれて、ありがとう。
いや。
聞いて、じゃ、なかったね。
これを、読みよらす、あんた。
そう。いま、これを読みよらす、あんたですよ。
あんたも――もう、九つまで、数えなはった。
そして、いま、とお番目を、読みよらす。
……あんたの分も、勘定に、入っとりますけんね。
* * *
ああ、夜が、明けた。
お帰りは、気ぃつけて。
……海のほうにゃ、寄らんで、お帰りなはい。
いまは、汀に、近づかんほうが、よか。
もう、向こうと、こっちの境が――どこにあるか、分からんごつ、なっとるけん。




