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第17話:俺たちの家

翌日、俺は珍しく盛大に寝坊してしまい、目が覚めた時にはすでに午前十一時を回っていた。

隣で眠るミッドナイトの身体に優しく毛布を掛け直し、彼女を起こさないよう音を立てずに部屋を抜け出す。


いつものルーティンとして、まずは水甕みずがめに残っていた古い水をすべて捨て、清涼な清水をたっぷりと注ぎ足した。

本当ならそのまま魔獣の狩り(ハンティング)にでも出かけたいところだったが、時計の針はまもなく正午を指そうとしている。無理に遠出するのは諦め、先に昼飯の支度を済ませることにした。


年季の入った渋いオーク材のドアを押し開けてリビングへ戻ると、ソファに腰掛けたミッドナイトが、グラフェンの小さな柔らかいお腹を熱心にワシワシと揉んでいる姿が目に飛び込んできた。

さすがは血を分けた実の姉弟だ。グラフェンはくすぐったそうに「きゅぅ、あはは!」と無邪気な声を上げて喜び、それを見つめるミッドナイトの横顔には、聖母のような慈愛の光が満ち溢れている。なんとも心が洗われる温和な光景ホーム・スイート・ホームだった。


ふと、ミッドナイトが俺の視線に気づいて振り返り、その白い頬を瞬間的にぽっと赤く染めた。

彼女は名残惜しそうに弟をソファへ寝かせると、しなやかな足取りで俺の元へと歩み寄り、俺が抱えていた山菜や川魚をそっと受け取ってくれた。そして、鈴を転がすような、どこか照れくさそうな細い声でこう言ったのだ。


「……旦那様。お帰りなさいませ」


「……あ、あぁ。ただいま!」


ミッドナイトの口から飛び出した想定外のキラーワード(称呼)に、俺の脳処理は一瞬フリーズした。慌てて返事を返したものの、内心の動揺は隠せない。

無理もない。地球で暮らしていた頃は一度も彼女ガールフレンドなんてできたことがない哀しい男だった俺にとって、この絵に描いたような家庭の幸福シチュエーションは、あまりにも破壊力が大きすぎた。


(俺、本当にこの世界に来て良かったんだな……)


そう思った瞬間、熱いものが胸の奥から突き上げ、視界がじんわりと滲んで涙が頬を伝い落ちた。

それを見たミッドナイトはひどく狼狽した様子で、俺の腰へ両腕を回してきつく抱きつき、その瞳に深い憂色を浮かべた。


「旦那様、どうされたのですか!? どこかお身体が痛むのですか? 私、傷によく効く秘薬を持っていますから、今すぐ塗って差し上げます!」


「いや、違うんだ……。ただ、急に自分が信じられないくらい幸せ者なんだって思ったら、涙が出てきちゃってさ。……俺、本当はすごく怖かったんだよ。ドアを開けた時、ここがまた元の空っぽの家に戻っていて、二人がどこかへ消えちまってるんじゃないかって。もう二度と会えなくなるんじゃないかって、心のどこかで不安だったんだ……」


「ふふ、旦那様ったら、本当に心配性(お馬鹿さん)ですね」


ミッドナイトは俺の胸に頭を預け、愛おしそうに腰を抱きしめる腕の力をさらに強めた。


「多情で気まぐれな雄の龍族とは違って、私たち雌の龍族はね、生涯でただ一人の伴侶パートナーしか愛さないと決めているのですよ。貴方が私をここから追い出さない限り、私は死ぬまで貴方の側を離れません」


「追い出すわけないだろ! ずっと、一生一緒にいよう。約束だ」


「はい……っ」


二人の間で甘い空気が流れていると、すっかり蚊帳の外に置かれていたグラフェンが、短い足でソファから這い上がってきて、俺たちの顔の間に強引に割り込み、その鱗の生えた小さな頬をスリスリと擦り付けてきた。


