第35話:公爵からの手紙
その日の午後、魔獣の狩猟作業を終えた俺は、のんびりと雪花旅館へと戻ってきた。
エントランスに差し掛かると、グレースが木製のテーブル席に腰掛け、ソフィアと熱心に話しているのが目に入った。
もっとも、ソフィアの今にも眠り出しそうな表情から察するに、グレースが一方的に必死で話題を振っているだけで、彼女は完全に聞き流しているようだったが。
その時、俺の足音に気づいたのか、グレースが入口の方を振り返り、即座にぱっと嬉しそうな表情を浮かべた。
俺はゆっくりと二人に近づき、微笑みながら声をかけた。
「お久しぶりです、グレースさん。今日はソフィアに会いに来られたんですか?」
「お久しぶりです、ゲンタク様! 私はその――」
グレースが言葉を紡ごうとした瞬間、ソフィアが容赦なくそれを遮った。
「この人は仕事が山積みで忙しい身ですから。私に構っている暇などありませんよ」
その一言で、その場に気まずい沈黙が流れた。
だが、さすがは伯爵領の商会責任者を務めるグレースだ。彼女の顔は一瞬にしてプロの「仮面」へと切り替わり、満面の笑みを浮かべて言った。
「ええ、その通りです! ソフィアの顔を見に来たのはもちろんですが、本日はゲンタク様にご相談したい件がございまして。今、少々お時間はよろしいでしょうか?」
ソフィアがその場で露骨に白目を剥いた。
俺は苦笑しながら頷いた。
「では、少しお待ちいただけますか。先に汗を流してきます。ソフィア、20分後にグレースさんを書斎へ案内してくれ」
「かしこまりました」
俺は大浴場へは行かず、手近な旅館1階の浴室でさっとシャワーを浴びた。
着替えを済ませ、新調した衣服に身を包んでから、オフィスとして使っている書斎へと向かった。
中に入ると、そこにはグレースとソフィアだけでなく、アリア、そして会計班のハーフエルフであるミスティラとエロウィスの二人も同席していた。
俺の怪訝そうな表情を察したのか、アリアが素早く事情を説明してくれた。
「ミスティラとエロウィスは、これまで人間同士の商業交渉を見たことがないの。今後の業務を円滑に進めるためにも、ここで同席させて、少し勉強させようと思ってね」
「なるほど、構わないよ」
俺は頷き、頭の中で彼女たち二人のステータス(情報)を思い浮かべた。
ミスティラは、笹の葉のように深いグリーンの長髪を額を出す形で結び、瞳はレモンのような黄色。
クラスは暗殺者で、短剣や暗器の扱いに長け、影魔法を得意としている。
エロウィスは、金髪の大きなウェーブヘアに、エメラルドのように輝く双眸。唇はぽってりと赤く、逆卵型の整った輪郭をしている。
常にどこか妖艶な微笑みを浮かべており、初めて会った時、俺は彼女に対して「訳ありの秘書」という印象を抱いた。
彼女は槍使いであると同時に、雷と風の複合属性魔法の使い手であり、エルフの中では珍しく空中戦をこなせる女性だ。
俺は二人に向き直り、優しく微笑みかけた。
「俺と君たちはどちらも新人みたいなものだ。みんなスタートラインから少しずつ成長していけばいい。肩の力を抜いて、気楽に聞いていてくれ」
「……ええ」
相変わらず、氷山美人のミスティラは小さく頷くだけで、余計な言葉は口にしない。
「理解いたしました。ゲンタク様のご命令とあらば、何なりと」
一方、エロウィスは実に大胆だった。彼女は艶っぽく微笑み、全員が見ている前で俺にウインクを投げかけてきた。
俺はすでに女性関係でお腹いっぱいなので、当然のようにスルーした。
その時、グレースが歩み寄り、一通の書状を差し出してきた。
「ゲンタク様、実は今回、私にはもう一つの任務がございまして。詳細はこちらに記されております。これは公爵閣下から託された親書にございます。どうぞお改めください」
俺がアリアに視線を送ると、彼女は「大丈夫よ」と静かに首を横に振った。俺はそれを見て、ようやく書状を受け取った。
赤い封蝋を剥がすと、羊皮紙特有の独特な香りが鼻腔をくすぐる。俺は少し眉をひそめながら、中に記された内容に目を落とした。
「ええと、なになに……『聞き及ぶところによれば、雪花領の領主・ゲントク殿は、東方大陸の隠世の貴族の末裔にして、極めて優れた商業の才を誇り、まさに商業の神の右腕と呼ぶにふさわしき御方。さらには、あらゆる宮廷料理人を羞恥のあまり辞職させるほどの、至高の料理人であるとか……』って、おいぃ?!」
こんな尾ひれのついたデタラメな噂、一体誰が流したんだ?!
