第19話:離別(わかれ)
ミッドナイトの顔から、さっと血の気が引いていった。
その足元にいるグラフェンにいたっては、ただ姉の細いふくらはぎにしがみつき、小刻みにガタガタと震えることしかできない。
開け放たれたドアの向こう、眩い陽光を背に受けて、一人の高大な影が毅然と立っていた。
さっきまでやかましいほどに響いていた鳥のさえずりや虫の声は、いつの間にか完全に掻き消えている。
森全体が息を引き取ったかのように静まり返り、微かな風の音すら聞こえなくなっていた。
「……【カリアス】を見つけ出したというのに、なぜお前は未だに帰還せぬのだ?」
怯えて身を竦ませるグラフェンを見下ろし、黒龍族の王は不機嫌そうにその太い眉をひそめた。
ミッドナイトの脳内は真っ白に染まり、声を震わせながら途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「わ、私は……その……」
その時、黒龍王は初めて、愛娘が身にまとっている奇妙な衣服に目を留めた。
それは龍族が己の鱗を幻化させて作る強固な鎧などではなく、人間界の女性が好む柔らかな洋装、そしてその上から重ねられたエプロンだった。
「……何をしている。飯の支度か?」
「は、はい……。ちょうど、その……牛排を、焼いていたところでして……」
ミッドナイトは戦々恐々とした様子で応じた。
黒龍王の眼光に、明らかな不満の色が混じる。
彼はその強靭な大手を一振りすると、一切の反論を許さない絶対的な拒絶のトーンで言い放った。
「くだらぬおままごとはそこまでだ! カリアスの身の安全が確認できた以上、今すぐ我が家(故郷)へ連れ戻す!」
父親の冷徹な一言を聞いた瞬間、ミッドナイトの心に激しい焦燥が突き上げた。
(嫌……! 私はまだ、ゲンタクと一緒にいたいの。あと数年、いや、もっと長く一緒に過ごしたいのに……どうして今なの!?)
「お父様、ですが私は――」
「忘れたか? そもそもは、お前が不覚にも貪り眠っていたせいで鉱脈が人間に露見し、結果としてカリアスがただの石炭と誤認されて掘り出されるという大失態を招いたのだぞ」
そこまで言うと、黒龍王は足元のグラフェンを容赦なく片手でひょいと持ち上げ、その幼い肉体を値踏みするように観察し始めた。
当の幼龍は、父親の放つ絶大なプレッシャーに指一本動かすことができず、恐怖のあまりそのまま白目を剥いて気絶(意識喪失)してしまった。
「……ふん、この子の体内に宿る魔力の純度が、信じられぬほどに低下しているな。これ以上の猶予は狂気の沙汰だ。一刻も早く『巨竜山脈』へ連れ戻さねばならん。あの過酷な環境でなければ、この子は正常な成体へと成長できんのだ」
「……分かり、ました……」
ここに至り、ミッドナイトはついに絶望とともに首を縦に振るしかなかった。
これは彼女の個人的な感情の問題ではなく、【黒炎龍】という種の絶対的な生態によるものだったからだ。
龍の幼生体は孵化してからの数年間、活火山や猛烈な溶岩地帯といった、世界でも有数の高濃度な魔力が吹き荒れる極限環境に身を置くことで、初めてその肉体を急成長させることができる。
それこそが、龍族が世界の頂点に君臨する最強の生物たる所以なのだ。
たとえカリアスがこれまで、ゲンタクの提供してくれる不思議で特別な料理(システム食)を食べていたとしても、自然環境そのものが龍族の肉体に及ぼす「魔力的触媒」の代わりにはなり得ない。だから、彼は帰らなければならないのだ。
そして、自分自身も――。
もしここで頑なに拒絶して抵抗すれば、激怒した父親の矛先が間違いなく最愛のゲンタクへと向いてしまう。人間の彼が、龍王の怒りに耐えられるはずがない。
ならば、今は大人しく父親の指示に従って引き下がり、数年が経過して父親の警戒が薄れた頃を見計らって、再びここへ生きて戻ってくる(脱走する)。……それこそが、今取り得る唯一にして最善の選択肢だった。
