第51話:竜の威圧
目の前で繰り広げられたあまりの光景に、私が絶句し動けないでいると――サニアが血走った瞳をゆっくりとこちらへ向けた……。
「まずい……!」
心の中で暗雲が立ち込め、私は大慌てで翻転し逃走を図った。
シュッ――!
次の瞬間、腹部に強烈な衝撃と激痛が走り、私はそのまま力任せに引き戻された。
しなやかで巨大な蛇尾が、まるで絶対に引きちぎれない鎖のように私を強固に縛り上げる。
先ほどまでの優勢とは完全に真逆の状況だった。体を締め上げられ、力を込めるべき関節が全て封じられてしまい、攻撃どころか防御すらままならない。
サニアは私を見下ろし、高慢な大笑いを響かせた。
「ハハハハッ! お前は死ぬのだ! ドブネズミのように、何の価値もなく果てるがいい!」
先ほどまでの氷山のように澄み渡っていた美しい瞳は、今や真紅の邪悪な光に染まり切っている。
誰の目にも明らかだった。サニアは狂乱に陥り、邪念によって肉体を支配されてしまっているのだ。
今すぐ彼女を制止しなければ、私が死んだ後、彼女は外へ飛び出して無差別殺戮を巻き起こすに違いない。
そんな惨劇を許すわけにはいかない!
私は全身の力を振り絞り、胸を圧迫する蛇の胴体を力任せにこじ開けた。ようやく肺が解放され、酸素を吸い込むことができる。
私は荒い息を吐き出しながら、声を絞り出した。
「お前……アイドル……じゃなかったのか……? こんな姿……ファンが見たら……悲しむぞ……!」
「ファン? ハハハハッ! そんなもの、私には不要だ!」
サニアはまるで腹の底からおかしい冗談でも聞いたかのように爆笑し、その胸元を豊かに揺らした。
もっとも、静かに心を落ち着かせてその眼福な光景を瞳に焼き付けたい気持ちは山々だったが、今まさに死に瀕している私にそんな余裕など微塵もあるはずがなかった。
「私はラミア! 偉大なる蛇神の末裔だ! 人間ごとき、我が足元にひれ伏していればいいのだ!」
彼女は尾の締め付けを調整し、私を自分の顔の高さまで持ち上げた。
「さあ……くたばるがいい!」
サニアが勝ち誇った笑みを浮かべ、その先割れの桃色の舌で私の頬をねっとりと舐め上げた。
――私はこの絶好の機会を見逃さなかった。
互いの距離がゼロになったその瞬間、私は突如として強烈な頭突き(ヘッドバット)を叩き込んだ!
激突の衝撃でサニアの視界が歪み、脳揺れを起こす。
「あぐっ……!?」
間髪入れず、私は彼女の櫻色の唇を力任せに塞ぎ、口内へ『竜の力』を一気に注入した!
「んむ……!? んー! んーー!」
サニアには彼氏がいないと聞いたことがあったが、どうやらその噂は本当だったようだ。
外側の強靭な蛇躯とは裏腹に、彼女の舌はまるで恐怖に震えるサーディンのように儚く、私の強烈な舌技の前になす術もなく弄ばれるばかりだった。
紳士的とは言い難い所業だが、彼女を救うためには背に腹は代えられない!
舌先同士が触れ合うことで生じる電流のような衝撃が、口腔を伝わり、私たちふたりの脳へと駆け抜けていく。
キス経験など皆無に等しいサニアは、一瞬にして降伏した。
私に口内を好き勝手に弄ばれるがままになり、体内の魔力を動かして『竜の力』の侵入を防ぐことすら忘れてしまっている。
というより、抵抗したところで無駄だったろう。龍族とラミアは共に爬虫類の血を引くとはいえ、その血統の絶対的な優劣はあまりにも明白だった。
私の操作の下、龍の威壓を秘めた『竜の力』がサニアの経絡に沿って猛威を振るい始める。
竜の力が通過するたびに、サニアの表情は苦悶に歪んでいった。
「あ……あぁぁ……っ! ああぁぁぁっ!」
そして、私の両手も遊んではいなかった。
片手は彼女の華奢な肩を優しく抱き寄せ、もう片方の手は引き締まった腰元に回してしっかりと身体を密着させる。
深遠な接吻と、体に触れる体温の相乗効果により、サニアの眉間のシワが次第に解け、強張っていた筋肉が徐々に弛緩していく。
彼女は拒むのをやめ、私との接吻に没頭し始めた。
やがて力を抜き、身を委ねるようにそっと私に寄り添ってきた。
やがて、竜の力がサニアの全身を完全に覆い尽くすと、彼女を支配していた邪念は綺麗に瓦解し、蛇化の変異さえも解除されていった。
かくして、彼女は全裸のまま、私の腕の中へと倒れ込んできた。
私の方も荒い息を吐き出し、全身汗だくで疲労困憊だった。
なにせ私は本物の龍族ではない。肉体から自然に竜の力を湧き出させることはできず、ミッドナイトから体内に流し込まれた『龍の涎』を介して間接的に培養しているに過ぎないからだ。
全力で戦闘を行った場合、私の体内の竜の力はせいぜい五分程度しか持たないだろう。
以前山賊たちと戦った際は実に格好良く見えたかもしれないが、あれは単に相手が弱すぎて、全力を出すまでもなく全滅させられたからに過ぎない。
ミッドナイトのような本物の強者と対峙すれば、私は相変わらずボコボコにされるのがオチなのだ。
「やれやれ……ここはもう泊まれそうにないな……」
荒れ果て、崩壊した部屋を見渡し、私は力なく首を振った。
続いて、私はストレージリングから新品の女性服と下着を取り出し、気絶しているサニアの体に丁寧に身につけさせた。
そして紙切れに一筆書き残した。
『私は別の宿に移動して夜を明かします。目を覚ましたら、フロントへ部屋の破損賠償金を支払っておくように』
すべての後始末を終えた後、私は夜の街へと繰り出して別の宿を探し、この疲弊しきった一夜を過ごしたのだった。
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翌日、私は結局お昼過ぎまで泥のように眠り続け、ようやく目を覚ました。
無理もない。昨日はあまりにも多くのトラブルが重なり、本当に疲れ果てていたのだから!
