第25話:私は本当に、あんたが大嫌い!
【Side:ソフィア】
どれほど走り続けたろうか。アリアは一本の小さな川の前にたどり着き、ようやくその足を止めた。
すぐ後ろを追ってきたソフィアは、彼女の背中を静かに見つめながら、少し離れた場所からそっと守るように佇んでいた。
「ソフィアお姉様……。私……やっぱり、すごく馬鹿だったのかな?」
水面をせわしなく追いかけ合う魚たちの姿を眺めながら、アリアの目からまた、ぽろぽろと涙が無意識にこぼれ落ちた。
「女の子というものはね、あえて馬鹿なフリを覚えた方が、ずっと楽しく生きられるものなのですよ。……かつて、私の母がそう言っていたのを覚えています」
ソフィアは一歩前に踏み出すと、後ろから少女の細い腰を優しく抱きしめた。
メイドの胸の内に、ふと感慨深い思いが去来する。
気づけば、かつては自分の胸の高さほどしかなかった小さな女の子が、今やこうして自分と同じ目線で話せるほどにまで成長していた。
きっと未来の彼女は、自分など到底及ばない、遥か高い場所へと羽ばたいていくのだろう。
「でも、あいつ……! あんな風に私を弄んで……私はこれからどうすれば……っ!」
アリアは激しい感情の波に身を震わせた。
この一ヶ月の美しい思い出が、走馬灯のように次々と脳裏を駆け巡る。生まれて初めて心から好きになった人ができたのに、次の瞬間にはあんな理不尽で荒唐無稽な理由で終わりを告げられるなんて、一体全体どういうことなのだ。
なぜ、よりによってあんたなの?
なぜ私に希望を与えておきながら、それをこんなに簡単に奪い去っていくの?
「きこりの町へ戻りますか? 明日の朝一番に、あなたをおんぶして連れて帰ってあげますわ」
ソフィアの気遣わしげな優しい提案に、アリアは逆に、ハッとしたように口を閉ざした。
「……ううん、ダメよ。そもそも、私が我が儘を言ってエロディ伯爵領へ避暑に行きたいなんて言い出したから、イアンもメリーもあんなことに……。私はもう……絶対に同じ間違いを繰り返しちゃいけないの!」
息を何度も切らしながら、アリアはかろうじてその言葉を紡ぎ出した。
ソフィアはそれ以上何も言わず、ただ静かに彼女の傍らに寄り添い続けた。
メイドには、すべてが分かっていた。アリアは公爵の唯一の娘だ。その身分を利用しようと企む輩は、これまでも彼女の周りに五万と現れた。――そして皮肉なことに、ゲンタクという男は、その中で「最も無害な部類」だったのだ。
彼はあの開拓の公文書を除けば、アリアに対して実質的に何も要求してこなかった。彼女の柔らかな身体に不純な目的で指一本触れることすらしなかった。
それどころか、毎日趣向を凝らした絶品の料理を作り続け、体質を根本から改善するような出所不明の高級食品を、惜しげもなくアリアに与え続けてくれた。
あの凄まじい特殊効果を持つ食品が、外の世界で一体どれほどの天文学的な高値で取引されるか分かったものではない。それを彼は、まるまる一ヶ月もの間、彼女に食べさせ続けたのだ。
先ほどリビングで、ソフィアがゲンタクを即座にブチのめさなかった理由もここにある。――アリアが得たリターンは、あまりにも大きすぎたのだ。
たった一度の失恋と、一枚の書類。それらと引き換えに、彼女は生涯を縛り付けるはずだった病弱な身体を脱ぎ捨て、健全な肉体と、輝かしい第二の人生を手に入れた。
この事実をもし公爵本人が知ったとしても、決してゲンタクを責め立てるような真似はしないだろう。
幸いなことに、二人の関係はまだ始まったばかりの段階で、男の方から潔く身を引いて非を認めた。
すべては、まだ引き返せる段階だ。
この手痛い挫折を経て、アリアは本当の意味での「大人」へと脱皮するに違いない。
「ふぅ……。さあ、戻りましょう! あいつが本当にただのクズ人間だって言うなら、私はあいつのことを大嫌いなままでいてあげるわ。……綺麗さっぱり忘れてしまう、その日までね!」
◆ ◆ ◆
【Side:ゲンタク】
黄昏時、ソフィアに手を引かれたアリアがログハウスへと戻ってきた。
ドアを開けた瞬間から、アリアはリビングの椅子に座る俺を、文字通り蛇蝎の如き激しい憎悪の眼差しでキッと睨みつけてきた。
俺にできることなど何もなく、ただ平然を装った引きつった笑みを浮かべながら、二人を晩飯の席へと促すことしかできなかった。
今夜のメニューはチキンカレーだ。二人の分の皿にたっぷりと盛り付け、それぞれの目の前へと静かに差し出した。
「今夜はちょっと、月明かりを眺めながら外で飯を食べたい気分だから、俺はこれで……」
俺は自分のカレー皿を持ち上げ、一人で外の空気を吸いに出かけようとした。アリアの情緒は今にも爆発しそうなほど不安定だ。これ以上同じ空間にいたら、今度こそ皿ごと俺の顔面に投げつけてくるに違いないと恐怖したからだ。
だが、俺が背を向けかけたその時、アリアが低く冷たい声で言葉を放った。
「座りなさいよ……」
「……」
「席に戻れって言ってるのよッ!!!」
アリアが突然、鼓膜を突き刺すような大声で俺に向かって怒鳴り散らした。
