第十八話 もう、隠れなくていい
翌朝。
レオンは久しぶりに、軽い気持ちで目を覚ました。
以前なら、朝が来るたびに考えていた。
今日は何をしよう。
どうやって家から離れよう。
婚約者とは、どんな人なのだろう。
会ったこともない相手との結婚。
それが嫌で、家を飛び出した。
そして冒険者になった。
髪の色を変え、偽名を名乗り、貴族であることを隠して。
けれど今は。
「……全部、必要なくなったな」
鏡の前で、黒い髪を見る。
もう茶色に変える必要はない。
レオン・ノースフォード。
それが自分の名前だ。
「……リゼットは、どうしてるかな」
そう呟いたところで。
扉がノックされた。
「レオン。朝食ですよ」
「今行く」
◇
朝食の席。
父も母も、昨日よりずっと穏やかな顔をしていた。
「今日はどうするんだ?」
伯爵が尋ねる。
「冒険者ギルドへ行こうと思っています」
「もうか?」
「はい」
「傷は?」
「ほとんど問題ありません」
レオンは腕を軽く動かす。
「無理はしません」
「そうしてくれ」
伯爵はため息をついた。
「まったく……」
「父上?」
「昨日までなら、冒険者に戻るなどと言ったら反対していたところだ」
「……はい」
「だが」
伯爵は少しだけ笑った。
「今のお前なら、まあいいだろう」
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「定期的に顔を見せろ」
「分かっています」
「それと、リゼット嬢を危険な目に遭わせるな」
「……努力します」
「努力ではなく、守れ」
「はい」
レオンが頷く。
すると。
「お父様」
母が苦笑する。
「それはリゼットさんにも言わないと不公平ですよ」
「……そうだな」
伯爵が咳払いをした。
「二人で互いに気をつけるんだ」
「はい」
レオンは笑った。
◇
昼前。
ノースフォード伯爵家の馬車が、街の中央で止まった。
「ここからは歩く」
レオンが言う。
「分かりました」
リゼットが馬車から降りる。
今日は二人とも貴族としての服ではない。
かといって、以前のような平民風の服でもない。
動きやすい冒険者用の装備。
そして。
レオンの髪は黒いまま。
リゼットの髪も金色のまま。
「……変な感じね」
リゼットが自分の髪に触れる。
「赤くしなくていいのが」
「俺も茶色にする必要がない」
「でも」
リゼットがレオンを見る。
「こっちの方が好き」
「黒髪?」
「ううん」
少しだけ恥ずかしそうに笑う。
「本当のあなた」
「……」
レオンの頬が少し赤くなる。
「俺も」
「何?」
「金髪のリゼットが好きだ」
「……もう」
リゼットは顔を背けた。
「朝からそういうこと言わないで」
「思ったことを言っただけだ」
「それが困るの」
◇
二人は冒険者ギルドの前に立った。
見慣れた建物。
何度も出入りした場所。
だが。
今日は少しだけ違う。
「行こうか」
「うん」
二人で扉を開ける。
中に入った瞬間。
何人かの冒険者が振り返った。
「……あ」
受付嬢が二人に気づく。
「お二人とも!」
「こんにちは」
「こんにちは」
受付嬢が嬉しそうに笑う。
「もう大丈夫なんですか?」
「はい」
「傷もほとんど治りました」
「それはよかったです」
受付嬢は二人を見る。
そして。
「今日は……冒険者として?」
「はい」
レオンが頷く。
「今度は偽名ではなく、本当の名前で登録します」
「分かりました」
受付嬢が書類を取り出す。
「お名前をお願いします」
「レオン・ノースフォード」
「リゼット・エルヴァール」
受付嬢が書類に書き込む。
以前なら。
ここで「レオ」と「リズ」と書いていた。
今日は違う。
本当の名前。
本当の自分。
「これで正式に登録完了です」
「ありがとうございます」
二人は冒険者証を受け取る。
◇
「……なんだか、不思議」
ギルドを出てから、リゼットが呟いた。
「何が?」
「ずっと隠していたのに」
自分の冒険者証を見る。
「今は、堂々と名前を書ける」
「そうだな」
