第18話:転折点(ターニングポイント)
清々しい朝の光に照らされて、俺はゆっくりと目を覚ました。
隣に視線を向けると、そこには一物もまとわぬ完全な全裸(未著片縷)の状態で、無防備に眠るミッドナイトの姿があった。
彼女はまるで、人間の形をした大きくて温かい最高級の湯たんぽのようだ。抱き心地があまりにも良すぎるせいで、毎朝彼女の腕をすり抜けてベッドから這い出るためには、ちょっとした精神的葛藤(心理掙扎)を乗り越える必要があった。
しばらく彼女の寝顔を眺めた後、俺はミッドナイトの白い頬にそっとキスを落とし、静かにベッドから立ち上がった。
今日は、一ヶ月に一度の「きこりの町(伐木鎮)」へ赴き、ケチャップを納品する約束の日だ。だが、今回の行商にミッドナイトとグラフェンを連れて行くつもりはなかった。
実は、ミッドナイトやグラフェンのような龍族は、本来の生態として睡眠時間が極端に長い。一度深い眠りにつけば、十日や半月、長ければ丸一年近くも眠り続けることすら珍しくないのだという。
しかし、彼女たちはこのログハウスで暮らし始めてから、俺の人間の生活リズムに無理やり合わせようとして、毎朝がんばって早起きしてくれていたのだ。
その健気な気遣いに気づいた俺は、すぐに「無理をしなくていい」と言い含め、少なくとも一週間のうち二、三日は気が済むまで泥のように眠る日(爆睡デー)を作るよう約束させていた。
そして今日がちょうど、その龍族本来の休養日。だから、今回は俺一人の単独行動というわけだ。
俺はリビングのテーブルの上に、行き先と用件を記したメモ書きを一枚残すと、静かに我が家のドアを閉めて出発した。
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午前十時を過ぎた頃、俺はきこりの町へと到着し、そのままいつもの足取りで『ピエニン商会』の門をくぐった。
しかし、一歩中へ入った瞬間、商会内が普段とはまるで違う異様な熱気と混乱(乱成一団)に包まれているのが分かった。
制服を着た四、五人の見習いスタッフ(実習生)たちが、大汗をかきながら大量の商品袋を馬車へと次々に積み込んでおり、カウンターの受付係も鬼気迫る表情で書類にサインを走らせている。彼の脇に積み上げられた羊皮紙は、すでに小山のような高さに達していた。
俺がざわつく人混みの中でローランの姿を探していると、フロアの隅で男女二人の商人と深刻な顔で話し込んでいる彼を見つけた。
その眉間に刻まれた深い皺を見るだけで、彼らが今、とんでもなく厄介な難題に直面していることが一目で伝わってきた。
「こちらの領地じゃ、もう砂糖(砂糖)の在庫が完全に底を突きかけてるんだ……」
「うちの商会も同じよ。どうしても揃わない分は、蜂蜜で代用して急場を凌ぐしかないわ……」
「はぁ、困りましたね……。このきこりの町は何でも揃う流通の要所ですが、いかんせん農業が全く盛んではない。町で消費するビート(甜菜)はすべて隣の領地からの輸入に頼っている状態です。もし軍がそれを力任せに買い占めてしまえば、町中のレストランや酒場、路台の露店まで一斉に干上がって商売あがったりですよ……」
俺が歩み寄ると、ローランは両手を上げてお手上げだと言わんばかりに深くため息をついていた。
俺は少し声を張って呼びかける。
「ローランさん!」
金髪の紳士はハッと目を見張ると、声のした方へと勢いよく振り返った。
「おや、ゲンタク先生! 今日は随分と早いお着きですね!」
ローランはいつもの礼儀正しい所作で、俺とがっしり握手を交わした。
「夜には巨木の森のハウスへ引き返さなきゃいけないので、少し前倒しで来させてもらいました」
俺は周囲の喧騒を見回しながら、苦笑交じりに尋ねる。
「それにしても……一体何が起きたんです? 妙にバタバタしているようですが」
「あぁ、その件ですか……。少々込み入った話になりますので、まずは応接室へ移動しましょう。こちらへどうぞ」
ローランは手際よく周囲の二人の商人にも声をかけ、俺たちを静かな応接室へと案内した。
全員がソファに腰を下ろすと、ローランはすぐに重い口を開いた。
「――ヨルゴス公爵が、北方の前線で【人馬族】との本格的な大規模戦争に突入しました。この件は、ゲンタク先生も風の噂で耳に挟んでいますよね?」
