第14話:家の雰囲気
まだ空に夜の気配が残る、夜明け前のこと。俺はふと目を覚ました。
【冷蔵庫システム】を起動し、画面の右上に表示されているデジタル時計に目をやると、時刻は「06:05」を示している。
べつに俺が早起きを信条にしているわけではない。単純にこの世界にはネットがなく、前世のように夜通しスマホをいじって時間を溶かすことができないため、必然的に早寝早起きになってしまうのだ。
ログハウスの生活用水を清潔に保つため、毎朝、大きな陶器の水瓶(水甕)に残った水をすべて捨て、近くの小川まで水を汲みに行くのが俺の日課だ。
馬車も手押し車も持っていない俺は、竹と蔓を使って不格好な天秤棒(扁擔)を自作し、そこへ空のペットボトルを大量に括り付けている。これらを川へ持っていき、満タンにして戻っては水瓶へと移し替えるのだ。
宿に客がいない平時なら、一往復もすれば一日の水は足りる。
しかし今回は『白銀の翼』の面々が滞在しており、俺を合わせると総勢六人。さすがにこの人数だと水の消費量が跳ね上がる。
三、四往復はしてすべての水瓶を満タンにしておかなければ、夜にみんなが使うお風呂の分が足りなくなってしまうのだ。
そうして四往復目、そろそろ戻ろうかとペットボトルに水を詰めていた時、不意に背後から一つの影が近づいてきた。
「お、おはようございます、ゲンタクさん」
岸辺にぽつんと立ち、少し頬を赤らめて声をかけてきたのはシルヴィアだった。
彼女の格好は、この朝の冷気に対して少しばかり薄着に見えた。身にまとっているのはシンプルな白いワンピースが一枚きり。いつもなら三つ編みにされているはずの綺麗な海天色の長い髪は、編まれることなく無造作に肩へと流されている。
そんな格好で風邪をひかないだろうかと、見ていて少し心配になるほどだった。
「おや、シルヴィア。ずいぶんと早起きだね。俺に何か用かい?」
俺は天秤棒を地面に下ろし、不思議に思って彼女を見つめた。
少女ははにかむような笑みを浮かべ、静かに口を開いた。
「朝の澄んだ空気の時間は、一番魔力が満ちているのです。だから私は、いつもこの時間に起きて瞑想をするのが日課で……。でも、私たちは今日、街へ戻る予定ですし、もう大きな戦闘もないと思ったので、少し周囲を散歩しにきました」
シルヴィアは手頃な大きさの岩を見つけて腰を下ろすと、サンダルを脱ぎ、白く小ぶりな右足をゆっくりと小川の清流へと浸した。
「つめたっ……!」
少女は小さく身震いしながらも、もう片方の足も同じように水へと滑らせる。
しばらくして冷たさに慣れたのか、その表情にふわりと柔らかな色が戻った。
「気持ちいいのは分かるけど、朝に一人で外を歩き回るのはあまり感心しないな。魔獣に遭遇する危険だってあるんだから」
これは俺の偽らざる本心だった。このログハウスを買い取った当初、周囲にはそれなりに獰猛な野生動物や魔獣の気配があったのだ。……まぁ、今ではそれら全てが俺の手によってシステムポイントへと変換されてしまったわけだが。
現在、この小屋を中心とした半径50メートル圏内は、ネズミ一匹見当たらない完全な「安全地帯」と化している。
だが、それは俺というイレギュラーがここに鎮座しているからに他ならない。
シルヴィアに「早朝の森は安全だから一人で出歩いても大丈夫」などという誤った認識を持ってほしくはなかった。
「大丈夫ですよ。私は生まれつき、周囲にある魔力の源を感覚で捉えることができるんです。それに……」
彼女はちらりとこちらを見上げ、その白い頬をいっそう赤く染めた。
「……ゲンタクさんが近くにいてくれるなら、どんな危険があっても怖くありませんから」
俺は一瞬言葉を失い、喉の奥で数秒ほど躊躇したあと、探るように低い声で問いかけた。
「……なぁ、もしかして、見られてたのか?」
俺の静かな追及に、シルヴィアは小さく、しかしはっきりと頷いてみせた。
「はい……。でも、他のみんなには絶対に言っていませんから、安心してください!」
「そうか……」
俺は苦笑交じりに天秤棒を地面に放り出し、シルヴィアの隣へと腰掛けた。
やはり、異世界の住人を地球の常識だけで測ってはいけないな。自分では完璧に身を隠し、気配を殺して山猪を狩っていたつもりだったが、彼女は「目」ではなく「魔力感知」という超感覚で、俺の一挙手一投足を見抜いていたわけだ。
「その索敵能力ってやつは、この世界じゃ誰でも使えるものなのか? それとも、魔法使いの専門スキルなのかい?」
俺の問いかけに、シルヴィアは優しく首を横に振った。
「いいえ。普通は中級以上の魔導士になって初めて習得できる高度な技術です。私はただ運が良くて、生まれつきかすかに使えたというだけで……範囲もそれほど広くはありませんし」
そこまで言うと、少女は少し気恥ずかしそうに視線を落とした。