俺はその気迫に完全に気圧され、大慌てで借りてきた猫のように大人しく元の席へと腰を下ろした。
次の瞬間、俺のすぐ隣の椅子がガタリと手荒に引かれた。
アリアがすぐ横に腰を下ろし、感情の消えた声で冷淡に告げる。
「みんなで食べましょう。……こんなに美味しい料理、食べないなんて……それこそ、もったいないじゃない」
そう言うと、彼女は真っ先にスプーンを手に取った――が、一向にそれを口へ運ぼうとはしなかった。
ただじっと、俺がカレーを一口、また一口と気まずそうに咀嚼していく姿を、至近距離から無言で見つめ続けている。
一方のソフィアは、何事もなかったかのように平然とした様子で、優雅な所作で盤中のカレーライスを黙々と楽しんでいた。
狭いリビングの空気は完全に凍りつき、俺一人だけをピンポイントで押し潰すような超低気圧が渦巻いている。
そして、ついに――。
カラン……。
鉄製のスプーンが、真っ白な磁器の皿に力を失ったように軽く音を立てて当たった。
俺の皿には、もう米一粒すら残っていなかった。
その瞬間を見届けたように、少女はゆっくりと、痛みを堪えるように両目を閉じ、絞り出すような声でこう言った。
「私……本当に……あんたのことが、大嫌い……!」
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俺の皿は空になったが、この地獄のような時間が終わる気配は微塵もなかった。
圧倒的なプレッシャーに精神を削られ、俺には席を立つ勇気すら湧いてこない。ただ座ったまま、今度はアリアが食事を進めるのを、生きた心地がしない状態で見守ることしかできなかった。
何より恐ろしかったのは、彼女が身体ごとこちらに向き直り、俺の顔を文字通り「凝視」したまま、機械的にカレーを口へと運び始めたことだ。
その瞳からは一切の光が消え失せ、まるで感情を完全に消去された精密なロボットのようだった。全身の中で、スプーンを持つ右手だけが規則正しく、不気味に動いている。
しかもソフィアの奴……あろうことかメイド服を脱ぎ散らかして、一人でソファにだらしなく転がってビールを煽ってた。
「ぷはぁ! 生き返ったわ!」
悪いがね!
こっちは死に際なんだよ!
どれほどの時間が流れただろうか。アリアはようやく目の前のカレーを食べ終えた。
彼女は自分の皿をこちらへと押し出すと、これまでにないほど優しく、どこか艶やかな声音でこう言った。
「……洗ってきて」
その瞬間、リビングを重苦しく支配していたあの超低気圧が、嘘のように綺麗さっぱり消え去った。
俺はまるで国王からの恩赦を得た罪人のように、振り返ることもせずキッチンへと脱兎の如く駆け込み、皿洗いに没頭した。
だが……何故だろうか。アリアがずっと、俺の真後ろにぴったりと立ったまま一言も発しない。
俺が右に動けば右に、左に動けば左に、まるで影のように無言でついてくるのだ。
家事をすべて終え、生きた心地がしないまま自分の部屋の前にたどり着いたところで、俺はついに観念して振り返った。
「あの……お嬢様。あなたの部屋は、お隣ですよね?」
「それが何か問題でも?」
「いや! そういう意味じゃなくて、その……」
「な・に・か・問・題・で・も?」
お嬢様が微笑んだ。
それは彼女がこれまでに見せた中で、最も燦然と輝く、しかし同時に「絶対に拒絶を許さない」という恐るべき覇気を孕んだ満面の笑顔だった。そのまま、俺の目の前ギリギリまで顔を突きつけてくる。
「……いえ、ありません」
その底知れぬプレッシャーに負け、俺が一歩下がると、彼女はすかさず二歩前進してきた。
そのままずるずると自室へと押し込まれ――。
カチャリ。
無情にも、内側から鍵が掛けられた。
「あの……アリアお嬢様」
「なぁに?」
「未婚の男女がこんな夜更けに同じ部屋に籠もるなんて、どう考えても不健全というか、マズいと思うんですが」
どれほど絶望的な状況であっても、俺はまだ希望を捨てていなかった。この一ヶ月の付き合いで、アリアの本質が根は素直で優しい良い子だということは痛いほど知っている。きっと俺の苦渋の決断を理解してくれるはずだ、と。
「何言ってるのよ。あんたが言ったんでしょ? 私たちは、お・友・だ・ち、だって!」
「……もしかして、まだ怒ってます?」
「怒、っ、て、な、い、わ、よっ!」
「そ、そうですか!」
大嘘つきめ……。
これ以上刺激するのは危険だと判断した俺は、それきり口を閉じ、ベッドへと直行して仰向けに横たわった。そして、現実逃避するように掛け布団を頭からすっぽりと被った。
だが次の瞬間、ベッドの反対側がぐにゃりと大きく沈み込むのを感じた。
「……同じベッドで寝るのだけは、さすがにちょっと……」
「お友達が同じベッドで寝るのの、どこが可笑しいっていうのよ?」
「いや、俺が言いたいのはそういうことじゃなくて……」
「文句があるなら、あんたが一人で床に寝ればいいじゃない」
「(……)」
なんで俺が自分の部屋で、一人で床に寝なきゃいけないんだよ。
……ああ、そうかい! そこまで言うなら、受けて立ってやるよ!