「冒険者になった理由も変わったのね」
レオンは頷く。
「最初は逃げるためだった」
「うん」
「でも今は違う」
「……何のため?」
レオンは少し考える。
「好きなことをするため」
「それと?」
「リゼットと一緒にいるため」
「……」
リゼットが黙る。
「どうした?」
「……嬉しいだけ」
「そうか」
「うん」
◇
掲示板の前。
二人で依頼書を眺める。
「どれにする?」
「これは?」
リゼットが一枚の依頼書を指差した。
「薬草採取?」
「そう」
「以前もやったな」
「うん」
あの頃は。
茶髪のレオと、赤髪のリズだった。
「……懐かしい」
「じゃあ、これにするか」
「うん」
受付へ持っていく。
「薬草採取ですね」
「はい」
「危険度は低いですが、森の奥には入らないようにしてください」
「分かりました」
◇
森。
二人で歩く。
以前と同じ道。
以前と同じ木々。
けれど。
「レオ」
「ん?」
リゼットが呼ぶ。
「昔みたい」
「そうだな」
「なんだか、戻ってきた感じがする」
「でも、あの頃とは違う」
「うん」
リゼットが笑う。
「今はレオンだから」
「そうだな」
「私もリズじゃなくて、リゼット」
「……でも」
レオンが笑う。
「二人きりなら、昔の名前でもいい」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ……」
リゼットが少し照れながら。
「レオ」
「リズ」
二人とも笑った。
◇
薬草を採取していると。
少し離れた場所から物音がした。
「……魔物?」
リゼットが立ち上がる。
「小型だと思う」
レオンが剣に手を掛ける。
茂みから飛び出してきたのは、一匹の小型魔物。
「任せて」
リゼットが杖を構える。
魔法が放たれる。
魔物が怯んだところへ。
レオンが踏み込む。
一閃。
魔物が倒れる。
「終わり」
「相変わらず早い」
「リズの魔法が上手いからだ」
「……昔から、そういうこと言ってた?」
「言ってたと思う」
「覚えてない」
「俺は覚えてる」
二人は顔を見合わせる。
そして笑った。
◇
依頼を終えた二人は、森を出た。
夕方。
並んで歩く。
「今日は楽しかった」
リゼットが言う。
「ああ」
「以前より楽しい」
「俺もだ」
「どうしてかしら」
「分かってるだろ」
レオンは手を差し出した。
「……これ?」
「そう」
リゼットがその手を握る。
「もう、何も隠さなくていいからだ」
「……うん」
二人で歩く。
昔は。
互いの正体を隠していた。
好きだという気持ちも隠していた。
そして。
婚約者から逃げるために冒険者になった。
今は違う。
レオン・ノースフォード。
リゼット・エルヴァール。
伯爵令息と子爵令嬢。
そして。
互いを選んだ婚約者。
「ねえ、レオン」
「何?」
「これから、どんな冒険者になりたい?」
「そうだな……」
レオンは考える。
「困っている人を助けられる冒険者かな」
「あなたらしいわね」
「リゼットは?」
「私は――」
リゼットは少し考えて。
「あなたと一緒に、いろんな場所へ行きたい」
「……それなら簡単だ」
「本当?」
「ああ」
レオンは笑った。
「俺たちはもう、二人だからな」
「……うん」
◇
街へ戻る。
夕暮れの空。
握った手は、そのまま。
以前は。
いつか別れなければならないと思っていた。
婚約者がいるから。
冒険者として出会った相手とは、一緒になれないと思っていたから。
けれど。
その相手こそ、自分の婚約者だった。
だから。
もう別れる理由なんてない。
「明日も来る?」
リゼットが尋ねる。
「もちろん」
「じゃあ、明日も一緒ね」
「ああ」
二人は笑った。
逃げるために始めた冒険者生活。
それが。
いつの間にか、二人の大切な場所になっていた。
そして今度は。
逃げるためではなく。
自分たちが選んだ未来へ進むために。
二人は並んで歩いていく。
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