「いや、十分すぎるほど凄い能力だよ。大したものだ」
俺が素直に称賛の言葉を送ると、シルヴィアは何かを思い出したように、ふと真剣な目をこちらに向けた。
「あの、ゲンタクさん……。もしかして、どこかの貴族のご出身なのですか?」
「ん? なんでまた唐突にそんなことを?」
俺は思わず耳を疑った。彼女の口からそんな単語が飛び出すとは予想外だったからだ。
「私たちのリーダーであるレオンも、実は没落した貴族の家系なのです。生活のために冒険者として泥に塗れて金を稼いでいますが……ゲンタクさん、あなたは……」
「俺たちの仲だ、これからは『先生』なんて付けずに、ただのゲンタクでいいよ」
俺が言葉を遮って笑いかけると、シルヴィアもつられて小さく微笑んだ。
「うん、ゲンタク! ……実はね、あなたとレオンは、雰囲気がとてもよく似ているの。二人とも性格がひどく落ち着いていて、どこか物事を俯瞰で見ているというか、視野が広いの。それに、生活の質に対しても独特のこだわりを持っているでしょう? そういう気品のようなものは、私たちのような平民の出にはどうしても真似できないの。だから、あなたも訳あって身分を隠している貴族様なのではないかって、そう思ったの」
「ハハハ! いやぁ、申し訳ないけど、その期待には応えられそうにないな。俺はあんたたちと全く同じ、生粋の平民だよ。考えてもみろよ、まともな貴族がたった一人でこんな人里離れた魔境のど真ん中にやってきて、民宿のオヤジなんて始めるわけがないだろ? それはただの綺麗な誤解さ」
俺はひらひらと手を振り、考えすぎだと笑い飛ばした。
しかし、シルヴィアはなぜか「あぁ、なるほど! そういうことですね!」と言わんばかりに、ひどく得心のいった様子で深く力強く頷いた。
「分かりました! このことも、私だけの秘密にしておきますね!」
「…………」
いや、お前、絶対何も分かってねえだろ。
俺は確かに2040年の地球という一歩進んだ文明から来たけれど、家柄としては紛れもない一般平民なんだってば。
「……まぁいいや、そろそろ戻ろうか」
「ふふ、はい! 一緒に帰りましょう!」
シルヴィアは急いでサンダルを履き直すと、水を満載した天秤棒を担ぐ俺の後ろを、小走りで嬉しそうに付いてきた。
ログハウスに戻ると、すでに全員が目を覚ましていた。彼らは入り口の前に立ち、不安そうに何度も周囲を見回している。
俺たち二人の姿を認めるやいなや、キールが脱兎の勢いで駆け寄ってきた。
「おいおい、こんな朝早くから二人してどこへ行ってたんだよ!? 凄ぇ心配したんだからな!」
茶髪の青年は口ではそう捲し立てながらも、その視線はシルヴィアの姿に釘付けになったまま微塵も動かない。
すると、どういう風の吹き回しか、シルヴィアは俺の背中へと音もなく身を隠し、ひょこっと頭の半分だけを覗かせた。
俺はニヤリと不敵な笑みを浮かべ、冗談めかして言った。
「そんなの決まってるだろ。朝の爽やかなデートに行ってきたのさ!」
「な、なんだってえええええええッッ!?」
キールはまるで直撃の雷撃でも喰らったかのように硬直。その場で見事な石像と化した。
俺の背後にいるシルヴィアの表情はここからでは見えない。だが、彼女が俺の袖をギュッと掴む手の力が、みるみる強くなっていくのだけははっきりと伝わってきた。
「ガハハ! キール、ゲンタク先生の冗談に決まってるだろ! 先生が肩に何を担いでるか見えねえのか?」
ガルヴァが俺の天秤棒を指さしながら、腹を抱えて大爆笑する。
普段は寡黙なニクスすらも、静かに口を開いた。
「……どうやら……あのバカには……ユーモアが……通じないみたい」
「おいおいお前ら、それくらいにしてやれよ。キールが本気で泣きそうだぞ!」
レオンが両手を腰に当て、呆れ果てたと言わんばかりに首を振る。
「泣いてなんかねええええッ!」
キールの必死の咆哮に、その場にいた全員からドッと笑い声が弾けた。
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「さて、それじゃあまずは朝飯にしよう!」
俺は厨房へと向かい、いかにも棚から取り出すふりをしながら、【冷蔵庫システム】から新鮮な食材を呼び出した。
まずは紫キャベツ、ロケットサラダ(芝麻葉)、きゅうり、ミニトマトをテンポよく刻み、大きめの木製のボウルへと投入する。そこへ塩を少々、オリーブオイルとリンゴ酢を回しかけた。
全体を軽く和えれば、あっという間に瑞々しく清涼感溢れる「特製グリーンサラダ」の完成だ。
続いて、少し硬くなっていた食パンをオーブンで香ばしく焼き直す。その間にフライパンで『砕岩ボア』の極厚肉排と目玉焼きを焼き上げ、トーストの間に贅沢にサンド。仕上げにケチャップをたっぷりと絞り込めば、地球直伝の「肉玉トースト(肉蛋吐司)」が堂々たる姿を現した。