「ええ」
俺は小さく頷いた。昨日、ライン・オブ・ライトのオヤジたちから聞いた話だ。
「我が公爵軍は、どうにか敵の苛烈な攻勢を正面から食い止めてはいます。ですが……前線の兵士たちの精神的疲弊が限界に近く、戦場に赴くことを拒む者が日増しに増えているのが現状なのです」
「それは……前線の食糧が不足しているからですか?」
俺は素朴な疑問をぶつけてみる。
「いえ、決してそういうわけではありません。ありがたいことに、今年と去年の小麦はどちらも大豊作でしたからね。食事の内容こそ簡素ではありますが、兵士たちが飢えに苦しむような事態にはなっていません」
「唯一にして最大の深刻な問題は――『甘味(甜点)』なのです。公爵閣下はある時、戦場で砂糖を使った甘い菓子を口にした兵士たちが、一時的に驚くほど精神状態を回復させ、高い戦意を維持できるという事実に気づかれました。そのため、軍は我々商会に対して大量の砂糖を前線へ補給するよう厳命してきたのです。しかし、先ほど申し上げた通り、この地域におけるビートの生産量はたかが知れている。どれほど大金を積まれようとも、存在しないものは買いようがないのです……」
ローランの説明を聞きながら、俺はふと、前世で見たある歴史系のミリタリー動画の内容を思い出していた。
確か、第二次世界大戦中のアメリカ軍は、飛行機の機翼の下に特殊な鉄のボックスを取り付け、その中に牛乳とココアパウダーの混合液を仕込んで飛行したという。
飛行機が高度を上げて上空を飛ぶと、上層の冷気によって中の液体が急速に冷却され、プロペラの振動(攪拌機)によって氷の結晶が細かく砕かれる。そうして基地に帰還する頃には、極上のフワフワな「アイスクリーム」が出来上がっているという仕組みだ。
この命がけで作られた甘いデザートが、極限状態の前線兵士たちにとってどれほど大きな精神的救い(コンフォートフード)になったか。ヨルゴス公爵の狙いも、まさにそれと全く同じロジックなのだろう。
思考を巡らせながら、俺はさらに質問を重ねた。
「他の地域から大規模に輸入することはできないんですか? 確か、ヨルゴス公爵領は『ロプロス王国』の封土(領地)の一つですよね。国王だって、さすがに身内の危機を見殺しにはしないんじゃ?」
「あ、あの、ゲンタク先生……それは少々、事情が違いましてね。実を言うと、現国王陛下と我がヨルゴス公爵家の仲は、昔から冷え切っている(非常に悪い)のです。でなければ、そもそも公爵家がこのような王国の北西の最果て、魔獣が跋扈する偏境の落後地域(過疎地)へと分封されるはずがありませんからね」
「それに……ロプロス王国の周辺諸国は、そのほとんどが苛烈な【戦神教】を国教として信仰しています。武闘派である『ケリオン』の信徒たちを隣人に抱えている以上、元からこの大陸において『恒久的な平和』などというものは、絵に描いた餅に過ぎないのですよ……」
そこまで言うと、ローランと周囲の商人たちは、一様にバツが悪そうな苦い表情を浮かべた。
俺は急に背筋に冷たいものが走るのを覚え、探るように尋ねてみる。
「……まさかとは思いますけど。今、戦争が起きているのはこのヨルゴス公爵領だけじゃなくて……王国の他の地域や、なんなら隣国同士も四方八方でジャカジャカやり合ってる、なんて言いませんよね?」
「ははは……」
ローランはバツが悪そうに後頭部を掻いたが、それを否定することはしなかった。
「まあ、大陸全土を巻き込むような全面戦争とまではいきませんがね。ただ、小規模な国境紛争や領土の奪い合いは、歴史上ただの一度も途絶えたことがありません。基本、戦神教を信奉する国家というのはそういう気質なのです。彼らは言葉での交渉よりも、まず先に『拳(得物)』を交わす方を好みますから」
「……」
俺は完全に言葉を失った。と同時に、自分が最初に女神様によってこの異世界へ転生させられた際、どこぞの戦場のど真ん中に放り込まれなかった幸運を、心の底から感謝した。
しかし――。
沈黙する俺の脳裏に、全く別の、ギラギラとした野生的な思考が閃いた。
(待てよ……。これは、見方を変えれば、とんでもない『大チャンス』なんじゃないか!?)
