第33話:光と闇
【Side:アデリナ】
雪花旅館の3階、とある客室の中で、アデリナはそっと手にした杖を下ろした。
(これほどの距離から、声の漏洩を防ぐ結界を張り続けるのは、やはり少々骨が折れるわね……)
少し考えた後、アデリナは念のために隠蔽の結界も追加し、外から菜園の中の様子が一切見えないようにした。
「オベロン様、私にはどうしても理解できません……」
アデリナは視線を戻し、部屋の中にいるもう一人の人物へ、胸に抱いた疑問をぶつけた。
「厳密に言えば、私たちエルフ族は一夫一妻制です。たとえ神使様が特例であり、特別な対応が必要な御方だとしても……彼女たちが人間のように欲に溺れるのを放任するというのは、いかがなものでしょうか?」
「私たちの創造主たる自然の女神――ヘスペリア様は、本当にこのような事態をお許しになるのでしょうか?」
アデリナは壁に背を預け、この建物に身体の重心を預けた。
床に交錯する光と影を見つめながら、彼女は深い迷妄へと囚われていく。
「大を成す者は小節に拘らず、だ」
その時、床に座って瞑想していたオベロンが口を開いた。
「ゲンタク様はあのお方の使徒であり、その前途は無量だ。もしお前が、下位種族の価値観を無理やりゲンタク様に当てはめようというのなら、アデリナ、お前の思考はあまりにも硬直していると言わざるを得ないな」
「ですが……!」
アデリナが反論を試みようとしたが、オベロンの手によって制された。
「弱者は規則に従い、強者は規則を定め、さらには規則をも超越する。これは古今東西変わらぬ理だ。雑草の価値観を薔薇に押し付け、それらが同じものであるかのように振る舞ってはならない」
「…………」
アデリナは返す言葉を失った。
彼女は、オベロンが本当に変わってしまったと感じていた。かつての彼なら、このような【運命に甘んじる】かのような言葉は絶対に口にしなかったはずだ。どれほど困難であろうと、果敢に挑戦し、打破する方法を模索するよう彼女たちを鼓舞していた。
まさか、本当に洗脳されたのか、あるいは魂が入れ替わってしまったのだろうか?!
そうして、アデリナはついに、心の奥底に秘めていた「あの事」を問いかけた。
「オベロン様……あなた様は一体、あの場所で何をご覧になったのですか?」
「……終着点を見たのだ」
長い沈黙の後、オベロンはぽつりと、静かにそう言った。
彼は手首に巻き付けていた一連の数珠を外し、一玉、また一玉と指先で繰り始めた。
「……終着点? 申し訳ございません、私の愚鈍な頭では、あなた様が何を仰っているのか理解できません!」
オベロンの言葉を頭の中で反芻しても、アデリナには彼の真意がどうしても掴めなかった。
その時、部屋の隅の影の中から、突如として一人の女性の声が響いた。
「魔であり、同時に神でもある。正義や邪悪などという次元ではなく、黒か白かというほど単純なものでもない。それは万物の果てであり、私たちが生涯を賭しても決して届かぬ大いなる存在……オベロン様は、そう仰りたいのでしょう」
「カリエル殿下!」
アデリナは激しく動揺した。これまで相手の気配を微塵も察知できなかったからだ。まるでカリエルが、影そのものから染み出すように現れたかのように……。
それでも彼女は、辛うじてわずかに頭を下げ、エルフの王女へと敬意を表した。
カリエルは手をひらひらと振って形式的な礼を免じると、部屋に唯一置かれていたソファへと腰掛けた。
「エルフ族に……いいえ、この世界全土に神罰が下るのを避けるためです、アデリナ。あなたたちは己の心と身体を捧げ、ゲンタク様へ絶対的な忠誠を誓いなさい」
「彼が何を望もうとも、たとえ夜空の月を求めたとしても、あなたたちはそれを満たさねばなりません。よく聞こえましたか?」
カリエルの言葉を聞いた瞬間、アデリナは即座に眉をひそめた。
ゲンタクが19人のハーフエルフを救ってくれたのは事実であり、エルフ族の大恩人であることに間違いはない。自分だって、その恩に報いるために彼に力を貸すつもりはある。
しかし、そのために同胞の女性たちの身体を売り渡すというのなら、話は別だ!