「まずは小鉢のサラダで胃袋を起こして、それからこの肉玉トーストをがっつりいってくれ。温かいお茶が飲みたい人のために、紅茶も淹れてあるからね」
俺が次々と料理をテーブルへ運んでいくと、驚いたことに、他の面々がすでに手際よく皿やナイフ、フォークを完璧にセッティングし終えていた。
宿泊客なんだから手伝わなくていいと言ってあるのだが、彼らはいつも自主的に身体を動かしてくれる。
特にシルヴィアにいたっては、俺が何も言わずとも、昨日使い終わったままになっていた調理器具を自然な動作で洗い始めてくれていた。
何て言えばいいのだろうか……。
彼らがこのロッジに滞在してまだわずか四日だというのに、俺はまるで彼らと何年も共に暮らしてきたかのような、温かい「大家族」の錯각を覚えていた。
「それじゃあ……みんな、残さず食えよ。いただきます!」
「いただきます!!!」
一同は待ちきれないとばかりにトーストを口へと放り込み、まるでこの世で一番の馳走に出会ったかのように幸福そうに咀嚼し始めた。
以前、彼らのこの大袈裟なリアクションが不思議で、レオンに理由を尋ねたことがある。
その時、レオンは苦笑しながらこう教えてくれた。
「貴族ならいざ知らず、我々のような一般平民は朝食をそこまで重視しないのですよ。早起きして火を起こす手間もかかりますし、何より余計な生活費がかさみますからね。大抵は固いパンの切れ端を口に放り込んで、胃袋を誤魔化す程度が関の山です」
それを小耳に挟んだキールが、口をモグモグさせながら割り込んできた。
「そうそう! 俺の実家なんて、朝はいつもパサパサの乾いたパンが二切れだけだったぜ? こんな豪華な飯、お目にかかれるのは夕食の時くらいのもんだよ!」
巨漢のガルヴァまでもが、昔を懐かしむようにボヤく。
「全くだ! 俺がガキの頃なんて、おふくろに『これで行ってきな』って牛乳一杯だけ渡された日があってな。あの日はマジで講義中に飢え死にするかと思ったぞ」
ニクスが手元のトーストをそっと皿に置き、ぽつりと呟いた。
「……昔……うちの家……朝は……焼き卵……だけだった」
「焼き卵?」
俺が小首を傾げると、すかさずシルヴィアが補足の説明を入れてくれた。
「大きめの葉っぱで生卵を包んで、その上から粘土で二重にコーティングするんです。それをそのまま暖炉の灰の中に放り込んでおいて、火が通ったら取り出して直接食べるんですよ。お家に鍋やフライパンがない家庭では、とても手軽な調理法なんです」
そこまで言うと、シルヴィアは少しだけ視線を落とした。
「私のお家でも、たまに鶏肉なんかを同じやり方で調理していました」
「なるほど、そういうことか! ……道理で『芍薬旅館』の朝食があれほど不味かったわけだ」
俺は膝を叩き、これまでの疑問が氷解したかのように深く納得してみせた。
しかし、その言葉を聞いた瞬間、『白銀の翼』のメンバー全員が妙に奇妙な、あるいは畏敬の念の混じった視線を俺に向けてきた。シルヴィアの顔にいたっては、【やっぱり私の見立て通りだった!】という文字が特大のフォントで書いてあるかのようだった。
……どうやら彼らの中の「ゲンタク=身分を隠して異国から流れてきた高貴な貴族」という誤解は、もはや修正不能なレベルで固定化されてしまったらしい。
「あ、そうだ。レオン、今日は俺も君たちと一緒に『きこりの町(伐木鎮)』へ戻ろうと思うんだ。少し街で片付けたい用事があってね」
俺がこの巨木の森に拠点を構えてから、早いものでもう三週間が経過していた。
商会のローランとの約束通り、月末に一度ピエニン商会へ赴き、「ケチャップ卵チャーハン」の正式な売り上げの精算(結算)を行う必要がある。
それに、この三週間でグラフェンと共に魔獣を狩りまくったおかげで、システムポイントもかなり潤沢に貯まっていた。来月分のケチャップを前倒しで一括納品してしまうことも容易だ。
数日後に一人で街へ向かっても良かったのだが、誰も話し相手がいない道中というのは退屈極まりない。それなら、気心の知れた『白銀の翼』の連中に便乗して賑やかに帰る方が、はるかに有意義というものだ。
「おぉ、本当ですか! 我々としても、先生が一緒ならこれほど心強いことはありません。大歓迎ですよ!」
レオンが快活な笑みを浮かべて快諾してくれた。
その返答を耳にするやいなや、ニクスが素早い動きでシルヴィアの耳元へと顔を寄せ、密やかな声で囁いた。
「……良かったね……これで……二人でいられる時間……もっと増えるよ」
海天色の髪を持つ少女は、一瞬にしてその白い肌を林檎のように真っ赤に染め上げた。
そして、周囲の男どもの耳には絶対に届かないほどの、蚊の鳴くような小さな声で呟いた。
「……うん」