私は『冷蔵庫システム』を開き、『チキンカツ弁当』を注文し、さらに大瓶の『青春緑茶』を淹れた。
空腹を満たして口元を拭うと、そこからようやく重い腰を上げ、のんびりと街の中心部に向かって歩き出した。
だが――一本の狭い路地を通り抜けようとしたその時、突如として何かが地面に落ちる硬い音を聞きつけた。
カチッ……カラカラッ……!
七、八個の小さな石コロが、私の周囲の地面へと転がり落ちる。
「う……動かない……!? なんだ……なぜだ!?」
私は全身に力を込め、体を動かそうと試みたが、全くの無駄だった。全身の筋力を限界まで振り絞っても、指一本すらピクリとも動かない。
魔法なのか?
それとも呪いか?
まさか、この転がった石に何か仕掛けが施されているとでもいうのか!?
その時、路地の先から人影がゆるりと姿を現した。
「やあ、男前さん。ご機嫌いかが?」
そこに立っていたのは、深緑色のチャイナドレスを身に纏った貴婦人だった。
ガチャリ……ガチャリ……。
背後から、重厚な金属が擦れ合う音が響く。
私は絞り出すように顔だけを横へ向けた。そこに立っていたのは、全身を重鎧で包んだ巨漢だった。
彼は無表情のまま、鋭い眼光で私を凝視している。
――その瞳が、縦に割れた美しい琥珀色の瞳孔であるのを目にした瞬間、私は彼らが何者であるかを察した。
「ねえ……あの卵、私たちに返してくださらないかしら?」
いつの間にか、その貴婦人は私からわずか五歩の距離まで近づいていた。
それまでの間、足音など一切聞こえなかった。まるで地面から突如として生えてきたかのように。
「何と言っても……あれは私が苦労して産み落とした……愛しい我が子(宝物)なんですもの」
貴婦人は春の陽だまりのように可憐な笑みを浮かべていた。
しかし、私を全身から固め、押し潰さんばかりの強烈な威圧感は、解けるどころかより一層強固になっていく。
そしてその圧迫感の源泉は明白だった。目の前に立つ、この『母親』だ。
これは単なる怒りではない。怒りが頂点を超え、一周回って笑みへと化けた【爆発直前の臨海点】の表情だ。
かつてアリアと大喧嘩をした際、彼女も全く同じ恐怖の表情を浮かべていたものだ。
昨夜のサニアとの死闘など、この二人に比べれば児戯に等しい。
死ぬ!
下手をすれば、本当に一瞬で殺される!!!
早く……!
早く何とか知恵を絞り出すんだ!!!
体内の竜の力はまだ完全には回復していなかったが、私はそれを手足と首の経絡へ強引に注ぎ込み、どうにか首を少し動かせるだけの自由を得た。
「無駄よ。私の『八門鎖霊陣』の前では、あらゆる足掻きが無意味なの」
貴婦人は平然とした顔で言い放ち、構えをとる仕草すら見せなかった。
彼女の瞳において、私など本気を出す価値すらない格下の存在に過ぎないのだろう。
「奇門……遁甲……!?」
私は喉を搾り出すように、なんとかその単語を吐き出した。
私の言葉を聞いた瞬間、貴婦人は心底驚いたような表情を見せた。
「あら? こんな辺境の地で、東方の陣法を知る者がいるなんてね。ふふ、髪の色や顔立ちを見るに、あなたも東方大陸の出身かしら? ……で、どうして私の卵を盗んだの?」
「私は……盗んで……いない……」
「嘘おっしゃい! 追跡魔法にははっきりと、卵があなたと共にあると示されていますわ! さあ、早く卵を差し出しなさい!」
貴婦人が激昂の声を上げると同時に、陣法の拘束力がさらに跳ね上がった。
今度こそ完全に詰んだ。私は一ミリメートルたりとも動くことができなくなった。
冷静になれ……よく考えろ!
相手は最強の種族『龍族』、しかも人数はこちらの二倍。
女は得体の知れない詭異な陣法を操り、男はただ立っているだけで、あのミッドナイトにすら引けを取らない絶望的な威圧感を放っている。
そして、今の私には対抗手段が何一つない!
『キャプチャー』を使うか?
いや……怪しい動きを見せた瞬間に、間違いなく数秒以内に首を跳ね飛ばされる。
『水産養殖槽』の中に二人を叩き込んで封印するにも、まずはこの手で相手の身体に触れる必要がある。
『万能餐刀』を解放しようにも、前提としてストレージリングからナイフを取り出さなければ話にならない。
だが、今の私は指一本動かせないのだ。どの選択肢も詰みだ!
ならば……残された手段は、あの『賭け』に出るしかない……!
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