「……では、少しだけ身の回りの片付けをさせてください。それが終われば、すぐに同行いたします」
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夕闇が世界を包み込もうとする黄昏時。
俺は大きな期待と成果を胸に、ようやくお馴染みのログハウスへと帰還した。
「ミッドナイト! グラフェン! ただいま帰ったぞ!」
声を弾ませながら勢いよく大門を押し開けたが、返ってきたのは静寂だけだった。
室内の空気には、微かに美味そうなステーキの香ばしい匂いが残っている。しかし、愛しい彼女たちの気配や声は、どこを探しても聞こえてこない。
得体の知れない強烈な恐慌が頭をもたげ、俺は心臓をバクバクと鳴らしながら二階へと続く階段を駆け上がり、寝室のドアを乱暴に蹴開けた。
――空っぽ(空的)だった。
少し乱れたシーツが残るベッド以外には、人っ子一人存在しない。
狂ったように他のすべての部屋をひっくり返して探したが、結果は同じだった。
最終的に、一階のダイニングテーブルの真ん中に、ぽつんと置かれた一枚の小さな紙切れと、一つの指輪を見つけた。
紙に書かれていた文字は、驚くほど簡潔だった。
『父が来た。
巨竜山脈。
3年後、また会おう。
愛してる。』
「…………」
俺は手の中にあるその白い紙を、ただじっと見つめ続けた。やがて、目から溢れ出た雫がポタポタと文字を滲ませ、紙全体がぐっしょりと湿っていく。
何度も何度も、表面から裏面へ、裏面からまた表面へとひっくり返して読み直す。
窓の外の景色は、燃えるような夕陽から、冷ややかな月光へとその色を変えていった。
この空間で唯一変わらないのは、俺という存在と、静まり返った空っぽの我が家だけだった。
「……ふぅーーーーっ」
どれほどの時間が流れただろうか。俺はようやく紙切れをテーブルに置き、肺の底から長く重い息を吐き出した。冷え切った頭が、少しずつ現実を受け入れ始める。
俺は隣に置かれていた指輪へと手を伸ばした。
パリィン……!
指輪の周囲を保護していた半透明の「結界」が、俺の接触とともにガラスのように砕け散る。
その指輪を右手の中指へと嵌め込み、意識を集中して己の魔力を僅かに注入した。
【儲物戒指】が起動する。
脳内に直接流れ込んできた内部のインベントリ情報を感知した瞬間、俺は息を呑んだ。そこには、眩いばかりの金貨がこれでもかと詰め込まれた、超巨大な木箱が格納されていたのだ。
大まかに見積もっても、その額は【最低でも十万枚の金貨】。
目の前に突きつけられた、個人の枠を遥かに超えた巨額の富(遺産)を前にして、俺の口から思わず「ぷっ」と自嘲気味な笑いが漏れた。
「ハ、ハハハ……ハハハハハ!!!」
暗い部屋の中に、俺の乾いた笑い声が虚しく響き渡る。
「……クソ、俺が……俺がまだ、あまりにも弱すぎるからだ……っ!!」
俺は怒りと悔しさをぶつけるようにシステムパネルを目の前に召喚し、一気に【10万ポイント】という莫大な数値を消費した。
「システムアップグレード――【二星冷蔵庫】起動!!!」
心の中に溜まったどす黒い鬱憤をすべて吐き出すかのように、俺は大声で吠えた。
真っ暗なレストラン(食堂)の闇の中で、二星へと進化を遂げたシステムパネルだけが、格段に増した眩い輝きを放ちながら警告音を鳴らす。
【通知:システムは正常に『二星冷蔵庫』へと昇格しました。これに伴い、二星ショップのすべてのコンテンツが全面解鎖されました】
「……上等だ」
もっと、もっと強くならなきゃいけない。
もう二度と、理不尽な力によって、俺の大切な家族をこの手から奪わせないために。
(ミッドナイト、待ってろ。俺が必ず、お前をこの家に連れ戻してみせる!)
「見てろよ……!!」
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