アデリナが何かを言い返そうとしたその時、オベロンが再び言葉を発した。
「アデリナ、知っているか? かつての私もまた、血気盛んな若者だった。己を天資に恵まれた非凡なる血脈だと過信し、歴代のエルフ王をも凌駕する絶世の覇者になるのだと、本気で信じ込んでいた」
「だからこそ、テュポースが呪われたと聞いた時、私は内心で歓喜したのだ。あれを屈服させさえすれば、自分が特別な存在であることを万民に証明できる、とな」
「結果は、このザマだ! 私の精神はテュポースに蝕まれ、最終的には眼中に人なき、傲慢不遜なクズへと成り下がった。誰もが私を忌み嫌い、恐れたが、私はそれすらも誇りに思っていた……ハハハ! 今思えば、じつに滑稽極まりない! なぜあれほど愚かであれたのか、路傍の蟻一匹の方が私よりも遥かに賢明だ!」
床に座り込んだオベロンは、まるで無邪気な子供のように笑い声を上げた。
だが、その笑いに込められた血を吐くような悲痛さを感じ取れるのは、この部屋にいる二人だけだった。アデリナの胸に、締め付けられるような痛みが走る。
(エルフ族の麒麟児と謳われた御方が、どうしてこれほど無残な姿に……)
「オベロン様、そこまでご自身を貶めずとも……」
彼女は慰めの言葉をかけようとしたが、オベロンの手によって遮られた。
オベロンは静かに両手を合わせ、この上なく満ち足りた微笑みを浮かべた。
「私はまだ幸運だったのだ! 己の矮小さを思い知り、そして女神様の旦那様の慈悲によって、こうして再びここへ戻ることができた。感謝のほかには、何一つとして持ち合わせてはおらんよ」
「女神様の……旦那様?」
アデリナは怪訝そうに問いかけた。
しかし、オベロンにはそれ以上詳細を明かす意志はないようだった。
そこで、彼女は別の質問を投げかけた。
「……今後、エルフ王国へお戻りになるおつもりは? 現在は戦時下です。議会もあなた様の帰還を切望しているはずですが」
オベロンは静かに首を横に振った。
「否。すでに私は因果に触れてしまった。ならば、ゲンタク様の偉業をこの目で見届ける義務がある。彼がこの世を去るその日まで、私は決して雪花領を離れん」
「私は決めたのだ。この生において二度と剣は取らぬ。これからは神官へと転じ、余生を病人の治療と祈りの中に捧げる。それこそが、過去の罪業を贖う唯一の道なのだから」
オベロンが完全に俗世の欲を捨て去ったのを見て、アデリナはこれ以上の説得が無意味であることを悟った。彼女は仕方なく、カリエルへと視線を転じた。
「……カリエル大人、では、あなた様は? あなた様はエルフ王の愛娘であり、多くの同胞たちの憧れの象徴です。あなた様もまた、ここへ留まるおつもりなのですか?」
カリエルは首を横に振り、どこか自嘲気味に微笑んだ。
「私はオベロンとは少し事情が違います。私は、私たちの創造主であるヘスペリア様を裏切ってしまいました。……仮に戻りたいと願ったところで、私にはもう、帰る場所などどこにもないのです」
そこまで語ったカリエルの瞳の奥に、一筋の深い寂寥が過った。
「あなた様……まさか?!」
「見ての通りよ。私は深淵へと堕ち、忌むべきダークエルフになり下がったの!」
陰鬱な緑色の光がパッと閃き、カリエルの身体を覆っていた偽装が次第に剥がれ落ちていく。それと同時に、隠しきれない血の匂いがツンと鼻を突いた。
彼女の雪のように白い首元には、首輪のような黒い紋様が浮かび上がり、平坦だった胸部は急速に膨張してエリンに匹敵するほどの豊満な双丘へと変貌を遂げた。さらには、純血エルフの象徴であった湖水グリーンの瞳までもが、鮮血のような赤色に染まっていく。
カリエルと深い絆で結ばれていたアデリナでさえ、その異様な光景を目の当たりにして、眉をひそめ不快感を露わにせざるを得なかった。
アデリナには確信があった。もし今のカリエルがエルフ王国に戻れば、王城にたどり着く前に、激昂した民衆が投げつける石によって打ち殺されるだろう、と。
エルフは常に「聖潔」「美しさ」「自然との極めて深い親和性」という3つの特質を誇りとして生きてきた。
しかし、ダークエルフの持つ「狡猾さ」「淫蕩さ」「嗜虐性」は、エルフ族の完璧なイメージを完全に汚泥に塗れさせるものだ。
たとえカリエルがエルフ王の実の娘であろうとも、処刑の運命からは逃れられない。それどころか、エルフ王自らがその手を下すことすら大いにあり得た。
「ほらね、あなただって私を嫌悪しているわ!」
カリエルは、アデリナの瞳に一瞬だけよぎった嫌悪の色を見逃さなかった。
それでも彼女は笑みを絶やさず、相手を恨むような素振りも見せなかった。
「違います! 私は……!」
「いいのよ、後悔はしていないもの。タ……いいえ、スカディ様が私を大層お気に召して、新たな力を授けてくださったの」
カリエルは妖艶に微笑むと、魔力を注ぎ込み、両手からそれぞれ水球と黒い霧を噴き出させた。
「これは……レベル5?! 限界突破したというのですか?!」
カリエルの体から湧き上がる強大な魔力を感知し、アデリナは一瞬にして血の気が引いた。
エルフ族や竜族といった長命種は、個体の平均的な実力こそ人間に勝るものの、あまり世に知られていない弱点があった。それは「成長の壁(レベル突破)」が極めて困難であるという点だ。
仮にレベル3の実力を持つエルフと人間がいたとする。
60年後、エルフがようやくレベル4に到達した頃には、人間はすでにレベル6や7の強者へと上り詰めている。
これこそが「神が扉を閉ざす時、同時に窓を開けてくださる」という名言を完璧に証明していた。
10年前、カリエルはレベル4に達したばかりだった。特別な機縁でもない限り、彼女がレベル5へと昇級し、さらには闇属性の魔法まで習得するなど絶対にあり得ないはずだった。
彼女は一体、あの場所で何に遭ったというのか?!
