第十四話 戻るべき場所
馬車の窓から見える景色が、少しずつ変わっていく。
街道沿いの小さな村。
見慣れた森。
幼い頃に遊んだ丘。
レオンはそれらを眺めながら、深く息を吐いた。
「……帰ってきたか」
冒険者になってから、まだそれほど長い時間は経っていない。
それでも。
随分と遠くへ来たような気がした。
理由は分かっている。
――リズ。
「……」
思い浮かぶのは、赤い髪の少女。
笑顔。
怒った顔。
戦っている時の真剣な表情。
そして――。
最後に別れた時の顔。
「また、一緒に冒険しよう」
そう約束した。
だから。
必ず戻る。
そう思っていた。
だが。
「……その前に、婚約者か」
レオンの表情が曇る。
それだけが気が重かった。
◇
馬車が止まった。
「レオン様。到着いたしました」
「ああ」
扉が開く。
目の前には、ノースフォード伯爵家の屋敷。
立派な門。
整えられた庭。
使用人たち。
すべてが、以前と何も変わっていない。
なのに。
レオンには、少し違って見えた。
「お帰りなさいませ、レオン様」
執事が頭を下げる。
「……ただいま」
屋敷の中へ入る。
そこで。
「レオン!」
父の声が響いた。
「父上」
ノースフォード伯爵。
厳格な人物だ。
「ずいぶんと心配をかけさせたな」
「申し訳ありません」
「まあいい」
父はレオンを上から下まで見る。
「怪我をしたそうだな」
「はい」
「無茶をしたらしいな」
「……冒険者ですから」
「その言い訳は聞き飽きた」
父はため息をついた。
「だが、生きて帰ったことだけは褒めてやろう」
「ありがとうございます」
レオンは頭を下げる。
そして。
「父上」
「何だ?」
「俺は――」
言いかける。
婚約を破棄してほしい。
そう言おうとした。
だが。
「婚約者との顔合わせは三日後だ」
「……」
先に言われてしまった。
「三日後……ですか」
「ああ」
「……分かりました」
「嫌そうな顔をするな」
「嫌ですから」
「お前は昔から、そればかりだな」
父が苦笑する。
「会ってもいない相手を嫌う理由が分からん」
「……」
レオンは答えなかった。
会ったことがない。
だからこそ。
自分には関係のない相手だと思っていた。
そして今。
自分には――。
「……好きな人がいるんです」
ぽつりと言った。
父の眉が動く。
「何?」
「家を出てから……大切な人ができました」
父はしばらく黙っていた。
「その女性とは、結婚を考えているのか?」
「……分かりません」
正直に答える。
「ですが、俺は――」
言葉を選ぶ。
「その人と一緒にいたいと思っています」
父は深く息を吐いた。
「ならば」
「はい」
「まず婚約者に会え」
「……」
「その上で話をする」
レオンは納得できなかった。
だが。
「……分かりました」
今は、それしか言えなかった。
◇
一方。
別の場所。
子爵家の屋敷。
こちらにも、一台の馬車が到着した。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「……ただいま」
馬車から降りたのは。
金色の髪をした少女。
リゼット。
冒険者としての赤い髪は、もう魔法で変えていない。
元の金髪に戻してある。
緑色の瞳。
上品なドレス。
姿勢の良さ。
誰が見ても、貴族令嬢だった。
「お怪我は大丈夫ですか?」
「もう大丈夫よ」
リゼットは微笑む。
だが。
胸の奥は晴れなかった。
――レオ。
あの茶色い髪の青年のことが、頭から離れない。
屋敷へ入る。
「リゼット」
父が待っていた。
「お父様」
「よく戻った」
「……はい」
「冒険者などという危険な仕事をして、心配させおって」
「申し訳ありません」
父はため息をつく。
「だが、怪我がこの程度で済んだことは幸いだった」
「……はい」
「さて」
父が話を切り替える。
「婚約者との顔合わせだが」
「……」
リゼットの表情が固まる。
「三日後に決めた」
「三日後……」
「ああ」
リゼットは目を伏せる。
「お父様」
「何だ?」
「……婚約を、お断りすることはできませんか?」
「まだそんなことを言っているのか」
