第十六話 好きだった人は、婚約者でした
庭園に、夕暮れの風が吹いていた。
レオンとリゼットは、しばらく何も言えなかった。
目の前にいる相手。
その姿は、今までとはまるで違う。
レオンは黒髪。
リゼットは金髪。
貴族としての服。
言葉遣い。
立ち振る舞い。
何もかもが違う。
それなのに。
「……レオ」
リゼットが小さく呼ぶ。
「……ああ」
レオンが答える。
その声だけは。
確かに、あの時のレオだった。
「本当に……レオなの?」
「ああ」
レオンは苦笑した。
「俺も、まだ信じられないけどな」
「……私も」
リゼットの目から涙が落ちる。
「あなたが……婚約者だったなんて」
「俺だって同じだ」
レオンも笑う。
「まさか、自分が逃げ出した婚約者が……リズだったなんて」
「……ふふ」
リゼットが涙を拭う。
「本当に、変な話ね」
「まったくだ」
少しだけ笑う。
だが。
二人とも、まだ胸の奥に引っかかっていることがあった。
◇
「……ねえ、レオ」
「ん?」
「一つ、聞いていい?」
「ああ」
「どうして……婚約が嫌だったの?」
レオンは黙った。
そして。
「……怖かったんだ」
「怖い?」
「会ったこともない人と結婚することが」
リゼットは黙って聞いている。
「家が決めたから結婚する。それが当たり前だと言われても、俺には納得できなかった」
「……うん」
「だから、自分で生きてみたかった」
レオンは少し笑った。
「自分の力で稼いで、自分の好きな場所へ行って、自分で大切な人を見つけたかった」
「……」
リゼットの胸が熱くなる。
「それで……冒険者になったの?」
「ああ」
「私と同じね」
「……そうだったのか」
リゼットも頷く。
「私も嫌だったの」
「何が?」
「家に決められた結婚が」
リゼットは遠くを見る。
「私は、誰かを好きになって、その人に好きになってもらって……そうやって一緒になりたかった」
「……」
「だから、冒険者になった」
レオンは黙って彼女を見る。
「そして……」
リゼットは少し恥ずかしそうに笑った。
「あなたに会った」
「……俺もだ」
◇
二人の間に沈黙が落ちる。
けれど。
今度の沈黙は、苦しくなかった。
「……ねえ」
リゼットが言う。
「何?」
「レオは……好きな人がいるって言ってたよね」
「……ああ」
「誰だったの?」
レオンは少し笑った。
「……お前」
「……」
リゼットが固まる。
「え?」
「だから」
レオンは少し照れながら言う。
「リズだ」
「……私?」
「ああ」
「……」
リゼットの顔がみるみる赤くなる。
「いつから?」
「分からない」
レオンは苦笑する。
「気づいたら、好きになってた」
「……」
「一緒に依頼を受けるのが楽しくて」
言葉が続く。
「笑っていると嬉しくて」
「……」
「怪我をすると怖くて」
レオンは真っ直ぐリゼットを見る。
「……だから」
「……うん」
「俺は、リズが好きだった」
リゼットの目から、また涙が落ちた。
「……私も」
「……」
「私も、レオが好きだった」
二人の間にあった最後の誤解が。
静かに消えていった。
◇
「でも……」
リゼットが涙を拭う。
「私、あなたに好きな人がいると思ってた」
「俺もだ」
「え?」
「リズには好きな人がいると思ってた」
「……どうして?」
「婚約者がいるって言ってただろ」
「あなたも言ったじゃない」
「だから……」
二人は顔を見合わせる。
そして。
「……ふふっ」
「……はは」
思わず笑ってしまった。
「馬鹿みたい」
「本当にな」
「私たち、ずっと勘違いしてたのね」
「ああ」
笑いながら。
二人の目には涙が浮かんでいた。
◇
しばらくして。
リゼットが真剣な顔になる。
「……レオ」
「なんだ?」
「これから……どうする?」
その言葉で。
二人の表情から笑みが消えた。
現実。
今まで忘れていた問題。
「……婚約」
リゼットが呟く。
「そうだな」
「私たちは……」
「婚約者だ」
レオンが答える。
けれど。
以前とは意味が違う。
今は。
この婚約を解消したいとは思わない。
むしろ。
「……私は」
リゼットが俯く。
「この婚約……嫌じゃない」
レオンの胸が熱くなる。
「俺もだ」
「……本当に?」
「ああ」
レオンは頷いた。
「相手がお前なら」
リゼットの瞳が揺れる。
「……私も」
「……」
「相手があなたなら……」
それ以上は言えなかった。
けれど。
それだけで十分だった。
◇
「でも」
レオンが苦笑する。
「親には、まだ何も言ってない」
「そうね」
「俺たちが婚約を嫌がって冒険者になったなんて知ったら……」
「お父様、怒ると思う」
「うちの父もだ」
二人で顔を見合わせる。
「……どうしよう?」
「どうするかな」
しばらく考える。
そして。
レオンが笑った。
「とりあえず」
「うん」
「俺たちが婚約を受け入れることだけ伝えよう」
「……それがいいわね」
「理由は――」
「言わなくてもいいんじゃない?」
「そうだな」
二人は笑った。
◇
だが。
ここで終わりではなかった。
レオンがふと思い出す。
「そういえば」
「何?」
「俺たち、まだ一度も――」
言葉を止める。
「ちゃんと話したことがないな」
「……そうね」
「婚約者として」
「……うん」
二人は顔を見合わせる。
今まで。
家が決めた婚約者として会うことを嫌がっていた。
けれど。
今は違う。
「じゃあ」
リゼットが微笑む。
「今から、初めての婚約者同士の会話をしましょうか」
「……何を話す?」
「そうね……」
リゼットが少し考える。
「まずは、本当の名前で呼び合うところから」
「……そうだな」
レオンが微笑む。
「リゼット」
「……はい」
「これからも、よろしく」
「……こちらこそ」
リゼットは嬉しそうに笑った。
◇
そして。
二人は庭園から屋敷へ戻った。
待っていた両家の家族へ向かって。
「父上」
「お父様」
二人は顔を見合わせる。
そして。
「俺は――」
「私は――」
同時に。
「この婚約を、受け入れます」
両親が目を丸くした。
「……何?」
「……本当か?」
二人は頷く。
「はい」
「もちろんです」
両家の大人たちは、驚きながらも喜び始めた。
けれど。
レオンとリゼットだけは知っている。
この婚約は。
家に決められたものではない。
今、自分たちの意思で選び直したものだ。
そして。
誰にも聞こえないように。
レオンが小さく呟く。
「……リズ」
「何?」
「また、一緒に冒険しよう」
リゼットは目を細める。
「うん」
そして。
「今度は、ちゃんと本当の名前でね」
二人は笑った。




