第11話:水産養殖槽(アクア・ファーム)
「……いや、ポイントには換えない」
システム側から能動的に取引を持ちかけてきたのは、これが初めてだ。
それはつまり、この龍の卵の価値が俺の想像を遥かに超えているという証拠でもある。確かに今はポイントが喉から手が出るほど欲しいが……ここは万が一に備えて、手元に残しておくべきだ。
もしも本当に孵化させることができたら、俺は「竜騎士」になれるかもしれないんだからな!
これでこの件は一件落着だ、そう思った次の瞬間、またしてもシステムのホログラム画面が目の前にポップアップした。
【通知:二星冷蔵庫へのランクアップに伴い、『水産養殖槽』機能が開放されます。ユーザーは生きた水産物を二匹まで格納し、いつでも召喚することが可能です。もしユーザーがこの龍の卵をスロットの一つに格納することに同意する場合、本システムは当機能を前倒しで開放いたします】
「……なんで黒炎竜の卵が『水産物』に分類されてんだよ!? それともこれ、実は『水炎竜』の卵だったりするのか!?」
俺はついに耐えきれず、目の前の画面に向かって全力で突っ込みを入れた。
どうやら俺は、この卵の価値をまだ過小評価していたらしい。システムが規約を捻じ曲げてでも手に入れたがるとは、この冷蔵庫システム……いや、あの女神様は一体何を考えているんだ……。
「もし俺がその卵をそこに入れたら、後からちゃんと取り出して孵化させることはできるんだろうな?」
【解:可能です】
【質問:お前が嘘をついていないって、どうやって信用すればいい?】
【答:我が意見は、すなわち女神様の意志なり】
「女神様の名前を出して俺を脅す気か……くっそ、汚いぞ!」
俺は三秒ほど沈黙した。
「……分かったよ! 約束は守れよな」
俺がそう口にした瞬間、システム画面が切り替わり、【水産養殖槽】という文字の下に、左右に並んだ巨大な二つのスロットが表示された。
俺が黒い卵を右側のスロットに滑り込ませると、画面にはすぐさま次のようなステータスが表示された。
【一号水産:黒炎竜の卵。ロック解除まで残り 23時間59分59秒】
「…………わざわざロックをかけて、しばらく取り出せないようにしやがったな?」
俺は盛大に白目を剥いたが、すでに手遅れだった。こうなっては受け入れるほかない。
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空にはすっかり綺麗な夕焼けが広がっていた。俺は慌てて足を早め、ピエニン商会へと向かった。
もうすぐだ。前方の角を曲がれば、目的地に到着する。
だが、俺は角から一歩踏み出した瞬間に、勢いよくその身を引っ込めた。
理由は他でもない。昨日、俺に強烈なビンタをかましてくれたあの金髪暴力令嬢が、建物の入り口に立っていたからだ。
彼女はどこか寂しげな表情を浮かべ、今まさに立ち去ろうとしているようだった。そして彼女の傍らに控えている黒髪の女性は――昨日、格闘舞台の上で俺が吹き飛ばした、あのメイドだった。
(なんてこった、ピンポイントすぎるだろ!?)
ここ数日で出会ったトラブルの元凶たちが、一堂に会している。
その時、商会の重い扉が開き、中から一人の男が出てきた。商会の営業員、ローランだ。
彼は何事かそのお嬢様を慰めているようだった。するとお嬢様は突如としてローランの胸に飛び込み、顔をすりすりと擦りつけながら、ひどく悲しげに涙を堪えている様子を見せた。
ローランは両手を浮かせ、あからさまに困惑した表情を浮かべている。
「へぇ……『女から追えば薄紙一枚』とはよく言ったもんだが、本当にその通りだな」
完璧な金髪紳士が困り果てている姿を見て、俺の中の野次馬根性がふつふつと燃え上がった。
しばらくして、ローランは優しくお嬢様の体を押し戻した。彼はメイドの方を向き、いくつか言葉を交わしたあと、綺麗な一礼をして建物の中へと戻っていった。
さて、俺もそろそろ中に入ろうかと思ったその時、何気なく視線を戻した俺は心臓が飛び跳ねるほど驚いた。
十数メートルほど離れた場所から、あの黒髪のメイドが、じっとこちら(・・)を見つめていたのだ。
二人の視線が完全に交差した瞬間、彼女の口元が妖艶に吊り上がった。
俺は慌てて角の陰に頭を引っ込め、壁に背中をぴったりと張り付かせた。背中を冷たい汗がだくだくと伝っていく。
「まさか、警察に通報して俺を逮捕させようとか、治療費を請求しようとか考えてるんじゃないだろうな!?」
