第99話 はじめて守りたいと思った――セリナ・フェリスの盾
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幼い頃の記憶はない。
気が付いた時には、わたくしは奴隷だった。
名前も、家族も、生まれた場所も知らない。
覚えているのは、硬い床の冷たさと、重い盾の感触だけ。
朝になると起こされる。
盾を持たされる。
倒れるまで走らされる。
腕が上がらなくなるまで構えさせられる。
膝が震えても、立てと言われる。
転べば叩かれる。
泣けば怒鳴られる。
それが、日常だった。
セント・リバイス王国。
人間の国。
そこでは、人間が上に立つものとされていた。
わたくしのような異種族は、人間に仕えるものとして扱われていた。
屋敷の使用人として。
工房や鉱山の労働力として。
そして時には、奴隷として。
誰も、それをおかしいとは言わなかった。
少なくとも、周りでは。
わたくしは、タンクとして育てられた。
前に立つ者。
攻撃を受ける者。
盾になる者。
けれど、そこに誇りはなかった。
あったのは命令だけ。
止めろ。
防げ。
倒れるな。
前に出ろ。
それだけだった。
タンクとして訓練を受けて、十年が経った。
どうやら、その才能があったらしい。
同じ檻にいた子たちは、ひとり、またひとりと買われていった。
屋敷へ。
商会へ。
兵士の従者へ。
どこか遠くへ。
けれど、わたくしだけは残された。
奴隷商の主人は、こちらを見るたびに満足そうに笑っていた。
「こいつは高く売れる」
その言葉の意味は、当時はよく分からなかった。
ただ、訓練は続いた。
最初は一枚だった盾が、いつの間にか二枚になった。
右手に一枚。
左手に一枚。
片方で斬撃を止め、もう片方で魔法を受ける。
片方で攻撃を防ぎ、もう片方で敵を押し返す。
何があっても前に出るように。
どんな攻撃でも受け止めるように。
逃げず、怯まず、命令された場所に立ち続けるように。
そうやって、わたくしは作られていった。
そして、その日が来た。
奴隷商の屋敷に、客が来た。
タンクとして優秀で、どんな攻撃でも前で止められる者を探しているらしい。
詳しいことは分からなかったけれど、値段は相当高かったようだった。
奴隷商の主人は、これまで見たことがないほど機嫌がよかった。
「育てた甲斐がありましたな」
そう言って、何度も何度も頭を下げていた。
買いに来た人は、自分を勇者だと名乗った。
光の加護を受けた者。
魔を討つ者。
王国を救う者。
その人は、わたくしを見て言った。
「前に立てるのか?」
奴隷商は笑った。
「もちろんでございます」
「防御は完璧か?」
「もちろんでございます」
「壊れても、命令を果たすか?」
「この者は、そのために育てております」
その言葉を聞いても、何も思わなかった。
思うことを、教えられていなかったから。
勇者は、二枚盾を見た。
腕を見た。
足を見た。
傷跡を見た。
そして、満足そうに頷いた。
「ちょうどいい。前に立って、逆らうことなく攻撃を止めるものが欲しかった」
もの。
その言葉が、こちらを指していることだけは分かった。
奴隷商の主人が、黒い首輪を取り出した。
小さな錠前のついた、冷たい首輪。
「この者に、服従の首輪を付けます。この魔道具を付けた者は、主人の命令に絶対に服従します」
勇者は満足そうに頷いた。
「それでいい」
首輪が、首にかけられた。
かちり、と音がした。
その瞬間、世界が水の中に沈んだ。
音が遠くなる。
光が滲む。
自分の身体が、自分のものではなくなっていく。
考えようとすると、頭の奥に白い靄がかかる。
嫌だと思おうとしても、その気持ちが形になる前に溶けていく。
ただ、ひとつだけ残った。
主人についていかなければならない。
主人の命令を聞かなければならない。
主人の前に立たなければならない。
それだけが、心の真ん中に沈んだ。
それからの日々は、ぼんやりしている。
「防げ!」
その声が聞こえると、前に出た。
「止めろ!」
その声が聞こえると、盾を構えた。
「耐えろ!」
その声が聞こえると、膝を沈め、身体を固めた。
大きな怪我もした。
肩が裂けたこともある。
腕の骨が軋んだこともある。
魔法で焼かれたこともある。
それでも、前に出た。
命令されたから。
それが、役目だったから。
「しっかりしてよね」
そんな声とともに、回復の呪文が飛んでくる。
傷は塞がる。
痛みは薄れる。
