第二話 私だって、好きな人と結婚したい
「リゼット。あなたも、もう十八になるのですから――」
穏やかな母の声だった。
けれど、その続きを聞く前から、リゼットには何を言われるのか分かっていた。
「婚約者とのことを、そろそろ真剣に考えなければなりません」
やっぱり。
リゼットは小さく息を吐いた。
「……その話ですか」
向かいに座る父が、困ったように眉を下げる。
「その話だ」
昼下がりの子爵家。
窓から柔らかな日差しが差し込み、庭では使用人たちが花の手入れをしている。
穏やかで、何も問題のない日常。
だからこそ、リゼットにはその話だけが異質に思えた。
「あなたと婚約しているのは、アシュフォード伯爵家のご子息だ。家柄も申し分ない」
「そうですね」
「人柄についても、悪い噂は聞いていない」
「そうですね」
「ならば、何が不満なのだ?」
リゼットは答えられなかった。
不満。
そう言われると、自分がわがままを言っているように聞こえる。
家柄が悪いわけではない。
相手の評判が悪いわけでもない。
両親も自分を困らせようとしているわけではない。
むしろ、娘の将来を考えて、良い縁談を選んでくれたのだろう。
それでも――。
「……私は、その人のことを知りません」
「幼い頃に一度会っただろう」
「覚えていません」
「お互い幼かったのだから仕方ない」
父は苦笑した。
「だからこそ、これから会えばいい」
「……」
「結婚相手というのは、最初から何もかも知っているものではない」
正論だった。
正しい。
きっと父の言っていることは間違っていない。
でも。
「私は嫌です」
リゼットははっきりと言った。
父と母が黙る。
「嫌……というのは?」
「会ったこともない人と、家が決めたからという理由だけで結婚するのが嫌なんです」
「リゼット……」
母が心配そうに名前を呼ぶ。
けれど、もう止められなかった。
「私は、その人がどんな人なのか知りたい」
膝の上で手を握る。
「何が好きなのか。どんなことを考えているのか。どんな時に笑うのか」
言葉が次々と出てくる。
「それを知って……一緒にいたいと思った人と結婚したい」
父が静かにリゼットを見る。
「つまり、お前は恋愛結婚がしたいということか?」
「……そうです」
少し恥ずかしかった。
貴族令嬢が口にするには、子供っぽい願いなのかもしれない。
それでも譲れなかった。
「私は――」
リゼットは顔を上げた。
「好きな人と結婚したいです」
父は何も言わなかった。
母も何も言わなかった。
しばらくして、父が深く息を吐いた。
「……お前の気持ちは分かった」
「お父様……」
「だが、婚約を簡単に白紙にするわけにはいかない」
「分かっています」
「両家の問題でもある」
「はい」
だからこそ。
リゼットは決めた。
「なら……私、自分で確かめます」
「何をだ?」
「自分が何を求めているのか」
椅子から立ち上がる。
「少しだけ、家を離れます」
父の顔が険しくなる。
「どこへ行くつもりだ?」
「冒険者になります」
「……は?」
父が固まった。
母も目を丸くする。
「冒険者って……あなたが?」
「はい」
「危険すぎます!」
母が思わず声を上げた。
「魔物と戦うのですよ?」
「分かっています」
「お前は令嬢だぞ」
「今は、です」
リゼットは静かに答えた。
「冒険者として生活してみたいんです」
貴族令嬢として与えられた生活ではない。
誰かの娘でも、誰かの婚約者でもない。
ただの一人の人間として。
そこで出会った人たちを見て、自分が本当に何を望んでいるのか知りたい。
「……少しだけ、時間をください」
父は長い沈黙の後、
「好きにしなさい」
と呟いた。
「お父様?」
「ただし、無茶はするな」
その声には怒りよりも心配が混じっていた。
「はい」
リゼットは微笑んだ。
◇
その夜。
自室の鏡の前に立つ。
鏡に映っているのは、いつもの自分。
長く美しい金髪。
緑色の瞳。
貴族令嬢らしく整えられた髪。
上品なドレス。
誰が見ても子爵令嬢だ。
「……これじゃ、すぐに見つかっちゃうわね」
リゼットは小さく笑った。
そして魔力を集中させる。
鏡の中で、髪の色が変わっていく。
金色から――赤へ。
鮮やかな赤髪。
見慣れた自分とは、まるで別人だった。
髪型も変える。
長い髪を動きやすいようにまとめ、普段とは違う印象にする。
そしてドレスを脱ぎ、用意していた服に着替える。
丈夫なシャツ。
動きやすいズボン。
簡素なブーツ。
腰には短剣。
「……うん」
リゼットは鏡を見る。
そこにいるのは子爵令嬢リゼットではない。
ただの冒険者の少女。
「これなら、きっと大丈夫」
最後に名前を決める。
偽名など使ったことがない。
少し考えてから、
「リゼット……リズでいいわね」
短くて呼びやすい。
それに、元の名前から少しだけ残っている。
「今日から私は、リズ」
そう言って笑う。
翌朝。
リゼットは必要最低限の荷物だけを持ち、屋敷を出た。
門の前で一度だけ振り返る。
生まれてから十八年間暮らした家。
帰ってくる場所。
でも今は――。
「行ってきます」
小さく呟いて、街へ向かう。
金髪の子爵令嬢ではなく。
赤髪の冒険者――リズとして。
◇
王都の冒険者ギルド。
大勢の冒険者が行き交っている。
剣を腰に下げた者。
杖を持った者。
大きな荷物を背負った者。
貴族の屋敷とはまるで違う世界だった。
リズは少しだけ緊張しながら、受付へ向かう。
「冒険者登録をしたいのですが」
「はい。では、こちらにお名前を――」
受付嬢が書類を差し出す。
リズは一瞬だけペンを止めた。
本名を書いてはいけない。
ゆっくりと名前を書く。
リズ
「はい、ありがとうございます」
受付嬢は何も疑わない。
「では、冒険者リズさん。これからよろしくお願いします」
「……はい!」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
誰も自分を子爵令嬢とは呼ばない。
誰も婚約者の話をしない。
ここでは自分はただの冒険者だ。
「……自由って、こんな感じなのかしら」
リズは小さく笑った。




