第27話:エルフ
時間はあっという間に流れ、気づけば七月末を迎えていた。
二棟の建物の基礎工事はすべて完了し、あとは次のロットの石材と木材が運ばれてくれば、いよいよ内部の本格的な組み上げへと移行できる段階だった。
そんな時――。
「ゲンタク様、大変です!」
遠くから、一人の労働者が顔を真っ青にして、息も絶え絶えに俺の方へと走ってきた。
「どうした?」
「石材を運送していた車隊が……彼らが……『噬魂犬』の襲撃を受けました! 石材を積んだ馬車が二台大破し……今日のところは正常に作業を開始できそうにありません……っ」
男は滝のような汗を流しながら、必死に現場の異常を報告した。
「ソウルイーター・ハウンド? なんだそれは」
俺が怪訝な顔をすると、隣にいた建築家のスレーター先生が、待ってましたと言わんばかりにすぐさま解説を始めた。
「それは極めて邪悪な魔物です。初期段階では猟犬ほどの大きさで、本来は夜間にしか姿を現しません。霊体の性質を持っているため、通常の物理攻撃では消滅させることができない非常に厄介な存在です」
「そして現在は真昼です。この陽の下でソウルイーター・ハウンドが現れたということは、そいつがすでに『成体』へと進化し、日光を克服した個体であることを意味しますな」
スレーター先生の解説を聞き終えた俺は、少しの間思考を巡らせた後、近くにいたアリアを大声で呼び寄せた。
「アリア! すまないがここの指揮を頼む。俺は事故の現場を見てくる!」
「分かったわ、こっちは任せて! あんた、絶対に無理はしないでね!」
彼女に後を託すと、俺はすぐさま現場へと向かって地を蹴った。
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建築資材はすべて公道を使って輸送されている。そのため、街道沿いに進みさえすれば、すぐに事故現場は見つかるはずだった。
走ること十数分、俺は現場へとたどり着いた。
視界に飛び込んできたのは、凄まじい惨状だった。地面には粉々に砕けた木片や石塊が散乱し、近くの巨木の根元には、横転した馬車が痛々しく転がっている。
その周囲には十数人の人間が集まっていた。彼らはきこりの町から派遣された建築職人や木材工場の御者たちで、誰もが身体にいくつかの軽傷を負っていた。
そして、俺が護衛として雇っていた冒険者パーティーの一つ――『白銀の翼』の面々が、武器を構えて全気力を振り絞り、彼らを背に庇うように前線を維持していた。
俺は慌てて彼らのもとへと駆け寄り、大声を張り上げた。
「キール!」
茶髪の青年がハッと振り返り、次の瞬間、驚きと喜びが入り混じった表情を浮かべた。
「ゲンタク! どうしてあんたが直々にここまで!?」
「来るべきじゃ……なかった……。ここ……とても危険……!」
大盾を構えたニクスが、苦しげに首を横に振った。
「心配いらない、俺は大丈夫だ! それより一体何があった? 死傷者は出ていないか?」
「ああ……あの化け物はなぜか、さっき突然どこかへ走り去っていったんだ。ただ、こっちの被害は……御者が三人、馬車から振り落とされて骨折してる。レオンとガルヴァもかなり重傷を負ったが、幸い命に別状はない」
キールは重い溜息をつき、現場の正確な状況を伝えてくれた。
「すでに馬を走らせてきこりの町へ報せを送ったわ。あと数時間もすれば、ピエニン商会の援軍が到着するはずよ」
魔導師の少女、シルヴィアが前に出てそう言った。彼女の顔には濃い疲労の色が滲み、自慢のローブは土埃で真っ白に汚れている。
後衛であるはずの彼女がここまでボロボロになっているということは、先ほどの一戦がどれほど熾烈な防衛戦だったかを物語っていた。
「みんな、よく守りきってくれた」
俺が歩み寄って彼女の肩をポンと叩くと、少女の強張っていた表情が、ようやく少しだけ和らいだ。
俺は再びキールに向き直った。
「医療班は来るのか?」
「ああ! 特別に神殿へ掛け合って『神官』を派遣してもらうよう頼んである。ただ……その、費用の面が、ちょっとばかり……」
そこまで言うと、キールの顔にバツの悪そうな色が浮かんだ。
その理由には、俺もすぐにピンときた。この世界は文化水準が低く、一般的な医療知識も遅れているため、人体の治療はほぼ神殿の神官が操る回復魔法に依存している。そのため、神官の診療費は常に高額で、一般人にはとても手が出ないほどの「天級の価格」なのだ。
「費用の心配なら要らない。みんなが無事ならそれでいいさ。あとの手続きや支払いはすべて俺が引き受ける」
「ゲンタク、ありがとう……!」
キールは目を潤ませ、深く感動した様子だった。
――だが、俺の胸の内は少しばかり心苦しさで満たされていた。
