第100話 魔皇公討伐――初めての「ありがとう」
セリナが、俺の前に立っていた。
二枚の盾を構え、魔皇公ゼルギウス=ゼディアの剣を弾いた。
自身も傷だらけで、立っているだけでも限界のはずなのに。
それでも、その背中は折れていなかった。
血に濡れた髪。
震える腕。
それでもなお前を向く姿は、痛々しいほどに気高かった。
その瞳は、もう以前のように虚ろではない。
まっすぐ前を向き、強い決意を宿している。
感謝しかなかった。
見ず知らずの俺を、そんな姿で庇ってくれた。
「ありがとう」
素直に、そう言った。
セリナの背中が、一瞬びくっと震える。
驚いているのか。
だが、背中の後ろで、尻尾がゆっくり左右に揺れていた。
少しだけ。
本当に少しだけ。
嬉しそうに見えた。
◆
「ほう」
ゼルギウスが、低く笑った。
「そのような姿で、我が攻撃を止めるとは。なかなかやる」
セリナは答えない。
二枚盾を構えたまま、ただ前を見ている。
ゼルギウスは、楽しそうに口角を歪めた。
「しかし、もう限界のようだな。次の攻撃は止められまい」
その通りだった。
セリナは手も足も血に濡れている。
腕は震え、盾の縁は欠け、白いエプロンは赤黒く汚れていた。
立っているのもやっとのはずだ。
けれど、セリナが攻撃を防いでくれた。
そのわずかな時間があったから、俺の身体は少しだけ戻ってきている。
《キングはぐれミスリルスライムの鎧》。
HP自動回復、特大。
淡い緑の光が鎧からにじみ、焼けた傷を塞いでいく。
腕は動く。
剣も握れる。
上体も起こせる。
だが、左足を失ったままでは、大きく動けない。
跳べない。
踏み込めない。
避けられない。
なら、動かずに届かせるしかない。
しかし、俺には切り札があった。
浦安ダンジョンの魔皇爵ヴェルグにも使わなかった。
草津ダンジョンの深泉王ベルガルムにも使わなかった。
最後の切り札だ。
俺は息を整え、呪文を唱えた。
「《衣透視・クロス・スルー》」
視界が切り替わる。
ゼルギウスが身にまとっているプレートアーマーが、薄く透けていく。
黒い外殻。
分厚い装甲。
その奥。
胸の中心。
見えた。
まるで心臓そのものみたいに脈打つ、赤い宝石。
ヴェルグの父親だと言っていた。
なら、予想はしていた。
同じだ。
あれが核だ。
俺は膝立ちの姿勢になった。
左足はない。
だが、右足と膝と腰で、どうにか身体を支える。
《キングはぐれミスリルドラゴンの剣》を握り直した。
狙うのは、ゼルギウスの胸。
あの赤い核。
俺は剣を振りかぶった。
「セリナ、少しだけ退いてくれ」
セリナの耳がぴくりと動く。
彼女は、こちらを振り返らない。
それでも、ほんのわずかに身体をずらして、射線を開けてくれた。
ありがとう。
心の中でもう一度呟き、俺は腕を振り抜いた。
剣が手を離れる。
銀の軌跡が、一直線に黒い空間を裂いた。
飛んでいく剣身が、ふっと白く光る。
次の瞬間、さらに加速した。
白い光をまとった《キングはぐれミスリルドラゴンの剣》が、ゼルギウスへ向かって一直線に飛ぶ。
「そんな攻撃が効くものか!」
ゼルギウスが吠えた。
右中腕の盾。
左中腕の盾。
二枚の巨大な盾が、胸の前で重なる。
分厚い黒盾。
魔力を帯びた防御。
最後の壁。
「そうだよな。お前が最後の頼りにしているのは、その盾だ。さっき懐に飛び込んだ時に見せてもらった」
ゼルギウスは、攻撃を受ける瞬間、必ず盾を合わせる。
あの核を守るために。
「だからこそ、これでいく」
光を放つ剣が、ゼルギウスの盾にぶつかった。
そう見えた。
だが、次の瞬間。
剣は、盾を素通りした。
まるでそこに何もないかのように、黒盾の内側へ吸い込まれていく。
【銘:キングはぐれミスリルドラゴンの剣】
攻撃+255
器用+255
防御50%貫通
結界特効
投擲時防御無効
自動帰還
「投擲時防御無効」
二枚の盾をすり抜けた剣は、そのままゼルギウスの胸へ突き刺さった。
突き刺さった先には、赤い宝石がある。
心臓のように脈打つ核。
