第一話 婚約者なんて、いらない
「レオン。そろそろ、お前も婚約者との結婚について考える時期だ」
朝食の席で、父が唐突にそう言った。
伯爵家の広い食堂。
長いテーブルの向こうには父と母が座っている。
窓から差し込む朝の光が、磨き上げられた銀食器を照らしていた。
いつもと変わらない朝。
いつもと変わらない食事。
ただ一つ違っていたのは――その一言だった。
レオン・アシュフォードは、手にしていたナイフを止めた。
「……婚約者、ですか」
「ああ」
父は当然のことのように頷く。
「お前ももう十八だ。いつまでも子供ではない。そろそろ両家の間でも、結婚について具体的な話を進めなければならん」
「……そうですか」
レオンは視線を落とした。
分かっていた。
いつか、この話をされることは。
自分には幼い頃から婚約者がいる。
父と母が決めた、子爵家の令嬢。
家格も申し分ない。
家同士の関係も良好。
両親にとっては、何一つ問題のない婚約なのだろう。
だが――。
「父上」
「なんだ?」
「俺は、その方のことをほとんど知りません」
父の眉がわずかに動いた。
「幼い頃に会っただろう」
「覚えていません」
「お前はまだ幼かったからな。だが、それが何だというのだ?」
「何だというのだ、って……」
レオンは思わず顔を上げた。
「俺は、その人がどんな人なのか知りません。何が好きなのかも、何を嫌っているのかも。どんなことを考えている人なのかも知りません」
「だから、結婚してから知ればいい」
あまりにもあっさりした答えだった。
レオンは言葉を失う。
「家同士の縁談というのは、そういうものだ」
父は続けた。
「お前も貴族なのだから、それくらい理解しているだろう」
「……理解はしています」
「なら――」
「でも、納得はできません」
食堂に沈黙が落ちた。
母が心配そうにレオンを見る。
父はしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「お前は真面目すぎる」
「そうでしょうか」
「相手の家柄も、人柄も、何も問題ない。これ以上ないほど良い縁談だ。それでも嫌だというのか?」
「……はい」
レオンは答えた。
「俺は、自分が誰と結婚するのかくらい、自分で決めたい」
父の表情が険しくなる。
「お前一人の問題ではない」
「分かっています」
「伯爵家の当主になる者として――」
「それも分かっています」
だからこそ、苦しい。
伯爵家の跡取り。
それが自分に与えられた立場だ。
贅沢な暮らしもできる。
何不自由なく生きることもできる。
周囲から羨ましがられることもある。
けれど――。
その代わりに、自分の人生まで家に差し出さなければならないのだろうか。
「……俺は」
レオンは静かに言った。
「家のために生きるだけの人間にはなりたくありません」
父は何も答えなかった。
その日の朝食は、それ以上ほとんど会話がないまま終わった。
◇
自室に戻ったレオンは、窓辺に立った。
眼下には王都の街並みが広がっている。
人々が行き交い、商人が店を開き、冒険者らしき者たちが武器を手に歩いている。
自由そうだった。
少なくとも、今の自分よりは。
レオンは鏡の前に立った。
そこに映っているのは、十八歳の青年。
黒い髪。
青い瞳。
整った顔立ち。
伯爵令息らしい上品な容姿。
誰が見ても貴族だと分かる。
「……この顔じゃ、どこへ行っても伯爵家の人間だな」
苦笑する。
そして、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
冒険者登録について書かれた案内書。
昨晩から何度も読み返していたものだ。
もちろん、勢いだけで決めたわけではない。
冒険者として生きていけるだけの剣の腕はある。
幼い頃から剣を習ってきた。
魔物と戦うための訓練もしている。
少なくとも、自分の身を守る程度の力はある。
「……やってみるか」
レオンは呟いた。
そして、魔力を集中させる。
鏡の中で、髪がゆっくりと色を変えていく。
黒から――茶へ。
見慣れた黒髪が、どこにでもいる青年のような茶色へ変わった。
レオンは髪を少し整える。
普段の貴族らしい髪型から、多少乱しても問題ない形へ。
次に、クローゼットを開ける。
そこから取り出したのは、普段なら絶対に着ない服だった。
丈夫なシャツ。
革のベルト。
簡素なズボン。
平民が着ていても何の違和感もない服。
着替えて鏡を見る。
「……誰だ、こいつ」
思わず笑ってしまった。
そこにいるのは、伯爵令息レオン・アシュフォードではない。
どこにでもいる冒険者の青年。
これなら、まず自分が貴族だと気づかれることはないだろう。
最後に、名前を考える。
「レオンは……そのままじゃまずいな」
少し考える。
「レオ……でいいか」
短く、呼びやすい。
それに、本名から完全に離れすぎても不自然だ。
「今日から俺は、レオだ」
鏡の中の自分に言い聞かせる。
その瞬間だった。
扉の向こうから、ノックの音がした。
「レオン様。お父上がお呼びです」
「……分かった」
レオンは一度、目を閉じた。
そして決意する。
◇
「冒険者になる、だと?」
父の執務室。
レオンの言葉を聞いた父は、露骨に顔をしかめた。
「はい」
「何を馬鹿なことを言っている」
「本気です」
「伯爵家の跡取りが、冒険者だと?」
「はい」
父は立ち上がった。
「お前は自分が何者なのか分かっているのか!」
「分かっています」
「なら、そんな馬鹿げたことを――」
「だからです」
レオンは父の目を真っ直ぐに見た。
「伯爵家の息子だからこそ、一度くらい自分の力だけで生きてみたいんです」
「……」
「冒険者になって、魔物を倒して、依頼をこなして、自分で金を稼ぐ」
拳を握る。
「そのうえで、俺が本当に何をしたいのか考えたい」
父は黙り込んだ。
やがて深いため息を吐く。
「……好きにしろ」
「父上?」
「頭を冷やせば戻ってくるだろう。冒険者などというものが、貴族の生活より楽なはずがない」
父は椅子に座り直した。
「だが、一つだけ覚えておけ」
「何ですか?」
「お前には帰る場所がある」
レオンは少しだけ驚いた。
父の顔を見る。
怒っている。
だが――完全に突き放しているわけではない。
「……ありがとうございます」
レオンは頭を下げた。
◇
その日の昼。
レオンは屋敷を出た。
振り返る。
大きな屋敷。
生まれてから十八年間、暮らしてきた場所。
ここを出るのは初めてだった。
「……行ってくる」
誰に言うでもなく呟く。
そして歩き出す。
茶色に変えた髪が、風に揺れる。
黒髪の伯爵令息ではない。
今の自分は、ただの冒険者――。
「レオ、か」
新しい名前を口にしてみる。
少しだけ胸が高鳴った。
自分の人生を、自分で決める。
それがどんなものなのか。
まだ分からない。
けれど――。
「……楽しみだな」
レオン――いや、レオは笑った。
そして、冒険者ギルドへ向かって歩き始めた。
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