俺は地球からやってきた、ただの元コンビニ店員だぞ!
東方大陸の隠世貴族って何だ?!
商業の神の右腕ってどういうことだ?!
それに、ただ卵チャーハンを作っただけで、なんで宮廷料理人を絶望させて辞職に追い込むレベルの料理専門家になってるんだよ?!
あれ、ただの超お手軽な家庭料理だぞ、家庭料理!!!
「グレースさん……」
「は、はい!」
「公爵閣下は、俺に対してとんでもない誤解をしているようなんだが……。あなたたち、一体あのお方に俺のどんな噂を吹き込んだんだ?」
俺が手にした書状をひらひらと振り回すと、顔には隠しきれない不機嫌さが浮かんでいた。
グレースは慌てて引きつった笑みを浮かべ、取り繕うように言った。
「いやだなぁ、ゲンタク様! あなた様は我が商会の最も重要なパートナーですよ? 私たちが公爵閣下の前で、あなた様を貶めるようなことを言うはずがないじゃないですか!」
「じゃあ、この手紙に書かれていることはどういうことだ? 『東方大陸の隠世貴族』? 『商業の神の右腕』? 当事者である俺が、そんなこと一言も聞いてないんだが?」
「ははっ! 私たちは何も言っていません、本当に! ただ……その、おそらく……末端の商人たちが少しお酒を飲みすぎて、酒場で夢のような話を口走ってしまったのかもしれませんね……あははは!」
グレースは実に心苦しそうに、冷や汗を流しながら誤魔化そうとしていた。
その様子を見て、俺は瞬時にある可能性に思い至った。
「……まさかお前たち、そのデマを利用して、俺が卸した商品のブランド価値を吊り上げ、暴利を貪ろうとしてるんじゃないだろうな?」
「あははは……滅相もございません!」
グレースはひたすら愛想笑いを浮かべて平謝りするばかりだったが、その反応からして、どうやら俺の推測はドンピシャで当たっているようだった。
当事者としては若干イラッとするものの、冷静に考えれば、この状況は俺にとっても都合が良い。商品の価値が上がれば、俺に入ってくるマージン(取り分)もそれだけ増えるのだから、ここは一旦グッとこらえるべきだろう……。
俺は大きく深呼吸をし、胃の痛みに耐えながら、意を決して手紙の続きを読むことにした。
『――殿も前線の戦況についてはすでにご聞き及んでおられよう。極度の緊張を強いられる高圧的な環境下において、兵たちの肉体のみならず精神までもが蝕まれていくのは必然。我が方は、兵たちの心を慰撫すべく高品質の砂糖を買い付け、菓子にして配ってはいるものの、それだけでは足りん。我々が今求めているのは、より兵たちの士気を鼓舞できる食糧なのだ。
つきましては、安価な食材でありながら兵たちの舌を満足させられる肉料理のレシピ、および砂糖を用いた新たな菓子の製法を、ぜひとも閣下に提供していただきたい。これらを達成された暁には、我らも相応の、極めて寛大な見返りを約束しよう。
――時に、余の耳に少々不穏な密告が届いておる。何でも、雪花領において大規模な不純異性交遊が行われているとか……何だと?!』
最後の一文を目にした瞬間、俺はその場で硬直した。
慌てて手紙を顔に近づけ、目を細めて後半部分を音読する。
『――目撃者の証言によれば、現地にてエルフの女性たちを誘拐し、強制労働させている犯罪行為の疑いがあるという。さらに驚くべきことに、余の愛娘であるアリアまでもがその片棒を担いでいると聞き、余は深く心を痛めておる!