それから五分ほど息を潜めて待ち、ようやく勇気を振り絞って角から頭を覗かせてみる……。
よし、彼女たちの姿はもうなかった。
俺は一気にピエニン商会の建物へと滑り込み、約束していた応接室の前にたどり着いた。
俺がドアノブに手をかけるより早く、内側から扉が開いた。中から出てきたのは、一人の紫髪の女性だった。
年齢は25歳前後だろうか。雪のように白い肌に、燃えるような赤い唇。身にまとっているのは、シックな黒のワンピースだ。
出るところが出たその抜群のプロポーションが生地をこれでもかと押し上げており、極めて露出の少ない保守的なデザインであるにもかかわらず、妙に背徳的な色気を醸し出している。
彼女は俺の顔を見ると一瞬だけ目を見開いたが、すぐに完璧なビジネススマイルを取り戻し、俺に軽く微笑みかけると、すれ違いざまに去っていった。
アメジストのように妖しく輝く大粒の瞳には、まるで人を惹きつける魔力が宿っているかのようで、俺の心は一瞬で奪われてしまった。
完全に、見惚れてしまっていた。
俺は締まりのない顔をしたバカのようにその場に立ち尽くし、彼女が商会の玄関を出て、夜の帳の中に消えていくのをただ見送っていた。
「ゲンタク先生?」
背後から、聞き覚えのある声がした。
「うおっ!?」
踏まれた猫のように、俺はその場で飛び上がりそうになった。振り返ると、そこにはローランが立っていた。
「すみません! 本当はもっと早く着く予定だったんですが、さっき入り口であの金髪の……ハハハ!」
俺は慌てて言い訳を並べ立てた。
ローランはすぐに俺の言わんとするお茶を濁した意味を察し、苦笑いを浮かべた。
「お姿を見せなくて正解でしたよ。アリアお嬢様は本日、少々ご機嫌が斜めでしたから。もし先生がここにいるのをご覧になったら、またひと悶着起きていたでしょう」
「ははは……そうだよな」
俺はローランに促されて部屋に入り、ふかふかのソファに腰を下ろした。
「あのお嬢様、なんだか情緒が不安定みたいだけど……やっぱり、相当なトラブルメーカーなのか?」
「おや、ご存知なかったのですか? アリアお嬢様はこの土地の領主である『ヨルゴス公爵』の令嬢であらせられます。最近、首府の『テオ』の辺りで戦争が起きておりましてね。おそらくはその戦火を避けるために、この辺境の街へと送られてきたのでしょう」
ローランは手際よくお茶を淹れながら、淡々と説明してくれた。
「公爵令嬢……なるほど、道理であれだけプライドが高いわけだ」
「我が商会お抱えの料理人もまもなく到着いたします。それまで、どうぞこちらでお寛ぎください」
「あぁ、分かった」
俺は差し出された紅茶を一口啜った。
うん、今度はちゃんと砂糖が入っている!
星五つ(満点)だ!
その時、俺はテーブルの上に置かれたあるモノに目を留め、思わず動きを止めた。
「これは……カササギか?」
原木で作られた味のあるテーブルの上に、一つの鳥籠が置かれていた。そしてその中には、一羽の鳥が横たわっている。
黒い頭、白い腹部、そして異様に長い尾羽。それらの特徴からして、地球でいうところのカササギのようだった。
しかし……デカい! デカすぎる!
その体格は、ゆうに成鳥のワタリガラスに匹敵するほどだった。
「それはアリアお嬢様のペットですよ。もう虫の息でしてね、ちょうど今から、誰かに頼んで外に生き埋めにしてこさせようと考えていたところです」
「はぁ!? 生き埋め!? そりゃいくら何でも残忍すぎないか?」
俺が非難めいた視線を向けると、ローランは困ったように苦笑し、肩をすくめた。
「こいつは身籠っているのですよ。しかも、お相手は『烈焔鵲』の子です。一刻も早く処理しなければ、この鳥はいつでも自燃して周囲を焼き尽くす危険があります」
「烈焔鵲?」
俺が首を傾げると、ローランは丁寧に説明を付け足した。
「普通のカササギが変異して進化した魔獣です。深紅の羽毛と白い腹部が特徴で、怒ると全身の羽から凄まじい炎を噴き上げ、火球を吐き出すこともあります」
「稀に、オスの烈焔鵲が普通のメスのカササギと交配し、孕ませてしまうことがあるのです。ですが、母親はただの野生の鳥であって魔獣ではありません。彼女の体内には、その卵を成長させるための魔力が足りないのです。それどころか、卵自体が発する熱量に内臓を焼かれ、最終的には難産で死に至ります」
「そ、そんなに深刻なのか……」
俺は籠の中の鳥の尾羽に目をやった。なるほど、その先端からは今もパチパチと暗紅色の火花がかすかに散っており、焦げ臭いにおいが頼りなく空気中に漂い始めている。