「きゅぅう、あうあう!」


何を言っているのかは分からなかったが、その健気な姿に俺とミッドナイトは思わず同時に吹き出してしまった。

「よし、それじゃあまずは、最高に美味い昼飯にしよう!」


こうして、ミッドナイトは正式にこのログハウスの住人となった。

ここはいわゆるただの「前線拠点セーフハウス」から、俺たち家族の温かい「我が家」へと変わったのだ。


---


それから数週間という時間は、瞬く間に過ぎ去っていった。ミッドナイトとグラフェンは、すっかりこのログハウスでの日常に順応していた。


毎朝、俺が少し早めに起床して甕の水を新鮮なものに交換し、家族の朝食を調理する。

それが終わると、リビングや裏庭を使ってミッドナイトによる俺の近接戦闘訓練ハード・しごきが始まる。


さすがは本物の龍族だ。その桁外れの強靭な肉体と、長年の実戦で培われた戦闘経験スキルは伊達ではない。もし俺が以前の戦いで【冷蔵庫システム】という名のチートを使っていなければ、天地がひっくり返っても彼女を制圧することなど不可能だっただろう。

いくら俺の肉体が、あの【武神のちまき】の効能によって超強化されているとはいえ、実戦の「経験値」という決定的なブランクはそう簡単に埋まるものではなし、システムによるアイテムやスキルを一切封印した純粋な体術の殴り合いでは、俺は毎日完膚なきまでにボコボコにされていた。


それでも、そのスパルタ訓練のおかげで俺の戦闘技術は飛躍的に向上していった。

ミッドナイトもそんな俺の成長速度を見て、「貴方には素晴らしい戦いの天賦センスがあるわ。このままあと二百年か三百年ほど修練を積めば、きっと私を追い抜けるようになるわね!」と大真面目に褒めてくれた。

それを聞いた俺は、ただ苦笑するしかなかった。

……二百年どころか、人間である俺はあと百年生きられるかどうかも怪しいのだから。


昼食を済ませた午後の時間帯は、俺にとっての「ボーナスタイム」だ。ミッドナイトは本来の巨大な黒炎龍の姿へと戻り、俺をその広大な背中に乗せて、森のあちこちに点在する狂暴な魔獣の巣窟へと連れて行ってくれる。

上空から彼女が本物の「龍威ドラゴン・オーラ」を周囲に爆発させるだけで、どんなに凶悪な魔獣たちも恐怖のあまり完全に身体を硬直させ、指一本(爪一本)動かせなくなる。


私は何の苦労もなく、それらを一網打尽にした。

烈焔鵲ブレイズ・マグパイ】、【葉隠魔狼はがくれまろう】、【吸血ホワイトバット】……。それまで手も足も出なかった強力な群居性の高等魔獣たちを、信じられないほどのハイペースで解鎖アンロックしていく。


現在のシステムパネルに表示されている保有ポイントは、なんと【106,150ポイント】。画面の中央には、待望の『二星冷蔵庫へのアップグレード』を促す輝かしいボタンが出現していた。

俺はその莫大な数字を眺めながら、心の中で静かに、しかし深く感動していた。


(……これが、世に言う『ヒモ(吃軟飯)』ってやつか。最高に気持ちいいな!)


そして夜になると、ミッドナイトは俺と一緒に並んで台所に立ち、夕食の準備を手伝ってくれるようになった。

ただ、完璧に見える彼女にも一つだけ弱点があった。絶望的なまでに料理の才能スキルがなかったのだ。

白砂糖と食塩を頻繁に間違えるのは序の口で、川魚の鱗を一切取らずにそのまま鍋に放り込もうとするなど、そのポンコツぶりは凄まじかった。

そんな彼女の失敗を見るたびに、俺とグラフェンは一緒になってケラケラと笑い転げた。

当のミッドナイトは、怒るでもなく澄ました顔のまま、俺の足の甲をヒールで思いきり踏みつけ、笑っていたグラフェンの小さな口へ、大盛りのワサビ(芥末)をスプーンごと乱暴に突っ込んで黙らせるのがお約束だった。