「私は……」
言葉が詰まる。
自分には好きな人がいる。
そう言えばいい。
でも。
その人は、自分には好きな女性がいると言っていた。
だから。
「……何でもありません」
「?」
「三日後ですね」
「ああ」
「……分かりました」
◇
その夜。
リゼットは自分の部屋に戻った。
鏡の前に座る。
長い金髪。
貴族令嬢としての自分。
冒険者だった頃とは、何もかも違う。
「……レオ」
名前を口にする。
胸が痛い。
「今、何をしているのかな」
きっと。
彼も自分と同じように、実家へ戻ったのだろう。
そして。
もしかしたら。
自分と同じように――。
「婚約者と会うのかな」
そう考えると、苦しくなる。
レオには好きな人がいる。
その人が誰なのか、自分は知らない。
でも。
その女性と結ばれてしまったら。
「……嫌だ」
涙がこぼれそうになる。
「嫌……」
自分でも驚くほど、素直な気持ちだった。
けれど。
自分には何もできない。
レオには婚約者がいる。
自分にも婚約者がいる。
だから。
この恋は、叶わない。
そう思っていた。
◇
同じ夜。
レオンもまた、自分の部屋にいた。
黒髪。
青い瞳。
上品な顔立ち。
冒険者としての茶髪は消えている。
鏡を見る。
「……これが俺か」
久しぶりに見る、自分の本来の姿。
伯爵令息。
ノースフォード家の跡取り。
婚約者を持つ貴族。
そして。
「……リズは、今頃どうしてるかな」
赤い髪の少女を思い浮かべる。
笑顔。
緑色の瞳。
自分を心配してくれた声。
「会いたい」
素直にそう思った。
けれど。
「……俺には婚約者がいる」
そして。
その婚約者と三日後に会う。
「……」
レオンは目を閉じた。
できることなら。
婚約など投げ捨てて。
今すぐリズのもとへ行きたい。
だが。
それはできない。
家の問題もある。
相手の家にも事情がある。
何より。
まだ何も決まっていない。
◇
三日後。
ノースフォード伯爵家。
朝から屋敷が慌ただしく動いていた。
使用人たちが準備を整える。
客室を整える。
庭を掃除する。
料理人も忙しく動いている。
「……大げさだな」
レオンが呟く。
「当然です」
母が答える。
「あなたの大切な婚約者が来るのですから」
「……」
大切な。
その言葉が妙に引っかかった。
「私は、彼女が良い娘だと聞いています」
「そうですか」
「あなたも、きっと気に入るでしょう」
「……そうだといいですね」
レオンは苦笑した。
気に入るはずがない。
自分には。
すでに心に決めた女性がいる。
◇
一方。
エルヴァール子爵家でも。
「リゼット」
「はい、お父様」
「準備はできたか?」
「はい」
金髪を整える。
淡い色のドレス。
首元には家の紋章。
鏡の中にいるのは。
冒険者のリズではない。
子爵令嬢リゼット。
「……」
胸が苦しい。
この先、どんな人が待っているのだろう。
けれど。
どんな人であっても。
自分の心には、もうレオがいる。
「……ごめんなさい」
誰に向けた言葉なのか。
自分でも分からなかった。
◇
そして。
同じ頃。
ノースフォード伯爵家の門前に、一台の馬車が止まった。
馬車の紋章は――。
エルヴァール子爵家。
「……」
レオンは玄関ホールに立っていた。
胸が妙に騒ぐ。
なぜだろう。
ただ婚約者と会うだけなのに。
こんなにも落ち着かない。
扉が開く。
父と母が出迎える。
そして。
馬車から、一人の令嬢が降りてくる。
金色の髪。
緑色の瞳。
上品なドレス。
どこか見覚えのある――。
「……」
レオンは息を止めた。
なぜだ。
初めて見るはずなのに。
胸が。
どうしてこんなにも――。
騒ぐ。
そして。
令嬢もまた。
玄関に立つ青年を見た瞬間。
「……」
目を見開いた。
黒髪。
青い瞳。
上品な顔立ち。
初めて会うはずなのに。
なぜか。
その姿が――。
あまりにも懐かしく感じた。
レオンとリゼット。
二人の視線が重なる。
まだ。
互いの名前すら口にしていない。
それなのに。
二人の胸には――。
同じ言葉が浮かんでいた。
――どこかで、会ったことがある。
運命の歯車が、静かに動き始めた。




