第98話 これ以上は倒させません――二枚盾の守護、立つ
魔皇公ゼルギウス=ゼディアが、大きな声で笑った。
「ヴェルグの仇も、セント・リバイス王国の勇者も、大したことはないではないか」
その声が、黒い空間に響く。
倒れている俺たちを見下ろし、六本腕の悪魔は喉の奥を鳴らした。
「数を揃えてもそのざまか。ボッホッホッホッ!」
重い笑い声だった。
笑い声だけで、空気が沈む。
床に残った黒い管が震え、砕けた石片が細かく跳ねた。
俺は顔を上げる。
勇者パーティの方を見た。
レオンも、ヴィオラも、黒装束の忍者も、床に膝をついている。
全員が大きなダメージを受けていた。
セリナは少し離れた場所に倒れている。
二枚の盾は手放していない。
だが、その腕は震えていた。
まずい。
このままでは、次で終わる。
そう思った瞬間、胸元の鎧が淡く光った。
《キングはぐれミスリルスライムの鎧》。
銀色の鎧の表面から、淡い緑の光がにじみ出る。
それは水のように広がり、胸、腹、肩、腕へと染み込んでいった。
HP自動回復、特大。
焼けた皮膚の痛みが、少しずつ引いていく。
裂けた傷が塞がる。
呼吸が戻る。
視界の白い霞が薄れていく。
だが、身体はまだ自由に動かない。
それに、俺は自分の左足を見た。
膝から下がない。
黒く焦げた断面は、鎧の効果で出血こそ止まり始めている。
けれど、ないものは戻っていない。
この足では、自由に跳べない。
攻撃に体重を乗せられない。
回避もままならない。
《跳空のブーツ》があっても、踏み込む足がなければ意味がない。
◆
「まずは、憎き仇を討たせてもらおう」
ゼルギウスが、こちらへ歩いてきた。
六本腕のうち、右上腕の剣がゆっくりと持ち上がる。
俺は剣を握る。
立てない。
それでも、剣だけは手放せない。
ゼルギウスの影が、俺たちの上に落ちた。
「止めてみせる!」
ノエルの声が響いた。
「《多層聖界・プリズムウォール》!」
白い紋様が床を走る。
俺たちの前に、何層もの光の壁が展開された。
ノエルはふらついていた。
額には汗が浮かび、肩で息をしている。
それでも、両手を前に出し、俺たちの前に結界を張っている。
ゼルギウスの剣が振り下ろされた。
剣と光の壁がぶつかり合い、激しい火花が散った。
半透明の壁に細いヒビが走る。
一本。
また一本。
結界が大きくたわむ。
「くっ……!」
ノエルの足が、床を滑った。
それでも踏みとどまる。
だが、ゼルギウスの剣圧は重すぎた。
パキンッ!
結界が割れた。
白い破片が、光の粒になって散っていく。
「これまでだ」
ゼルギウスが、再び剣を振り上げた。
その腕に、黒い影が絡みつく。
床から伸びた闇が、剣を持つ腕へ巻きついていた。
クロエの《闇縛域》。
「させないよ……絶対に!」
クロエがロッドを握ったまま叫ぶ。
顔色は悪い。
膝も震えている。
それでも、黒い影を必死に伸ばしている。
「この程度で止められると思うな、小娘が!」
ゼルギウスの腕が動く。
ぶちぶち、と嫌な音を立てて、黒い束縛が引き千切られていく。
クロエが歯を食いしばった。
「っ……!」
その瞬間、ゼルギウスの身体ががくりと沈んだ。
足元。
床から伸びた土の腕が、ゼルギウスの足に絡みついていた。
フィーネの《スネア》。
「……やらせません……!」
フィーネが震える声で言う。
顔は青い。
それでも、両手を床へ向け、土の精霊力を必死に操っている。
ゼルギウスの足首に、土の腕が何本も絡みつく。
膝へ。
腰へ。
少しでも動きを止めようと、地面そのものがしがみついている。
だが、魔皇公は止まらない。
ゼルギウスが一歩踏み出す。
土の腕が砕ける。
もう一歩。
《闇縛域》の残りが千切れる。
結界。
闇。
土。
仲間たちが、全部を使って止めようとしている。
それでも、ゼルギウスの剣は、ゆっくりと振り上がっていく。
◆
そこから先は、妙に遅く見えた。
ゼルギウスの巨大な剣が、黒い天井を背にして持ち上がる。
刃に赤黒い魔力がまとわりつく。
俺は、それを見上げていた。
左足はない。
身体は動かない。
剣を握る手だけが、痛いほど強く柄を掴んでいる。
ノエルがこちらへ駆け寄ろうとしている。
けれど、足元がふらつき、間に合わない。
フィーネは床に手をついたまま、目を見開いて固まっていた。
肩が震えている。
クロエが叫ぶ。
何を言っているのか、音が遠くて分からない。
ゼルギウスの剣が、ゆっくりと降りてくる。
このままでは。
誰もが、息を呑んだ。
その時だった。
何者かが、俺の前に飛び込んだ。
キィィィィン!!
甲高い音が、黒い空間を貫いた。
剣が弾かれる。
魔力の火花が散る。
俺は見た。
髪も、手も、足も、血に濡れている。
立っているだけでもおかしいほど、傷だらけだった。
それでも、その背中は倒れていなかった。
屈強で、力強く、俺の前に立っていた。
両の手には、二枚の大型盾。
その盾は震えている。
腕も震えている。
けれど、視線だけは違った。
さっきまで焦点の合わなかった瞳が、今ははっきりと前を向いている。
命令に従っているだけの空っぽな目じゃない。
何かを守ると決めた者の目だった。
守護セリナ・フェリス。
彼女が、俺の前に立っていた。
誰かの命令ではなく。
俺を、守るために。
「……これ以上は」
セリナの声が、小さく響いた。
震えている。
けれど、確かに自分の声だった。
「わたくしの前では、倒させません」
ゼルギウスの剣を弾いた二枚盾が、もう一度構えられる。
俺は、その背中を見上げた。
この戦場には、放っておけないものがある。
そう思っていた。
けれど。
先に動いたのは、俺ではなかった。
首輪に縛られていたはずの守護が、初めて自分の意思で、俺の前に立っていた。
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