《キングはぐれミスリルドラゴンの剣》が、その威力を持って赤い宝石を貫いた。
次の瞬間。
核が砕けた。
胸の内側から、赤黒い光が破裂する。
鎧の裂け目から炎と衝撃が噴き上がり、六本腕の巨体が大きくのけぞった。
「グアァァァァァァッ!」
悲鳴が響く。
ゼルギウスが、六本の腕で胸を押さえる。
翼が痙攣する。
巨体が、ぐらりと傾いた。
「そんな技を、隠し持っていたとはな」
ゼルギウスの声は、さっきまでとは違っていた。
怒りではない。
憎しみでもない。
どこか、乾いた声だった。
「見事だ」
その瞳から、怒りの色が消えていく。
全身を走っていた赤黒い筋が、一斉に薄れていった。
巨体が、音もなく崩れ始める。
翼が萎れる。
角が砕ける。
六本の腕が灰になっていく。
魔皇公ゼルギウス=ゼディアの身体は、黒い灰と霧に変わっていった。
やがて、黒い空間に重く沈んでいた魔圧が、ふっと消える。
終わった。
魔皇公ゼルギウス=ゼディア。
討伐。
◆
「シンゴさん! 大丈夫!?」
ノエルが叫びながら、こちらへ走ってきた。
「まずは、みんなの回復を頼む。セリナも」
「分かったわ!」
ノエルが両手を広げる。
「《負傷回復・キュア・ウーンズ》!」
白い光が広がった。
セリナを含め、倒れていたみんなを包んでいく。
ノエル。
フィーネ。
クロエ。
守田さん。
甲斐さん。
津詰さん。
副長さん。
山崎さん。
三好さん。
そして、セリナ。
白い光が傷を塞ぎ、痛みを少しずつ引かせていく。
俺の身体にも、柔らかな回復の熱が流れ込む。
痛かった節々から、少しずつ苦痛が薄れていった。
もちろん、左足は戻らない。
けれど、意識ははっきりしてきた。
皆が、少しずつ動けるようになっていく。
その時だった。
セリナが、俺たちの前で片膝をついた。
二枚盾を床へ置き、深々と頭を下げる。
「貴重な回復魔法を、このわたくしにまでかけていただきまして、ありがとうございます」
真剣な声だった。
本気で、そう思っているのが伝わる。
ノエルが目を丸くした。
「もー。そんなお礼なんていらないのよ。放っておけるわけないじゃない」
それから、ノエルは少し笑った。
「それに、あなたのおかげでシンゴさんも、私たちも助かったわ」
「その通りだ」
俺はセリナへ向き直る。
「セリナ、ありがとう。君のおかげで、みんなの命が助かった」
俺は深々と頭を下げた。
そんな俺を見てセリナはポカンとした。
まるで、何を言われたのか理解できていないような顔だった。
困惑した様子で、彼女は小さく首を傾げる。
「なぜ」
その声は、震えていた。
「なぜ、人間であるあなた様が、猫人族であるわたくしにお礼を言うのですか?」
本気で分かっていない。
そういう顔だった。
胸の奥が、少し痛くなる。
俺は、ゆっくりと言った。
「この世界では、受けた恩にはお礼を言う。それが当たり前なんだよ」
セリナの耳が、小さく揺れる。
「人間だろうが、それ以外だろうが関係ない」
「そのような世界が」
セリナが、信じられないものを見るように俺を見た。
「あるんだ」
俺は頷く。
「少なくとも、俺はそういう世界で生きてる」
セリナの瞳が揺れた。
さっきまで命令で曇っていた目ではない。
戸惑いと、驚きと、わずかな期待が混ざった目だった。
俺はもう一度、彼女へ頭を下げる。
「セリナ。君のおかげで、俺を含めて仲間の命が助かった。改めて、お礼を言わせてほしい」
そして、はっきりと言った。
「ありがとう」
その瞬間。
セリナの目から、涙があふれ出した。
大粒の涙が、ぽろぽろと頬を伝って落ちていく。
彼女は何かを言おうとした。
けれど、声にならなかった。
ただ、両手で胸元を押さえ、肩を震わせていた。
初めて聞いた感謝の言葉を、どう受け止めればいいのか分からないように。
けれど、その涙は、もう命令で流されたものではなかった。
セリナ自身の心から、こぼれたものだった。
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