3 雨城ひばり
3 雨城ひばり
私、雨城ひばりは爽やかな風の中、自転車のペダルを漕いでいた。初夏の匂いが心地よく薫ってくる。自転車の荷台には小さなトランクが縛り付けてあった。彼を亡くして以来、仕事も辞めて引きこもり状態だった私がトランクを持ち出かけることなど今までにない事だった。ふんふんと鼻歌まで出てしまう。何を歌っているつもりなのか自分でも不明だが私は、つい鼻歌が出てしまうほど上機嫌だった。
私は緑色の看板に赤い書体で喫茶フリップと書かれた店の前で自転車を止めた。そして、古びたドアを押して店内に入る。ドアに付けられたベルがカランカランと乾いた音を立てた。
「いらっしゃい、雨城さん 」
カウンターの中からマスターが穏やかな笑顔で私に声をかける。私はいつものカウンターの端の席に腰掛け、いつものようにキリマンジャロを注文した。カウンターの奥には高杉さん、テーブル席には中岡さんが座ってコーヒーを飲んでいる。残りの二つのテーブル席にもお客さんが座っていた。カップルらしき若い二人連れと、私より年上の落ち着いた雰囲気の女性だ。店内に流れるBGMは、マスターをはじめ常連客の高杉さん、中岡さんがプログレッシブロック好きの為、ほぼいつもプログレのアルバムが流されていた。
「ジェネシスですね 」
私は自信たっぷりにマスターに言う。彼が良く聴いていたアルバムの1枚だ。
「彼は次のアルバム”フォックストロット”の方が好きだったけど、私はこの”怪奇骨董音楽箱”の方が好きなんですよ 」
「ははっ、雨城さん、怪奇趣味なんですかね 」
マスターが笑いながら言う。確かに私は、血塗れのスプラッターホラーなどは苦手だが、ゴシック調のホラーは好きだったりする。あのディオダティの一夜を描いた映画”ゴシック”などは大好きな映画だ。吸血鬼ドラキュラや、フランケンシュタインの怪物、私の大好きな大好きな怪物たち。それに比べて、ただ観客を驚かせ怖がらせるだけの最近の血塗れホラーは、どうも苦手だった。私のこの趣味を彼は笑っていた。僕のミステリー好きは物騒だと言うくせに、君のホラー好きも同じだと思うけどね。彼に言われる度に、断固として違いますと言い張った事が懐かしく思い出される。私の観るホラー映画には浪漫があると私が言うと、僕の読むミステリーには人の悲哀があると彼は言った。私はミステリーは小難しくて好きではなかったが、それでも彼の影響で私もミステリーを読むようになっていた。その中でも印象に残っているのは、もう古典と云われているアガサ・クリスティ女史の名作中の名作「そして誰もいなくなった」だ。彼が、このミステリーを読まないのは人生の損失だとまで自信たっぷりに言うので、私も読んでみた。確かに面白かったが彼の言うほどのものかと思ったのが率直な意見だった。数え歌の通りに人が順番に殺されていく。私に言わせればそんな面倒な事をするならば、爆弾でも使って一片に殺してしまえば良いじゃないかとなるのだが、彼は私のその考えに苦笑いしていた。
「そんな事をしたら、自分の犯した罪を反省させる時間がないじゃないか 」
「反省も何も、どうせ殺してしまうなら関係ないでしょ 」
「まあ、結果的にはそうだけどね でも君だって最後に反省して貰いたいだろう? 」
「残念、私は関係ないわ 私だったら許せない人に反省なんてしてもらわなくてもいい その分、残酷に始末する 」
「はは、君は怖いねぇ 僕も君に恨まれないように気を付けよう 」
彼にひどい女と思われてしまったかもと言ってしまってから後悔したが、彼は特に変わった様子もなく普通に見える。が、一応自分でフォローしておく事にした。
「私が許せなくなるなるなんて相当の人ですからね そんな人がいたら私より先に世の中に罰せられていますよ 」
「そうだね、君が許せなくなるなんて、とんでもない極悪人なんだろうね 」
彼は笑って読んでいたミステリーの本を閉じた。いけない、読書の邪魔しちゃったかな。私は彼に謝ったが、彼は違う違うと手を振る。
「もう最後の謎解きの部分なんだけどね あまりにアンフェアで読む気がしなくなっただけだよ 」
「あなたがそんな風に言うの珍しいね いつもは何処かを必ず褒めるのに 」
「いや、さすがにそれまで存在して居ないと思っていた人物が最初から居ましたというのはないだろう しかも、その人を見たと証言してる人がいるのに作中の人物はみんなその証言を聞かなかったかのようにスルーするんだよ だから、そんな人は居ないと思ってしまうよね いくら、読者を驚かせようとしてもこれじゃ読む気もなくなってしまうよ 別に無理して意外な話にするより、ストーリーを面白くしてほしいよね 荒唐無稽な話だけど二階堂先生の「魔術王事件」は面白かったな 読んでてワクワクするんだよ そういうミステリーが僕は好きだな 」
私は、ふーんとしか思わなかったけど、彼は珍しく熱く語っていた記憶がある。
上機嫌な私を見て、テーブル席の中岡さんが声をかけても大丈夫かなという感じで席を立つと恐る恐る話しかけてきた。
「雨城さん、そのトランク 何処かに出かけるんですか 」
カウンターの下に置いたので中岡さん以外からはトランクが見えないので、マスターも高杉さんも驚いた顔をして私を見ていた。
「雨城さん、旅行でも行かれるんですか 」
「それはいい 楽しんで来て下さいよ おや、それにその腕時計…… 」
引きこもりの私が旅行に行く気になったのかと、みんな驚くと同時に嬉しそうな顔になる。そして、私がつけている腕時計にも気がついたようだった。
「彼の形見なんですよ 私が旅行に出掛けられるようになった事、彼にも見て貰いたくて」
私の手首にあるゴツい男物のダイバーズウォッチ。自動巻きの機械式腕時計だ。彼は、このオレンジの文字盤が気に入っていて、いつも身につけていた。きちんとメンテナンスに出す程のお気に入りだった。なので、私も彼が言っていた機械式腕時計のメンテナンスが出来る時計屋さんに電車で行って、しっかりと動くように調整してもらっていたのだ。
「本当は早く忘れないといけないのでしょうけど、まだ、そこまで踏ん切れなくて…… 」
私は、彼らに向かってニコリと微笑んだ。