場合によっては、真相究明のために一軍を派遣するやもしれん。……あるいは、派遣せぬやもしれん。すべては前線の戦況次第といったところか。貴殿の賢明な判断に期待する。――ラモンド・ヨルゴス』
俺が読み終えた瞬間、書斎の空気は完全に凍りついた。
「あのクソ親父め……! 前半であれだけ持ち上げておいて、最後は完全に脅迫じゃねえか!」
自分が無能で勝てないのを、俺に八つ当たりすんな!
不純異性交遊だの、エルフの強制労働だの、全部デタラメだ!
要するに、「俺の胃袋と前線の問題を解決しないと、軍隊を差し向けるぞ」って強請りたかりに来てるだけじゃないか!
俺が無表情でグレースを睨みつけると、彼女はこれ以上ないほど綺麗に視線を逸らした。
「ゴホン! いやぁ、長旅の馬車に揺られて、さすがの私も心身ともに限界のようですわ……。お料理の件は決して急ぎませんので、明日の朝、改めてゲンタク様を訪ねることにいたします。それでは、私はこれで失礼しますわ!」
言い終えるや否や、グレースはまるで獲物を狙うチーター並みの速度で、部屋の扉を突き抜けて逃げ去っていった。
間違いない。彼女は今夜、俺の前に二度と姿を現さないつもりだ。
「はぁ……。なんで俺がこんな面倒事に巻き込まれなきゃいけないんだよ」
俺は深い溜め息を吐き、椅子の背もたれにぐったりと体を預けた。
その様子を見たアリアが、ソフィアにそれとなく目配せを送る。
メイドは主人の意図を瞬時に察し、二人のエルフに向けて声をかけた。
「コホン! もう時間も遅いですし、私は夕食の準備に取り掛かります。あなたたちも手伝いなさい」
そう言って、ソフィアはミスティラとエロウィスを半ば強引に連れ出し、書斎には俺とアリアの二人だけが残された。
アリアはゆっくりと歩み寄り、俺の背後に回ると、その細い両腕を俺の首に絡めてきた。
「どうしたの? 私とベッドを共にしたこと、後悔してる?」
お互いの頬が触れ合うほど近い。彼女の吐息と、女の子特有の甘く優しい香りが鼻腔をくすぐる。
彼女の問いかけに、俺はこれ以上ないほど露骨に白目を剥いてみせた。
「厳密に言うなら、あれは君による『既成事実の強行突破』だろう。俺の清純な操を奪った挙句、ミッドナイトへの裏切りまで強要したんだ。さあ、どうやって落とし前をつけてくれるんだ?」
アリアはくすくすと愉しそうに笑うと、俺の首から腕を解き、正面へと回り込んできた。
そしてピンヒールの靴を脱ぎ捨て、裸足のまま、俺の太ももの上へと腰を下ろしたのだ。
「……どんな風に償ってほしいの?」
再び彼女の手が俺の首へと回され、二人の距離は限界まで縮まる。
豊満で柔らかい双丘が俺の胸板にぴったりと押し当てられ、弾力のある桃尻が俺の太ももを通じてダイレクトに熱を伝えてくる。
彼女は少しだけ顔を上げ、その桜色の唇を、触れるか触れないかの距離で俺の口元に這わせた。こちらの反応を試すかのような、じれったい仕草。
至近距離で見つめる彼女の瞳には、俺の姿がしっかりと映り込んでいる。同時に、そこには獲物を狩る『雌獣』だけが宿す、妖しい光が静かに揺らめいていた。
「お前のすべてを、貰い受ける……」
「すべて……だけかしら?」
アリアは首を少し傾げ、悪戯っぽく微笑む。
そんな彼女の挑惑に、俺が怯むはずもなかった。
俺は彼女の胸元に置いていた手を滑らせ、滑らかな曲線を描く脇腹を通り、その下腹部へと一気に引き下ろした――。
「……それから、お前の未来もだ!」
窓の外では、最後の一筋の残光が今まさに消え入ろうとしていた。
オレンジ色の夕日は夜のベールを羽織り、空という舞台から押し流されていく。
勝ち誇ったように現れた白い月は、自らの衣をふわりと脱ぎ捨て、夜空を見上げる者に向けて、その秘められた美しさを惜しげもなく晒し始めるのだった……。
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