第26話:雪花領
今回の騒動を経て、俺とアリアは無事に仲直りを果たした。
以前のようにべったりと付きまとってくることはなくなったが、お互いの絆がより深まったことを、俺たちは確かに実感していた。
開拓領主の布告が正式に下されたこともあり、俺はさっそく領地経営のための諸手続きを進めることにした。
まず着手すべきは、住居の建築だ。
今住んでいる、たった二階建ての小さな丸太小屋では、もう俺の需要を満たしきれなくなっている。宿泊用としても、倉庫としても、もっとたくさんの部屋が必要だった。
そこで、ケチャップと砂糖を納品するタイミングを利用して、ピエニン商会の職員にローラン宛ての手紙を託した。腕のいい職人を何人か紹介してほしい、という内容だ。
相手も当然、断る理由はなかった。俺の領地経営が軌道に乗れば乗るほど、将来的に取引できる貨物量が増えるのだから。
設計図が確定すると、職人たちは馬車で資材を次々と運び込み、丸太小屋の隣で新たな建物の建設を開始した。
建物は全部で二棟。大と小の二つが、左右に向かい合う形で建てられる。
左側に位置するのは、長屋風の佇まいをした三階建ての『雪花旅館』。部屋のタイプはスイートルーム、スタンダード、そして相部屋の三種類だ。
領主である俺は、街道の裏手に面した最も静かな二つの部屋を選び、壁をぶち抜いて一つの広い居住スペースにした。
一方、右側に位置するのは『雪花商会』だ。こちらは輸出入貿易の窓口として機能する。三階建てに加えて地階(地下室)も備えており、大量の物資を蓄えることができる構造だ。
そして、旅館と商会の間には、新しく石畳の道が敷設された。
費用は主に、建築費、家具代、輸送費、諸経費(人件費など)に分けられる。
費用は概ね以下の通りです:
雪花旅館(三階建て)の建築費【金貨30枚】
雪花商会(三階建て+地下倉庫)の建築費【金貨15枚】
中央石畳の道の敷設費【金貨2枚】
上質なベッド、家具、調理器具などの備品一式【金貨7枚】
人事・管理雑費【金貨5枚】
職人たちのテント、寝袋、および毎日の食費【金貨10枚】
輸送車隊の専属護衛費用【金貨10枚】
建設補助の魔法師(二人)の雇用費【金貨8枚】
石材および木材の輸送費【金貨10枚】
馬車部品の摩耗・修繕費【金貨3枚】
【合計金貨 100枚】
普通なら何年も働かなければ支払えないような大金だが、幸いなことにミッドナイトが遺してくれた10万枚の金貨がある。おかげでその場ですぐに、現金の即金で支払うことができた。
そこまで考えて、俺はふと、ミッドナイトやグラフェンと一緒に過ごした日々を懐かしく思い出した。
「みんな、元気にしているといいんだが……」
その日の夜、ベッドの中でその胸の内をアリアに話したところ、彼女はぷいっと顔を背け、どうあっても口を利いてくれなくなってしまった。
そのまま眠りに落ちる寸前、俺の耳に微かな声が聞こえたような気がした……。
「私だって、頑張ってるのに……」
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こうして、ついに建物の建設が始まった。
全員がそれぞれの持ち場につき、目の前の仕事に集中している。
俺が全体の統括を、アリアが財政を、そしてソフィアが職人たち全員の食事の世話を担当することになった。
彼女は毎日、料理を作っているか、飯を運んでいるかのどちらかだった。
俺が提供する食材と、現代の調理メソッド。この二つが合わさったことで、女子力全開のソフィアはあっという間に超一流の宮廷料理人へと変貌を遂げ、毎日異なる絶品料理を振る舞った。
最初は「なんでこんな人里離れた秘境で家なんか建てなきゃいけないんだ」と、この世の終わりみたいな顔で愚痴をこぼしていた職人たちは、瞬く間に世界で一番幸せな労働者へと変わっていった。
「これが噂のケチャップ卵チャーハンか!? う、美味すぎるだろ!」と、職人A。
「まさかこんな伝説級の料理が食えるなんてな。あの時ジャックとシフトを代わらなくて本当に良かったぜ。今回は大アタリだ!」と、職人B。
「信じられん! 『ピオニー・イン』じゃこの料理は銅貨50枚もするんだぞ。しかも完全予約制だから、金があっても食えるとは限らない。それを今、タダで食えてるっていうのか? ゲンタク様、なんて器の大きい御方なんだ!」と、職人C。
「はぁ……三ヶ月後にはここを離れなきゃいけないと思うと、今から鬱になりそうだ。ゲンタク様がもっと家を建てて、いっそのことここに街でも作ってくれれば、ずっとここに居座れるのになぁ」と、職人D。
「都合のいい夢見てんじゃねぇよ! ……まぁ、本音を言えば俺も同感だけどな、ハハハ!」と、再び職人A。
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料理や接待、納品といった実務をすべて他のみんなに任せてからというもの、俺がやるべきことは基本的に二つだけになった。
