第一話「役立たずの足軽」
#### 一
雨だった。
灰色の空から落ちてくる雨粒が、泥と血の匂いを地面から引きずり出している。常磐練は、半分崩れた竹束の陰で膝を抱え、その匂いにずっと息を止めていた。
耳の奥では、まだ轟音が鳴っている。ズドン、ズドン、と腹に響くあの音――火縄銃だと、誰かが叫んでいたのを覚えている。生まれて一度も聞いたことのなかった音だ。なのに、もう三日もこの音を聞いている自分がいる。
「……なんで、俺がこんな目に」
呟いた声は、雨音にかき消されて誰の耳にも届かない。それでいい、と練は思った。誰かに聞かれたところで、答えが返ってくるはずもないのだから。
三日前まで、練は日本のどこにでもいる高校二年生だった。文化祭の準備で使う模造刀を探しに、祖父の遺品整理の手伝いに駆り出されていた。埃っぽい仏壇の奥、桐の箱に収められていたのは、一振りの脇差だった。
「これ、ひいじいさんの代からうちにあったやつだって、お母さんが言ってたな」
軽い気持ちで柄を握った。刃引きもされていない本身だと知っていれば、絶対に触らなかっただろう。だが後悔する間もなく、視界が白く濁り、耳鳴りのような音が全身を包んだ。
気づけば、練は見知らぬ山の斜面に、泥まみれで倒れていた。
近くで馬のいななきと、怒号と、そして初めて聞く轟音が響いていた。逃げ惑う人々に混じって、練はわけも分からぬまま走った。誰かに「お前もこっちだ!」と腕を掴まれ、気づけばどこかの足軽隊に紛れ込んでいた。
――永禄何年とか、そんな言葉を誰かが叫んでいた。戦国。そう呼ばれる時代に、自分は放り込まれたのだと、練はようやく理解した。信じたくはなかった。だが周囲に転がる骸と、腰が抜けるほどの恐怖が、これが悪い夢ではないと教えてくれた。
拾われた先は、名も知れぬ小領主――国衆と呼ばれる小さな家の足軽隊だった。読み書きができるというだけで下働きに使われ、槍働きどころか荷運びすらろくにできない練は、あっという間に「使えぬ奴」の烙印を押された。
槍の持ち方も知らず、馬にも乗れず、力もない。喧嘩の一つもしたことのない練にとって、槍衾を組んで敵にぶつかっていく足軽たちの姿は、ただただ恐ろしいものでしかなかった。
そして今日、退き陣の混乱の中で、練は完全に置き去りにされた。
「――待ってくれ! おい、待ってくれよ!」
声を張り上げても、雨と怒号にかき消される。荷駄を担いだまま転んだ練を、誰も助け起こしてはくれなかった。遠ざかっていく味方の背中を見送りながら、練はその場に崩れ落ちた。
「あの……なんで、俺……」
弱音を吐いている場合ではないと分かっていても、震えが止まらない。手にあるのは、祖父の形見だった錆びた脇差一振りだけ。腰の得物入れに、なぜかずっと差したままだった。刃引きされていない本身だから、誰も貸してくれと言わなかったのだろう。
これで、敵の追手から逃げ切れというのか。
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#### 二
雨脚が強くなる中、練は竹束の陰に身を潜め続けた。
竹束というのは、太い竹を束ねて盾のように使う防具だ。鉄砲の弾を防ぐために考案されたものだと、陣中で誰かが説明してくれたのを覚えている。今、練が隠れているのは、その残骸――半分崩れて放置されたものだった。
震える手を見つめながら、練は今までの三日間を思い返す。
初日は、ただ怖くて泣いていた。二日目は、水と乾飯を分けてもらいながら、なんとかこの世界のことを聞き出そうとした。ここが「日ノ本」と呼ばれる国であること、複数の家が覇を競い合っていること、自分が紛れ込んだのは、そのうちの小さな一家であること。
そして三日目の今日、頼みの綱だったその小さな家の軍勢が、押し寄せる敵に総崩れとなった。
「……このままじゃ、死ぬ」
漠然とした恐怖ではなく、具体的な現実として、その言葉が胸に落ちてきた。刀も槍も使えない。馬にも乗れない。走る速さすら、この時代の足軽たちに遠く及ばない。
唯一持っているのは、祖父の形見の脇差と、現代人としての知識――だが、その知識も、この乱世でどう役立てればいいのか、練には見当もつかなかった。
雨に濡れた前髪をかき上げたとき、視界の端に、見たこともない文字列が浮かんだ。
「……え?」
最初は目の錯覚かと思った。だが瞬きをしても消えない。むしろ焦点を合わせるほどに、その文字ははっきりと輪郭を持ち始めた。
```
《道具超強化》が発動可能です
対象:脇差(銘なし・錆)
理解度:12%
```
「な……なんだこれ」
練は自分の目を疑い、何度もこすった。それでも文字は消えない。むしろ、文字の下にうっすらと、選択肢のようなものまで浮かび上がってくる。
――強化しますか?