歴史が証明している通り、戦争というものは単に人口を減らすだけの災厄ではない。それは莫大な物資の需要を生み出し、強制的に物流のパイプを通し、同時にあらゆる技術の革新を爆発的に加速させる強烈な経済の起爆剤だ。
いつの時代、どこの世界であろうとも、戦争の裏で「死の商人」や「軍需物資の調達」によって巨万の富を築き上げ、一躍トップスターへと成り上がる奴らは必ず存在する。
そして、今の俺の手元には――彼らが喉から手が出るほど欲しがっている『ある物』が、文字通り無限に眠っている。
(一気に資産を爆発させて、世界の富豪へとのし上がる……。そのための大逆転の転折点は、まさに今、この瞬間だ!)
「要するに、お前さんたちは糖分が足りなくて困ってるんだろ? ――なら、俺が持ってるぜ!」
「な、何だって!?」
ローランと、隣にいた二人の責任者が同時に目を見張って硬直した。
「これは綺麗に精製された上質な砂糖だ。一ヶ月につき、最大で600キログラムまでならお前さんたちに供給できる。だがその代わり、買い取り価格は市場の一般的な小売価格より、銅貨五枚分ほど高く上乗せしてもらう。どうだ?」
俺はコートのポケットから、あらかじめ用意しておいた一キログラム入りの砂糖の袋をスッと取り出し、彼らの目の前で高く掲げて見せた。
ローランの瞳が、その瞬間猛烈な輝きを放った。
「問題ありません、全く持って問題ありませんとも! ゲンタク先生、貴方は本当に私の……いや、我が商会の福の神だ!」
ローランは俺の両手をがっしりと握り締め、感激のあまり激しく上下に揺さぶった。
「ただし、一つだけ条件がある!」
「条件? ええ、何なりとおっしゃってください!」
「俺は今、巨木の森の官道沿いに宿を構えている。今後の取引場所は、砂糖もケチャップもすべて、そこへ直接来てもらう形に変更したいんだ」
「なるほど、取引場所の変更ですか……。ちょうど良いところに、別の領地を統括する責任者たちもここに同席しています。グレースさん、コルバートさん、お二人はどう思われますか?」
「素晴らしい提案じゃない。ちょうど商会本部としても、この地域の物流効率をさらに強化したいと考えていたところよ。少しばかりルートを変更するくらい、大した問題ではないわ」
鮮やかな緑色の気品ある洋装に身を包んだ美婦人――グレースが、艶やかな笑みを浮かべて賛同した。
その隣に座る、仕立ての良いスーツを着こなした中年の紳士――コルバートも、深く頷いて同意を示す。
「私も異論はない。うちの領地の貴族どもが、どこからか『ケチャップ卵チャーハン』の噂を聞きつけてね。自分たちのところにはいつ導入されるんだと、毎日ひっきりなしに催促されて、いい加減ノイローゼになりそうだったんだ!」
「おっと、まだ正式にご紹介していませんでしたね。ゲンタク先生、こちらがグレースさん。『エロディ伯爵領』における我が商会の最高責任者です。そしてこちらがコルバートさん、同じく『カランドゥ男爵領』のエリアを統括している責任者です」
「はじめまして。ゲンタクです」
俺は小さく微笑み、二人に礼儀正しく一礼した。
「ゲンタク先生、お名前はかねがね伺っておりましたわ」
グレースとコルバートも、椅子の背から少し身を乗り出すようにして、敬意を込めて綺麗なお辞儀を返してくれた。
こうして、俺は三人のエリア責任者たちとケチャップに関する新たな契約を締結した。取引場所を巨木の森にある俺のログハウスへと変更し、納品頻度も「一週間に一回」へとペースアップ。ただし、月末に一括で代金を精算するという条件だけは据え置きとした。