まるで「次の瞬間には火だるまになるぞ」と周囲に警告しているかのようだ。
俺は思わず唾を飲み込み、体を少し後ろへと引いた。
「難産で死ぬだけならまだしも、母親の死後、腹の中の卵が暴走して激しい自燃を引き起こします。その結果、飼い主の屋敷が丸ごと灰燼に帰したケースが過去に何度も起きているのですよ」
ローランは頭の後ろをかきむしった。彼にとっても相当に頭の痛い問題だったらしい。
「アリアお嬢様もどうしていいか分からず、私のところへ相談しに来られたのですが……そんなこと私に言われても専門外ですからね! だから先ほどまで、魔法道具店の店主である『セレスティーナ』様をお呼びして、専門家の意見を仰いでいたのです」
「なるほどな……」
あの絶世の紫髪の美女、名前をセレスティーナというのか。
魔法道具店の店主……。
どうやら俺は、あの上品な店で彼女と完全にすれ違ってしまっていたらしい。
「で、結果はどうだったんだ?」
「彼女もお手上げでしたよ。人目のない郊外へ持っていき、深く埋めてしまうのが一番安全だと提案されました」
ローランは無念そうに首を振った。
「だったら、俺に少し試させてくれないか?」
「先生に、何か方法が!?」
「いや、俺もちょっと、あるモノの効能をテストしてみたいだけだ……」
俺はローランの視線を遮るようにシステム画面を開き、200ポイントを消費して「爆炎栗」を一袋購入した。そして、それをいかにもジャケットの内ポケットから取り出したかのように装う。
「これは……?」
ローランが怪訝そうに目を細める。
「これは爆炎栗。朱雀の炎でじっくり焼き上げた特別な銘菓だ。微弱だが火属性の魔力が宿っている。もしかしたら、こいつの役に立つかもしれない」
「クリ?朱雀……?」
ローランが首を傾げるのを無視して、俺は自ら袋の封を切った。その瞬間、香ばしく濃厚な甘い香りが部屋いっぱいに弾け飛んだ。
ローランだけでなく、さっきまで死にかけていたカササギまでもがパッと両目を見開き、俺の手元の動きをじっと凝視し始めた。
俺はローランに頼んで、並々と水の張った洗面器を用意してもらい、その中へ栗を投入した。
十粒の栗が水面に触れた刹那、シュワシュワと激しい泡が立ち上り、瞬く間に水が沸騰し始めた。その間、わずか五秒足らず。
「なっ、水が沸騰しただと!?」
ローランが驚愕の声を上げる。
俺はすかさずスプーンで栗をすくい上げると、熱い殻を指先で器用に割り、中から現れた黄金色のホクホクとした果肉をカササギの嘴の前に差し出した。
カササギは微塵も躊躇うことなく、狂ったようにその栗に飛びつき、一瞬で丸呑みにした。
次の瞬間、鳥の体表からボウッと淡い赤光が放たれた。
「ガァ! ガァ!」
カササギは大きな声を張り上げ、もっとくれと言わんばかりに俺を急かした。俺は手を休めず、一粒、また一粒と口へ放り込んでいく。
あっという間に、十粒の爆炎栗は彼女の胃袋へと収まった。
全ての栗を食べ終えると、カササギは静かに両目を閉じた。まるで事切れたかのようにピクリとも動かなくなったが、その身を包む赤い光は消えるどころか、ますますその輝きを強めていく。
「信じられん……奇跡だ! ゲンタク先生、あなた一体何者なのですか!?」
「買い被るなよ。俺だって確信があったわけじゃない、ただ運が良かっただけさ」
俺は肩をすくめて本音を口にした。だが、ローランの崇拝に満ちた表情を見る限り、彼は俺の言葉を「底知れない高人の謙遜」としか受け取っていないようだ。
「よし、それじゃあ……実験その二、だ」
俺は再びシステム画面を起動し、【水産養殖槽】の項目をタップした。
そして、赤光を放ち続けるカササギを両手で優しく包み込むように持ち上げると、それをそのまま左側のスロットへと送り込んだ。
ジッ……。
一瞬のノイズと共に、俺の手の中から大柄な鳥の感触が消え去った。
【二号水産:進化中のカササギ。ロック解除まで残り 23時間59分59秒】
脳裏で弾き出された予測通りの結果に、俺は思わずその場で硬直した。
やはりな。「水産養殖槽」なんて名前は、ただの小賢しいカモフラージュに過ぎなかったわけだ。
「遺伝子バンク(ジーン・データ)……これこそが、この冷蔵庫システムの真の姿か!」
俺は右手の甲にあるタコの紋章を見つめながら、声を殺して不敵に笑った。
女神様、あんた一体どれだけのサプライズを俺の底に仕込んであるんだ?
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