「ギャははは! ゲンタクの坊主、本当に羨ましい限りの果報者ハッピーマンだな! わずか数週間見ない間に、こんな最高に美しい看板娘をどこから射止めてきたんだ?」


今宵の宿泊客としてログハウスにチェックインした、立派な揉み上げと髭を蓄えた聖騎士のケインが、エールを煽りながら愉快そうに声を上げた。

その隣に座る、ツルツルの頭を光らせたシーフのモンティも、これ以上ないほどの羨望の眼差しをこちらに向けている。


「本当ですよ! 若くしてこれだけの商売を成功させ、家にはこんなに綺麗な奥さんがいて、おまけにこんなに愛くるしい子犬まで飼っている。男の理想を全部詰め込んだような生活じゃないですか!」


当然、彼らの目にはミッドナイトの美しい龍角や尻尾は見えていない。彼女が事前に精緻な「幻術」を施しているためだ。幼龍であるはずのグラフェンも、彼らの認識バイアスの中では、ただの『少し珍しい種類の、可愛い黒い子犬』として映っている。


「……ミッドナイト、か。それにしても、その名前……。どことなく、巨竜山脈に君臨するという伝説の『黒龍王の王女』の御名に酷似している気がするのだがね……?」


唯一、ヤギ髭を不穏に揺らした魔法使いのドワイトだけが、眼鏡の奥の目を細めて怪訝そうに顎をさすっていた。


ピクリ、と俺が持っていたグラスの手がわずかに止まる。だが、俺はすぐに何事もなかったかのように平静を装って微笑んだ。


なぜなら、テーブルの下の死角――宿泊客たちからは絶対に見えない位置で、ミッドナイトが俺の太ももを「大丈夫よ」と優しくトントンと二回、叩いて合図を送ってくれたからだ。

彼女本人は至って涼しい顔のまま、淑女のような優雅な所作で、自分の皿に盛られた料理を平然と口へと運んでいた。


「ハハ、そりゃあきっとただの偶然ですよ! ドラゴンってのは神様にも匹敵する強力な生き物ですからね。縁起を担いで、自分の子供に龍族にあやかった名前をつける親はたくさんいます。ミッドナイトさんも、きっとそういうくちなんでしょう」


モンティはひらひらと手を振り、特に深く追及する様子もなく笑い飛ばした。

その言葉を受け、今度は俺がテーブルの下でミッドナイトの太ももをトントンと二回、優しく叩いて合図を返す。


「ええ、その通りですわ。私の故郷ではよくある名前なんです」

ミッドナイトも話を合わせ、何食わぬ顔で美しい微笑みを浮かべた。


「ほら見ろ、俺の言った通りだろ! それよりゲンタクの坊主、俺たちが今日山の中で何を見つけたか知ったら驚くぞ? とんでもなくデカい穿山甲センザンコウの魔獣でよぉ……」


話題はすぐに別の方向へと流れ、それ以上、龍の件について掘り下げる者はいなかった。


---


ケイン、モンティ、ドワイトの三人は、いずれもそこそこ年配の渋い大叔オヤジたちで、パーティ名を『ライン・オブ・ライト(萊茵之光)』という。

一応は冒険者の括りに入るが、彼らは凶暴な魔獣を狩るのではなく、地質調査や鉱脈探査を生業とする専門家プロフェッショナルだ。

未開発の鉱脈や、地中深くに眠る稀少な宝石を求めて深山へと分け入るのが彼らのスタイルである。

以前、俺が「どうしてその職業を選んだんだ? やっぱり儲かるからか?」と尋ねたところ、彼らは一様に笑ってこう答えた。


――「土の底に眠る黄金を追い求める。これこそが男のロマンってやつさ」


「それにしても、最近の森は本当に冷え込んでますよね(閑古鳥が鳴いてる)。俺はもっと、巨木の森って冒険者でごった返してる場所だと思ってたんですけど、ここ数日で遭遇したパーティなんて十指にも満たないですよ」