本当のことを言えば、俺の手元にある『聖なるミネラルウォーター』を使えば、レオンたちの傷なんて一瞬で完治させられる。しかし、すでに神官を呼ぶ手配をしてしまった以上、彼らが到着した後に「あ、もう傷が治ったんで治療費は払いません」なんて言うわけにはいかない。大人の事情というやつだ。
面倒なトラブルを避けるためにも、レオンたちには申し訳ないが神官が来るまで少し待ってもらうしかない。ただし……。
俺はシルヴィアを少し離れた場所へと連れ出し、耳元でこの懸念をコッソリ伝えると同時に、彼女の懐に『聖なるミネラルウォーター』のペットボトルを一本滑り込ませた。
もし万が一、神官の到着が遅れたり来なかったりした場合は、負傷者たちにこれを飲ませるか、傷口に直接振りかけるようにと指示したのだ。シルヴィアは無言で深く頷き、ボトルを大切そうに服の内に隠した。
「それで、その化け物はどっちへ行った?」
「まさか、あんた一人で探しに行くつもりじゃないだろうな!? 成体のソウルイーター・ハウンドは冗談抜きで強いんだぞ! 俺たち五人がかりでも足止めするのがやっとだったんだ。一人で行くなんて危険すぎる!」
「ううん……行っちゃダメ……。あいつ、すごく……手強い!」
キールとニクスが血相を変えて反対した。
だが、俺に引き下がるという選択肢はなかった。あの化け物がいつ気が変わってこの現場に戻ってくるか分からない以上、ここにいる負傷者たちの安全は保証できない。
何より、俺の領地のすぐ側でそんな危険生物をのさばらせておくわけにはいかないのだ。
「遠くから様子を見るだけだから、心配ないさ!」
それだけ言い残すと、俺はいくつかの跳躍を見せ、あっという間に深い森林の奥深くへとその姿を消した。あとに残されたキールたちは、驚愕のあまりただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
地面に残された巨大な足跡を辿っていくと、驚くほどあっさりと標的を見つけることができた。馬車の襲撃現場からおよそ二キロメートルほど進んだ森の開けた場所。
俺は木々の隙間から、遠目にその異様な姿を捉えた。
二階建ての家屋に匹敵する巨大な体躯。
犬と熊を不気味に融合させたような醜悪なシルエット。
ただれている表皮からは底の森々とした白骨が露出し、全身から禍々しい黒い死気を立ち上らせている。
間違いなく、こいつが噂の成体――『噬魂犬』だ。
だが、驚いたのはその化け物の周囲に、総勢25名前後の集団が群がり、死闘を繰り広げていたことだった。
彼らは各自武器を手に警戒の目を光らせていたが、その身体に刻まれた無数の傷と隠しきれない疲労の色が、彼らの置かれた過酷な戦況を物語っていた。
目を凝らしてよく見ると、全員が酷似したデザインのタイトな狩猟服を纏っている。髪は美しい金髪、あるいは淡い緑がかった金髪で、その両耳は細長く尖っていた。
(これって……まさか、お伽話に出てくる『エルフ』か?)
俺は樹上の梢に身を潜め、静かに眼下の状況を観察することにした。
「『台風斬』!!」
一人の端正なエルフのイケメンが長剣を構え、猛然と一閃を放った。
直径二メートルはあろうかという巨大な真空の剣気が瞬時に飛び、ソウルイーター・ハウンドの巨体を直撃する。化け物の腐肉が大きく削ぎ落とされた。
「オオォォォン!!!」
ソウルイーター・ハウンドが苦悶の咆哮を上げる。
激昂した化け物は巨大な前肢で地面を激しく叩きつけ、凄まじい勢いで地表の砕石を、攻撃の主犯に向けて弾き飛ばした。
テレビ一台分ほどもある巨石が、エルフのイケメンの腹部を正面から直撃する。
次の瞬間、彼の身体から淡い緑色の障壁(淡綠色的光芒)が弾けた。どうやら身につけていた魔法具の防護シールドが発動したらしい。
辛うじて致命傷は免れたものの、彼はその衝撃で激しく鮮血を吐き、その場にどさりと膝を突いた。
「オベロン!!」
ショートヘアの女エルフが悲痛な叫びを上げ、慌てて彼を抱き起こそうと駆け寄る。
だが、オベロンと呼ばれた男はその手を拒絶するように押し退けると、血を吐きながらもフラフラと立ち上がり、再び剣を構えて戦線へと戻っていった。
樹の上でしばらく戦いを見ていた俺は、ソウルイーター・ハウンドの大体の実力を見極めると、エルフたちの後方へと音もなく回り込んだ。
地面に転がっていた持ち主不明の長剣を一本拾い上げると、俺はそのままソウルイーター・ハウンドの正面に向かって一直線に突撃を開始した。
突然の乱入者に、周囲のエルフたちが一斉に目を見開いて呆然とする。
「誰だあいつは!?」
「グルルァ!」
ソウルイーター・ハウンドが俺を迎え撃つべく大きな顎を開いた。その奥で圧縮された死気が急速に凝縮され、不気味な黒いエネルギー弾へと変化する。それが「音」を置き去りにする速度で、俺を目がけて射出された。
千釣一髪のところで俺は地面を激しく転がり、その強烈な一撃を間一髪で回避した。
ズドォォォン!