「スカディ様は残忍な御方だけれど、同時に女神としての優しさも持ち合わせていらっしゃるわ。『お前は私の玩具だ。私がいる限り、誰もお前を虐げることは許さない』と仰ってくださったの」
カリエルが立ち上がる。
そのルビーのような赤い瞳には底知れぬ狂気が宿っており、かつてエルフとして持っていたはずの冷静さは跡形もなく消え去っていた。
アデリナには分かっていた。これこそが魔道へと堕ちた証なのだと。しかし、無二の親友でありながら、自分には引き留める術が何一つない。
そう思うと、彼女は思わず拳を握りしめ、爪が肉に深く食い込んだ。
「家族を失ったとしても構わないわ。私の契約者は極めて優秀な御方。あなたたちは、より強大なエルフの末裔を産み落とせばいいのよ」
「あなたの父親はあなたを嫌うかもしれないけれど、あなたの夫は決して嫌わない。あなたが産む子供たちも絶対にね! 彼らはあなたを愛し、抱きしめ、あなたと同じ美しい黒髪と赤い瞳を持って生まれてくる……。それこそが、本当の家族よ!」
「スカディ様は、そうやって私を導いてくださったの!」
そこまで言うと、カリエルは愛おしそうに自身の腹部を撫で、その表情に慈母のような光を宿した。
彼女はゲンタクとの間に命を育み、自分だけの家族を創り出すことを、心の底から渇望しているのだ。
その光景を前にして、アデリナの胸の奥から名もなき悲哀がこみ上げてきた。
「カリエル……」
エルフ族の誇りは同胞の団結を促したが、同時に、一部の者たちを容赦なく対立の向こう側へと押しやった。
本来ならばエルフ族の重要な戦力となるはずだったカリエルは、オベロンを庇ったがために、故郷へ帰る権利を奪われた。
そして今、彼女はその闇の力を用いて、自分だけの光り輝く未来を切り拓こうとしている。
喜んであげるべきはずなのに、胸を締め付けるこの引き裂かれるような痛みは、一体何なのだろうか……。
その時、カリエルは窓の外を指さして問いかけた。
「アデリナ、外にいる彼女たちが何に見える?」
アデリナが窓辺に寄ると、結界の外に集まり、熱心に話し合っているハーフエルフたちの姿が目に映った。
「……ハーフエルフです」
アデリナは本能的に「生贄」と言いそうになり、辛うじてその言葉を飲み込んだ。
「違うわ! 大間違いよ! 彼女たちは神使様の王妃であり、新たなるエルフ族の創始者、そして未来のエルフ王の母親となる存在よ!」
「スカディ様の信徒となりさえすれば、すべてのハーフエルフは現在の窮地を脱し、エルフ族に劣らぬ新たな種族へと生まれ変わることができる。……誰だって、生まれながらにして見下される存在でありたいはずがないもの。そうでしょう?」
そこまで言うと、カリエルは歪んだ笑みを浮かべた。
アデリナは彼女の言葉に100%同意できたわけではなかった。しかし、「誰だって生まれながらにして見下される存在でありたいはずがない」というその一言は、確かに彼女の心の琴線に触れた。
書物を通じて、彼女は人間社会の残酷さを知っていた。そして自身の目を通じて、きらびやかなエルフ王国の底に沈む、腐臭に満ちた暗部を見てきた。
純血のエルフとして生まれ、幼い頃から虐げられることもなく、飢えを知ることもなく、無条件で神殿に入って高等魔法を学ぶことができたエルフ貴族――アデリナは、自分がどれほど幸運な存在であったかを痛いほど理解していた。
もしカリエルの語る狂気に満ちた絵空事が、本当に未来で現実となるのなら。
ならば自分は、より多くのハーフエルフを救うために、ゲンタクの陣営に加担すべきではないだろうか?
もしかすると、未来においてはハーフエルフへの差別が完全に払拭され、彼女たちが世人から仰ぎ見られる日すら来るかもしれない。
もし本当にその可能性があるのなら、自分はこの身を賭けてみるべきではないだろうか?
たとえ……この身体を捧げることになろうとも?
そこまで考え、アデリナは静かに目を閉じた。
光の射さないこの暗闇の世界において、ただ自身の鼓動だけが、胸の奥底に眠る本音を告げていた。
長い沈黙の後、アデリナが再び目を開けたその瞬間、彼女はすでに己の答えを見出していた。
「ハーフエルフの幸福のため、そして我が同胞を救うため……私は女神スカディ様に、この魂と忠誠を捧げます」
「願わくば、吾らが流す血が、ハーフエルフたちの未来を照らす灯火とならんことを!」
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