一つ、雪花領の発展方針の策定。
二つ、魔獣の狩猟。
体を動かす狩猟だけでも十分に疲れると思っていたが、まさか『頭を使う』ことの方が、これほど膨大なエネルギーを消費するとは思わなかった……。
「左側の建物ですが、構造にはハーフティンバー様式を採用しております。落ち着いた深色のオーク材を骨組みにし、隙間を漆喰で埋める形ですね。うちの町にある建物の大半はこの工法です」
「ほう、なるほど……」
「外観に関しては、いわゆるキャンティレバー(懸出し)構造を取り入れています。一階より二階、二階より三階を広く突き出すことで、上層の床面積を広げるだけでなく、下層の木材を雨の浸食から守る実用性もあるのですよ」
「なるほど、そうなのか……」
「ご存知ですか? 巨木の森から採れる木材は、軽いだけでなく極めて強い靭性を持っていましてね。我が工房特製の塗料を塗れば、防火・防虫はもちろん、耐用年数も恐ろしいほど伸びるのです。いやぁ、手前味噌ですが……」
「おお、それは凄いな……」
まだ基礎工事を始めたばかりだというのに、建築家のスレーターは待ちきれないとばかりに、施工全体の流れや自社の技術的優位性を俺に熱弁し始めていた。
熱心な説明を受けているものの、俺の意識はすでに朦朧としていた。なにしろ、この講義が始まってからもう20分近くが経過しているのだ。
そこへ、職人たちに昼飯を届け終えたソフィアが、たまたま通りかかった。
彼女は俺の情けない様子を目にすると、「ぷっ」と吹き出し、そのまま見て見ぬふりをして通り過ぎていった。
俺は心の中でそっと天を仰ぎ、領主という立場も決して楽なものではないな、と深くため息をつくのだった。
◆ ◆ ◆
【Side:アリア】
全員での話し合いを経て、アリアは自分自身の居場所を見つけていた。
彼女は『女主人』としての職務を一身に背負い、雪花領の財政管理と、貿易における対外窓口を任されることになったのだ。
今では、ピエニン商会の者がケチャップや砂糖を引き取りに来る際、アリアが一人で応対し、検品と帳簿のチェックを行っている。
そして今日、やって来たのはローラン本人だった。彼はアリアが当たり前のようにカウンターの中に座って店番をしている姿を見て、思わず目を見開いた。
「お久しぶりです、ローランさん」
アリアは薄く微笑み、ごく自然な態度で挨拶を交わす。
「お、お久しぶりです……!」
あのローランが珍しく言葉を詰まらせ、しどろもどろになっていた。
なぜなら、目の前にいる少女の姿が、数ヶ月前の彼女とはまるで別人のようだったからだ。
きらきらと輝く宝石のネックレスは見当たらず、金貨数枚はくだらないレエスのドレスも、糊のきいた白いブラウスと濃紺のハイウエスト・プリーツスカートに替わっていた。
以前は肩に流していた美しい金髪は、白いリボンできちんとまとめられて上品なシニヨン(お団子ヘア)になっており、すっきりとした額が覗いている。その佇まいは、どこからどう見ても成熟した有能なビジネスウーマンのそれだった。
「先日、グレース様がお見えになった際、貴商会が『太巻き』の商業契約を締結したがっているとお聞きしました。ケチャップ卵チャーハンの時と同様のプロセスで、製法と販売資格を貴商会にライセンス供与する形でよろしいでしょうか?」
アリアの口調は落ち着いており、遅急の乱れがない。その威厳は、まるで何百年も海を往く巨大な帆船のようで、商売人として百戦錬磨のローラン相手にも寸分も引けを取っていなかった。
金髪の紳士は頭が一瞬真っ白になり、ただ呆然と「ええ、それで結構です……」と答えるしかなかった。
ローランには本当に理解できなかった。なぜアリアにこれほど劇的な変化が訪れたのか。
ほんの数ヶ月前まで、アリアは自分を追いかけていたはずだ。あの頃の彼女は、プライドの高い子猫のようで、人に頭を下げるということを全く知らない傲慢なお嬢様だった。
しかし、今の彼女の言動には内斂された気品があり、他人を見下すような傲慢さは微塵も感じられない。
一体、彼女は何を経験すれば、ここまで変われるというのか。
「草案を用意しておきました。ご確認いただき、問題がなければサインをお願いします」
「分かりました」
ローランはアリアから差し出された書類を受け取り、詳細に目を通した。
契約の形式自体は以前と同じだったが、細かな変更点がいくつか見受けられた。
主なポイントは二つ。まずは、調味料の仕入れ価格だ。
【価格条項】
甲(雪花商会)は、特恵卸売価格として、『焼肉のタレ(300g)』を1瓶につきマッスル銅貨25枚、および『マヨネーズ(300g)』を1瓶につきマッスル銅貨30枚で乙(ピエニン商会)へと供給する。
次に、料理の販売価格とロイヤリティ。
【販売および分潤条項】
乙は高級酒場において「太巻き」を販売するものとし、その提供価格は1人前につき一律マッスル銅貨60枚と暫定する。