「先に言っておきますけどね、ロプロス王国は法治国家です! たとえ公爵家の令嬢であろうとも、一線を越えれば法律の裁きから逃れることはできませんからね!」
「ふん……」
布団の向こう側から、鼻で笑うような冷たい鼻鳴らしが聞こえた。
五分後――。
「ちょっと待て! さすがに距離が近すぎやしませんか!?」
「ちょっと寒いのよ。だから、ただ抱きしめてほしいだけ……心配しないで、本当に抱きつくだけだから。何もしないわ」
「……約束ですよ? 本当に抱きつくだけですからね」
さらに五分後――。
「暑い……! ちょっと離れてくれ……って、待て待て待て! なんで服を着てないんだお前は!?」
「言ったでしょ、ただ抱きつくだけって……」
「だけど……っ!」
「うるさいわね!」
アリアは身を翻すなり、俺の身体の上に馬乗りになって押し倒し、その愛らしい桜色の唇で、俺の反論を力任せに塞いできた。
「んむっ……んんぅ……!?」
長い、気の遠くなるような口づけの後、彼女は名残惜しそうに唇を離すと、上から見下ろすように俺をじっと見つめた。その瞳には、怪しい情熱の炎が揺らめいている。
「あんたもよく知ってるでしょ? 私の病気はもう完全に治ったのよ。今の私なら……いくらでも『激しい運動』に耐えられるんだから」
そう言い放つと、彼女は再び身体を伏せ、次の行動へと移った。
今度の彼女は、決してその手を止めようとはしなかった。
その目から、堪えきれない大粒の涙が溢れ出してきたその瞬間になっても、彼女は最後まで、止まることはなかった――。
窓の外では、いつしか激しい大雨が降り始めていた。
ザーザーと激しく世界を叩く雨音は、室内のすべての喧騒を掻き消し、この世界をただ一つの情動の音だけで満たしていく。
やがて、雨が上がった。
枯れ落ちた古葉も、鮮やかに咲き誇っていた真紅の花弁も、すべての塵芥は雨によって洗い流され、等しく大地の養分へと変わっていく。それはいつか訪れる未来の日、新しい命を育むための、静かな始まりの雨だった。
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深夜。
「ねえ……」
「ん……?」
「その人の名前……ミッドナイトっていうの?」
「……ああ」
「教えてよ。……二人がどうやって出会って、どこへ行って、どんなことをしてきたのか、全部」
少女は私の腰に腕を回し、私のそばにぴったりと寄り添った。
肌と肌の触れ合いを通じて、彼女の心臓の鼓動が伝わってくるのを感じた。
たとえごくわずかなものであっても、間違いなく、これは私だけの宝物だ。
そこで、私も彼女をぎゅっと抱きしめた。
「俺たちが、最初に出会った時はな……」
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遠く離れた、俺のあずかり知らぬ大樹の梢の上。
漆黒のローブに身を包んだ怪しい人影が、手にしていた魔導の望遠鏡を静かに下ろした。
高度な魔導具の力により、彼女は数百メートルもの距離を隔てたログハウスの室内の様子を、一から十まで克明に観察していたのだ。
「フフ……なるほど、そういうことだったのね。道理で私が送り込んだ山賊どもが一人も戻ってこないわけだわ。随分と強力な『後ろ盾』を見つけたものね、アリアお嬢様?」
彼女がフードを脱ぎ捨てると、夜の闇に艶やかな紫色の美髪がハラリと流れ落ちた。月光に照らされたその顔は、国を傾けるほどに妖艶で美しい絶世の美貌であり、その耳はエルフのように細長く尖っている。
「けれど、機会なんていくらでも作れるわ。じっくりと息を潜めて待ちさえすれば、ヨルゴスの血脈はいずれ絶える……。そうなれば、我ら魔王軍がこの土地を手に入れるなど、文字通り赤子の手をひねるようなものよ!」
激昂する感情に伴い、女の身体に施されていた「擬態」が次々と解かれていく。
彼女の頭頂部からは山羊のような禍々しい双角が突き出し、妖艶な紫色の瞳は、鮮血のような不気味な赤へと変色した。そしてローブの裾からは、末端がハート型になった細長い悪魔の尻尾が妖しく蠢く。
彼女は鋭く跳躍すると、背中から生えた漆黒の翼を大きく広げ、瞬く間に鬱蒼とした巨木の森の闇へと消え去った。その姿を追える者は、もう誰もいなかった。
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