さらに、新規の砂糖の注文書も同時に交わされた。相手方の買い取り価格は【銀貨1枚と銅貨5枚】。俺は一週間につき、最低でも140キログラムの砂糖を彼らに供給する。こちらも同様に月末精算だ。
すべての調印を終え、羊皮紙を転がしながら、俺はローランに声をかけた。
「それにしても、ケチャップ卵チャーハンは本当に売れ行きが良いみたいですね。わざわざ販売エリアを他の領地にまで一気に拡大しようとするくらいだし」
ローランはサインの終わった羊皮紙を丁寧に引き出しへと収めながら、苦笑交じりに言った。
「売れ行きが良い、というレベルではありませんよ。儲けがあまりにも巨額になり始めたため、商会本部がこの好機を捉えて一気に流通を拡大し、公爵領内、さらには周辺領地の上流階級市場を根こそぎ独占してしまおうという戦略なのです。……それと、もう一つ別の理由もありましてね」
そこまで言うと、彼は他の二人の責任者に視線を送り、彼らが重々しく頷いたのを確認してから、声を潜めて言葉を続けた。
「――最近、この周辺で非常に『奇妙な事件』が頻発しているのです」
「奇妙な事件、ですか?」
「ここ一ヶ月ほどの間、あの『巨竜山脈』の内部で何かしら重大な異変が起きたらしく……その周囲のエリア、果ては巨木の森を挟んだこの『きこりの町』のすぐ近くにまで、度々【黒炎龍】の姿が目撃されているのです」
「それだけではありませんわ」
グレースが深刻な顔で会話に割って入る。
「つい先日も、このきこりの町でナンバーツーの規模を誇っていた巨大組織――『スカル・ギャング』が、正体不明の、たった一人の黒髪の女性によって一夜にして壊滅させられました。現場にいた多くの生存者たちが、その女の頭部には禍々しい『龍の角』があり、背中には『龍の翼』が生えていたと証言しているのです」
「黒髪……龍の角と、翼……?」
その特徴を聞いた瞬間、俺の脳裏に、我が家で留守番をしているはずのミッドナイトの姿が強烈に浮かび上がった。
どう考えても、完全に彼女の仕業そのものじゃないか……。
グレースは俺の動揺に気づくことなく、話を続ける。
「商会本部の推測では、もしかすると『黒龍王』が本格的に人間の都市への侵攻(大侵略)を目論んでおり、正規軍との衝突に備えて、まずは腕慣らし代わりに小規模なギャング組織を狙って手下を動かしているのではないか、と噂されています」
「そのため、本部はあらかじめ各領地の拠点を増やし、物流のバイプを複数に分散させておく決断を下したのです。そうしておけば、ケチャップは勿論のこと、鋼鉄や木材といった重要な『戦略物資』を、有事の際にも滞りなく迅速に送り出すことができますから。万が一、本当に龍族がきこりの町を襲撃して物流が物理的に寸断されたとしても、新設した巨木の森の拠点が、すぐさまその物流の穴を埋めるセーフティネットになってくれるという算段なのです」
「なるほど……そういう意図があったわけですか……」
俺は表面上は納得したように頷きつつも、脳内ではこの一連の動きとミッドナイトとの因果関係について必死に思考を巡らせていた。なぜだか分からないが、心臓の奥から、冷や汗が滲み出るような得体の知れない強烈な胸騒ぎ(不安)が湧き上がってくるのを抑えきれなかった。
――その頃。
遥か遠く、巨木の森の静寂に包まれたログハウス。
その玄関の前に立つ「ある男」の圧倒的な威圧感を見つめながら、黒炎龍の王女は全身を小刻みに震わせ、絶望に満ちた声を漏らしていた。
「ち、父……父親……大人(お父様)……っ!!」
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