酒が進み、ふと俺がそんな素朴な疑問を口にすると、モンティがすぐに苦笑いを浮かべて応じた。

「そりゃあ仕方ねえよ、坊主。みんな『当兵(徴兵)』に行っちまったからな」


「徴兵……ですか?」


俺が首を傾げると、今度はケインがジョッキを置き、解説を引き継いでくれた。

「あぁ。ここは『ロプロス王国』の版図だが、俺たちが今足を踏み入れているこの広大な土地は、ラモンド・ヨルゴス公爵が統治する領地、通称『ヨルゴス公爵領』だ」


「公爵は王家から極めて高い自治権を認められている。だがその代わり、一寸たりとも領土を他国や他勢力に奪われることは許されない。もし戦争に負けて領地を失えば、国王に封土を没収される正当な口実を与えてしまうからな。そこで公爵は、絶対に戦争に負けないため、破格の報奨金を提示して領内のすべての冒険者を軍隊に囲い込んだんだ。だから、今の森はこんなにガラ空きなのさ」


説明を終えると、ケインは残ったビールを美味そうに喉へと流し込んだ。


「でも、軍人の給料(基本給)ってそこまで高くないんじゃ……? 冒険者なら、個人やパーティで大物を狩れば、その分の報奨金を丸々独占できるわけですし、天秤にかけるまでもない気がするんですが」

地球の感覚からくる疑問をぶつけてみる。


ケインは静かに首を振った。

「軍の給料自体は確かに並だ。だがな、戦功を挙げれば『土地』と『家』が恩賞として手に入る。おまけに軍隊にいれば食費も宿代もタダだし、戦場で傷を負っても、お抱えの高位神官が無料で治療してくれるんだぞ?」


「毎日命がけで山や海を駆け回り、雨風に晒されながらその日暮らしをし、たまに得た実入りを仲間と頭割りしている大半の低階級(底辺)冒険者にとって、その『安定と終身雇用(食宿免費)』ってのは、脳ミソが蕩けるほどの強烈な誘惑なんだよ」


ここで、これまで静かにパイプをくゆらせていた魔法使いのドワイトが補足を入れる。

「それに、ゲンタク殿が言ったのはあくまで最も理想的なケースだ。現実の森林はあまりにも残酷だよ。高位の冒険者がたかがスライムに足をすくわれることもあれば、新米の冒険者が知らずに巨龍の巣へ迷い込むこともある。自然もりは人間の実力など斟酌してくれない。ただ、平等に苦難を与えるのみだ」


「つまり……現在のこの森に残っているのは、そんな軍の誘いにも乗る必要のない、腕に自信のある『白銀シルバー級』以上の高位冒険者だけ、ということになるね」


「なるほど……そういうことか」


これは地球での「アルバイト」や「仕事選び」と同じ理屈だ。どうせ同じように命を張る(最低賃金で働く)のなら、より福利厚生や待遇が良い大企業(軍)を選ぶ。

夢を追いかけて命を懸ける冒険者なんてのはほんの一握りのマイノリティであり、多数派はいつだって厳しい現実に妥協するものなのだ。

どうやら地球であろうと異世界であろうと、深刻な貧富の格差や格差社会という構造は変わらないらしい。


(まあ、俺にはまったく関係のない話だけどな!)


俺は隣に座るミッドナイトの細くしなやかな腰をそっと引き寄せ、グラスに残っていた最後の一滴のコーラを飲み干した。


「それじゃあ俺たちは、そろそろ部屋に戻って休ませてもらいます。明日も朝が早いので」


「ええ……っ」

ミッドナイトは俺の肩にコテンと頭を預け、愛おしそうに頬を染めながら、小さく頷いた。

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