乙は1人前を売り上げるごとに、その10%にあたるマッスル銅貨6枚を「分潤」として甲へと支払うものとする。
その他の条項は従来通りで、契約期間は一年。毎週一回、雪花領にて商品の引き渡しを行い、月末に一括精算する。
今回の取引もケチャップ卵チャーハンの時と同じビジネスモデルだ。雪花商会は料理そのものを売るのではなく、マヨネーズと焼肉のタレという二種類の調味料を販売する。
これなら、たとえ他人が模倣品を作ろうとしても、本物の味を再現することは不可能だ。これこそが、現代食品工業の持つ強みに他ならなかった。
「まさかアリアお嬢様が、本当にゲンタクさんの旅館で働いていらっしゃるとは。最初に噂を聞いた時は、てっきり一時的な気まぐれかと思っていましたよ! ハハハ!」
ローランはしみじみと感嘆しながら、書類に自分の名前をサインした。
しかし、アリアは即座に首を横振り、こう告げた。
「働いているわけではありません」
「え?」
「これは私の『家業』ですから。仕事とは言いませんわ」
「?」
ローランはわけが分からないという表情を浮かべた。
だが、彼が手渡された書類の署名欄に目を落とした瞬間、そこには厳然とこう記されていた。
――**アリア・玄・ヨルゴス**。
ローランはそこでようやく思い出した。ロプロス王国では、既婚女性が名前の中に夫の姓をミドルネームとして組み込む、非公式な宣誓の慣習があることを。
「なるほど……。ソフィアさんを射止めただけでなく、あのアリアお嬢様のハートまで完全に射止めていたとは。ゲンタクさん、あなたは一体何者なんだ……?」
少し離れた場所で職人たちと話し込んでいる男の後ろ姿を見つめながら、ローランは心からの驚嘆を口にするのだった。
◆ ◆ ◆
【Side:ソフィア】
ソフィアが丸太小屋に戻ると、ドアを開けた先でアリアが優雅にアイスティーを嗜んでいるのが見えた。
ソフィアは微笑みながら尋ねる。
「工事の進捗はどうですか?」
「順調よ。ピエニン商会が紹介してくれた魔術師たちも手伝ってくれているから、棟梁の話だと早ければ三ヶ月以内に完工するそうよ。ただ……ソフィアが見つけてきたあのベテラン職人、本当に信じられないくらいお喋りね。お弁当を二回届けに行ったけれど、一瞬たりとも口が止まる気配がなかったわ」
「きこりの町は公爵領内でも最大の木材加工工場がありますし、建築職人の数も一番多いですからね。スレーターさんはその中でも一際優れた方ですから、きっとご自身のこれまでの実績に強い誇りを持っていらっしゃるのでしょう」
アリアは平然と言ってのけ、手元のアイスティーを上品に口に含んだ。
ソフィアには、お嬢様が何を企んでいるのかがよく分かっていた。雪花領の未来のために最高の職人を雇うと同時に……ゲンタクを「お仕置き」して困らせるためだ。
女という生き物は、どんな時であっても少々根に持つ生き物なのだ。
そこまで考えて、ソフィアは思わずクスクスと笑ってしまった。
「ふふ、どうやらゲンタク様は、しばらく苦労されることになりそうですね」
「これくらい当然よ! 私が彼のせいで流した涙は、あの人の100倍はあるんだから。どうしてあなたが彼を憐れむのよ!」
「はいはい、そうですね」
すっかりおへそを曲げて憤慨している我が家のお嬢様を見て、ソフィアはたまらず歩み寄り、彼女の体を優しく抱きしめた。
胸の奥に温かいものが込み上げてくるのを感じつつも、アリアはもがくようにしてソフィアを押し返そうとした。
「お姉ちゃん、私はもう子供じゃないわ! 早く離して!」
「私から見れば、いつまで経っても可愛い子供ですよ」
黒髪のメイドは彼女の背中を優しくポンポンと叩きながら、その顔に慈母のような微笑みを浮かべた。
「お姉ちゃん……」
「ん?」
「お姉ちゃんが公爵邸に奉公に来てから、もう四年になるかしら?」
「そうですね。月日が経つのは早いものです。あの頃のお嬢様の胸は、まだまな板みたいに真っ平らでしたのに」
「お姉ちゃんっっっ!!!」
「うふふ!」
お嬢様が本気で怒り出したのを見て、ソフィアはまたしても笑声を漏らした。
「私たちは、これからもずっと一緒にいるのよ……」
「ええ……」
「だから……もしお姉ちゃんが何かしたいと思うなら、私は止めたりしないわ……」
「アリア……」
ソフィアは、背中を撫でていた手をぴたりと止めた。
まさか、自分が心の奥底に隠していたこの熱い感情を、八歳も年下のはずのこの子に見抜かれていたなんて思いもしなかったのだ。
どうやら彼女は、本当に大人の女性へと成長したらしい。
「――分かりました。では、私はもうしばらくの間、我慢することにいたしましょう。何しろ、新婚の夫婦というのは、最初の数ヶ月はなかなか節制が効かないものですからね」
「お、お姉様っっっ!!!」
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