俺の背後で凄まじい爆発音が響き、振り返るとそこにはクレーターのような巨大な深坑が穿たれていた。
(……おいおい、直撃を食らったら冗談じゃ済まないぞ!)
俺は深く息を吸い込み、再び前進のステップを踏む。
耳を聾するような爆鳴が連続して響き渡る中、さらに二度のスレスレの回避を敢行し、俺はついに化け物の懐へと潜り込んだ。
俺は死気を浴びてボロボロに穴の空いた自分のマントを乱暴に引きちぎるなり、ソウルイーター・ハウンドの顔面目がけて力一杯投げつけた。
マントが顔を覆い、化け物の視界が一瞬だけ完全に遮られる。その刹那、俺はすでに奴の頭頂部よりも高く、空中へと跳躍していた。
「『御竜天式・破暁飛竜』!!」
全身の『竜の力』を拾った長剣へと爆発的に収束させ、上空から一気呵成に斬撃を振り下ろす。
放たれた強大な剣気は眩い光を放つ一本の巨竜へと姿を変え、ソウルイーター・ハウンドの巨体を一瞬にして細切れの肉片へと切り刻んだ。
周囲に立ち込めていた黒い死気が、潮が引くように霧散していく。
静寂が戻った戦場の中央で、俺は一人、静かに佇んでいた。現場のエルフたちは、もはや言葉を失って開いた口が塞がらない様子だった。
俺は彼らに視線を向けることもなく、手の中でパキパキと音を立てていた長剣の柄をその場に投げ捨てた。鉄製の安物の剣身は、俺の放った竜の力の奔流に耐えきれず、すでに無数の破片へと崩壊していたのだ。
続いて、俺はシステムパネルを操作し、『聖なるミネラルウォーター』を一本購入した。そして、足元に転がっているソウルイーター・ハウンドの肉片の一つに、それを実験的にトトト……と注いでみた。
ジューーーッ!
まるで沸騰した熱湯に氷の塊を放り込んだかのように、肉片から大量の白い蒸気が噴き出し、見る見るうちに縮んで最後にはただの泥水へと変わってしまった。
「お、マジで効果あるじゃん」
職人たちの話によれば、ソウルイーター・ハウンドは野良犬や魔狼の死骸に怨念が宿って生まれる、一種の幽霊型魔物(怨霊)らしい。幼年期は実体を持たない完全な幽霊のため攻撃が通用しないが、成体へと進化すると、逆に魔獣の死骸を依り代として肉体を得る。つまり、実体化している今こそが、物理的に消滅させる絶好のチャンスなのだ。
本当なら【冷蔵庫システム】で点数に変換することも考えたのだが、この手のアンデッドタイプの魔物と遭遇するのは今回が初めてだ。今後の安全対策のためにも、今回は点数化を諦め、貴重な戦闘データの収集と割り切ることにした。
幸いにも、俺の攻撃が有効であること、そして『聖なるミネラルウォーター』を使えば死体を完全に浄化できることが証明された。これなら今後同じ化け物が現れても怯む必要はない。
俺はさらに十数本のミネラルウォーターを景気よく買い足し、周囲に散らばるすべての肉片にドボドボと浴びせかけて、完全に浄化を完了させた。
「ふぅ~、これでひと安心だな! さてと……次は、お前たちをどう料理してくれようか?」
激戦を終えた解放感から、俺はただの冗談のつもりでそう呟いた。――本当に、ただの軽い口叩きのつもりだったのだ。
しかし、その言葉を聞いた瞬間、なぜか先ほどのエルフのイケメンが完全にブチギレた。
「下等な人間風情が……ッ! 誰の許しを得て我らの獲物を横取りした!?」
「その傲慢の代償、今日ここでその身に支払わせてやる!!」
オベロンは両目を怒りで真っ赤に染め上げると、激しい敵意を剥き出しにして手にした長剣を突き出し、俺を目がけて一直線に斬りかかってきた。
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