そして、また前に出る。
それが毎日だった。
防ぐ。
止める。
受ける。
耐える。
それだけを繰り返した。
わたくしは、守護だった。
勇者の前に立つ盾だった。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
けれど。
あの戦場で、初めて、知らない行為を受けた。
命令ではなかった。
取引でもなかった。
役目でもなかった。
吹き飛ばされた時、その人は迷わず追ってきた。
自分の身体を壁に叩きつけてまで、受け止めてくれた。
盾としての価値を残すためではなく。
役目を果たさせるためでもなく。
ただ、壁に叩きつけられないように。
「大丈夫か?」
その声が、耳に残った。
水の中にいるような意識の奥まで、届いた。
大丈夫か。
そんなことを聞かれたのは、初めてだった。
答え方が分からなかった。
大丈夫です。
そう言うように、ずっと作られていた。
でも、その時だけ。
ほんの少しだけ。
別の言葉が、胸の奥に浮かんだ気がした。
痛い。
怖い。
でも。
嬉しい。
その感情はすぐに水の中へ沈んだ。
首輪の命令が、また意識を覆っていく。
前に出ろ。
防げ。
止めろ。
耐えろ。
また、盾を持った。
◆
「止めろ!」
また、あの命令だった。
前へ出た。
大きな悪魔が、赤黒い炎を放とうとしている。
二枚の盾を構える。
魔法防御の紋様が光る。
真正面から受け止める。
熱い。
重い。
身体が押し潰される。
足元の床が砕ける。
腕が震える。
それでも、前に出る。
命令されたから。
守護だから。
止めなければならないから。
けれど、その炎は強すぎた。
盾が軋む。
腕が持っていかれる。
身体が浮く。
次の瞬間、二枚盾ごと吹き飛ばされていた。
衝撃が、全身を貫いた。
息が止まる。
視界が白く弾ける。
床を転がる感覚。
身体のどこかが、強く打ちつけられる感覚。
そして。
首元で、何かが砕けた。
ぱきん、と。
とても小さな音だった。
けれど、その音だけがはっきり聞こえた。
首輪が弾け飛ぶ。
黒い革の感触が消える。
錠前の冷たさが消える。
首元にまとわりついていた命令の重さが、ふっと抜けた。
水の中から、顔を出したみたいだった。
音が戻る。
光が戻る。
空気が肺に入る。
自分の身体が、自分のものとして戻ってくる。
痛い。
全身が痛い。
腕も、足も、肩も、全部痛い。
けれど、それが嬉しかった。
痛いと感じられることが。
怖いと思えることが。
自分で息をしていると分かることが。
ゆっくりと目を開けた。
周りを見る。
勇者は膝をついていた。
賢者も、黒装束の人も苦しそうにしている。
向こうには、大きな悪魔がいた。
剣を握っている。
その剣の先に、倒れている人が見えた。
あの人だ。
わたくしを受け止めてくれた人。
「大丈夫か」と聞いてくれた人。
その人は、ボロボロだった。
ひどい怪我をしている。
左足がない。
それでも、剣を握っている。
その人に向かって、悪魔が剣を振り下ろそうとしていた。
胸の奥が、熱くなった。
命令はない。
誰も、わたくしに言っていない。
止めろとも。
防げとも。
前へ出ろとも。
耐えろとも。
誰も命令していない。
なのに、身体が動いた。
違う。
身体が勝手に動いたんじゃない。
わたくしが、動かした。
”守りたい”
そう思った。
攻撃を防ぐためじゃない。
命令を果たすためじゃない。
勇者の前に立つためでもない。
あの人を”守りたい”
初めて、そう思った。
気が付けば、二枚の盾を握って駆け出していた。
足が痛い。
腕が震える。
息が苦しい。
でも、止まらない。
もう、誰かに動かされているわけじゃない。
わたくしが、前へ出る。
わたくしが、盾を構える。
わたくしが、この人を守る。
悪魔の剣が振り下ろされる。
その前に飛び込んだ。
二枚の盾を重ねる。
全身の力を込める。
金属が悲鳴を上げた。
腕が折れそうになる。
肩が外れそうになる。
それでも、退かない。
キィィィィン!!
甲高い音が、黒い空間を貫いた。
悪魔の剣が弾かれる。
火花が散る。
倒れなかった。
後ろにいる人を、見せるわけにはいかない。
もう一度、二枚の盾を構える。
そして、言った。
「これ以上は」
声は震えていた。
でも、わたくしの声だった。
わたくし自身の言葉だった。
「わたくしの前では、倒させません」
初めて。
本当の意味で。
わたくしは、誰かを守るために立っていた。