誰に問われているのかも分からないまま、練はごくりと唾を飲み込んだ。頭がまともに働かない。だが、今この瞬間、自分に残された選択肢がほとんどないことだけは分かっていた。
逃げるか、隠れ続けるか、あるいは――この得体の知れない力に賭けるか。
「……分かった。分かったよ。もう、どうにでもなれ」
震える手で脇差の柄を握りしめる。頭の中で、なんとなく念じてみた。強くなれ、と。子供じみた願いだと自分でも思う。だが他に、この場でできることが何一つ思いつかなかった。
刃の表面が、じわりと熱を持った気がした。目に見えるほどではない、けれど確かに、何かが刃の内側で動いている感触があった。錆が音もなく剥がれ落ち、鈍い光を取り戻していく。それは、単に磨かれたというだけではない、もっと根本的な何かが変わっていく感覚だった。
```
強化完了
斬れ味:×1000
```
「え……」
信じられずに刃を見つめていると、藪の向こうから物音がした。
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#### 三
振り返るより早く、槍を構えた敵の足軽が藪を割って飛び出してきた。
雨に濡れた具足、泥に汚れた陣笠。血走った目で、獲物を見つけたとばかりに練へと切っ先を向けてくる。
「うわああっ!」
悲鳴のような声を上げながら、練は反射的に脇差を突き出した。狙いも間合いも何もない、ただ身体が勝手に動いただけの、防御にすらなっていない動きだった。
槍の穂先が、まっすぐ練の喉元めがけて突き出される。
――終わった。
そう思った瞬間、練の脇差が、相手の槍の柄に触れた。
グシャリ、という重い音がした。だがそれは、刃と柄がぶつかった音ではなかった。
槍の柄が、竹束の残骸ごと、その奥にあった若木ごと、まるで豆腐のように両断されていたのだ。斬撃の余波だけで、足軽の兜の緒までもが切れて泥に転がる。
しん、と静寂が落ちた。
敵の足軽は、自分の得物が半分になっていることに気づくまで、しばらくかかったようだった。呆然とした顔で、切断面をまじまじと見つめている。
練自身も、震える手で脇差を見つめたまま動けなかった。今、何が起きたのか、頭が追いついていない。ただの錆びた脇差が、まるで名刀のように、槍の柄も、若木の幹も、まとめて斬り裂いていた。
「あ……あの……すみません、ちょっと、道具に手を加えてみただけで……」
言い訳のような、意味の分からない呟きが口をついて出た。自分でも何を言っているのか分からない。
だが、その呟きが決定打になったのか、あるいは目の前で起きた現象そのものが恐ろしかったのか、敵の足軽は短い悲鳴を上げて槍を投げ出し、藪の向こうへと逃げ出していった。
一人残された練は、へなへなとその場に座り込んだ。心臓が痛いくらいに早鐘を打っている。全身から力が抜けて、指先の震えが止まらない。
だが同時に、頭の芯では、冷静な部分が今起きたことを反芻し始めていた。
――今の力は、なんだ。
「理解度……12%だったのに……」
練は脇差を握り直し、もう一度、頭の中に浮かんだ文字列を思い出そうとした。刀のことなど、練はほとんど知らない。祖父の形見だと聞かされていた程度で、鍛えられ方も、手入れの仕方も、何一つ知識がなかった。
それでも12%程度の理解で、刃はこれだけ変わった。
――もし、ちゃんと理解したら、どうなるんだ。
漠然とした予感が、恐怖の底で小さく灯った。それは希望と呼ぶにはあまりに頼りないものだったが、それでも確かに、練の胸の中に何かを残していった。
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#### 四
雨はまだ止まない。だが練は、震える足に力を込めて立ち上がった。
刃を見つめる。脇差はもう、先ほどまでの鈍い錆色ではなく、雨粒を弾く澄んだ輝きを取り戻していた。それでいて、刀身の重さも形も、変わったようには見えない。ただ内側から、何かが根本的に変質している――そんな感覚だけがある。
「理解度が上がれば、もっと変わる……ってことか」
独り言を呟きながら、練は脇差を鞘に収めた。手が震えているのは、恐怖のせいだけではなくなっていた。
生きるために、まずこの場を離れなければならない。だが同時に、頭の隅では、別の考えが芽生え始めていた。
――この力があれば、もしかしたら。
弱く、価値のない存在として扱われてきたこの三日間。誰にも頼られず、荷物運びすらまともにできず、置き去りにされた自分。それでも、この道具を通してなら、何かできるかもしれない。
震える足を叱咤して、練は森の奥へと歩き出した。少しでも安全な場所を探さなければならない。そして、体力の続く限り、この脇差のことを――いや、この世界にあるすべての「道具」のことを、もっと知らなければならない。
歩きながら、練はふと立ち止まり、腰の得物入れに触れた。祖父の形見。ただの古い脇差だと思っていたものが、今は自分の命を繋いだ唯一の武器になっている。
「……ありがとう、じいちゃん」
誰に届くわけでもない呟きを残し、練は雨の中を歩き続けた。
遠くで、まだ轟音が響いている。この乱世のどこかで、今この瞬間も、誰かが命をかけて戦っている。その現実の重さに、練の足はまた竦みそうになる。
それでも、と練は思う。
膂力もない。剣才もない。馬にも乗れない。それでも、この手にある「理解する力」だけは、誰にも奪われていない。
祖父の形見の脇差を握りしめ、練は雨に濡れた山道を、ただひたすらに歩き続けた。
生き延びるために。そして、いつか――この力の意味を、確かめるために。
(第二話「竹束の盾」へ続く)




