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第95話 炎中突破――蟲王ベルゼ・ローチ討伐

ゼルギウスが吠えた。

空気が震える。

壁を這う黒い管がびくりと跳ね、床に残った黒い灰が波のように散った。


さっきレオンに斬り落とされた右下腕。

黒装束の影に力を奪われた盾腕。

その切断面から、赤黒い魔力が噴き出す。


血ではない。

肉でもない。

もっと濃く、もっと重い、魔そのものが傷口から溢れていた。


それが腕の形をなぞるように膨れ上がり、骨格を作り、外殻を生やし、失われた腕を再び形作っていく。

黒槍を失った左上腕も、だらりと下がっていた盾腕も、赤黒い魔力に包まれながら再生していった。


数秒後。


ゼルギウスの六本腕は、また完全な形に戻っていた。


「わざわざ、このような世界の果てまで来たか」


ゼルギウスの声が、低く響く。


「勇者よ。ここを貴様の墓に選んだこと、後悔させてやろう」


レオンは光の剣を構えたまま、怯まなかった。

むしろ、口元に薄く笑みを浮かべる。


「勇者が、魔に討たれると思うな」


光の剣が強く輝く。


「貴様を追ってきたのは、終わらせるためだ。今度こそな」


ゼルギウスの魔圧が膨れ上がる。

レオンの光が、それを真正面から押し返す。


あの二人の間だけ、別の戦場になっていた。



異世界の勇者か。

正直、分からないことだらけだ。


あの四人がどこから来たのか。

ゼルギウスとどういう因縁があるのか。

セント・リバイス王国という名前も、俺には聞き覚えがない。


だが、今はそれでいい。


何はともあれ、ありがたい。


ゼルギウスを相手にしてくれている。

なら、こちらは残った王に集中できる。


俺は剣を握り直し、目の前を見た。


黒い蟲の群れをまとった蟲王ベルゼ・ローチが、こちらを睨むように複眼を揺らしていた。

人型の黒いカマキリ。


だが、その輪郭は常に蟲の群れで揺らいでいる。

肩から背中にかけて、黒い羽虫がまとわりつき、外殻の隙間から細い脚が覗く。


複眼は濁っていて、どこを見ているのか分からない。

それでも、こちらを捕食対象として捉えていることだけは分かった。


ベルゼの喉の奥で、羽音のような音が鳴る。

羽虫の大群を、無理やり人の声に押し込めたような音だった。


平坦なのに、不快。

言葉の奥で、無数の翅が擦れ合っている。


「ノクスヲ……よクも落トシタな」


ベルゼ・ローチが右手を持ち上げた。


その先の空間が、わずかに歪む。

黒い魔力が一点に集まり、空気の色が沈んでいく。

闇が広がるというより、そこだけ空間の温度が死んだようだった。

光が吸われ、輪郭が滲み、黒い塊が生まれる。


それは球だった。


蟲の卵にも見えた。


腐った繭にも見えた。


ベルゼが鎌のような指をわずかに動かす。

次の瞬間、黒い球が弾けた。

中から飛び出したのは、羽虫の大群だった。


羽音が一気に膨れ上がる。


ブブブブブブブ――ッ!!


音だけで胃がひっくり返りそうになる。


黒い霧。


いや、霧なんて生やさしいものじゃない。

そのすべてが生きている。

ひとつひとつが翅を震わせ、足を動かし、牙を鳴らしている。


黒い蟲の大群が、こちらへ押し寄せた。


「ノエル!」


「分かってるわよ!」


ノエルが両手を広げた。

白い結界が俺たちの前に立ち上がる。


次の瞬間、蟲の群れが結界へ激突した。


ばちばちばち、と白い火花が散る。


普通なら、そこで弾かれる。


だが、ベルゼの蟲は止まらない。


結界に焼かれた蟲の死骸を足場にして、次の群れが乗り上げてくる。


焼ける。


崩れる。


その上に、さらに別の蟲が重なる。


結界の表面に、黒い泥のような層ができていく。

それは防がれているというより、結界そのものを蟲の死骸で埋めているように見えた。


ノエルが眉を寄せる。


「しつこいわね。こいつら、押し潰す気で来てる!」


結界は耐えている。


だが、余裕があるわけじゃない。


蟲王ベルゼ・ローチが、こちらを見下ろす。


「蟲ハ……一匹残レバ、また群レる。王ガ残レバ、巣ハ滅ビぬ」


黒い翅が、ゆっくりと広がった。


「燃やセ。斬レ。潰セ。だガ、我ガ巣ハ終ワラぬ」


その声と同時に、蟲の群れがさらに膨れ上がる。

黒い波が、結界の向こうでうねった。


俺は息を吐き、剣を構え直した。


ノクスが倒れたことで、黒い水による戦場操作は消えた。

だが、ベルゼの蟲群はまだ残っている。


ここからは、数と本体の戦いだ。


「シンゴ!」


クロエがロッドを構える。


「焼くよ?」


「たのむ!まず前を開けてくれ!」


「了解! まとめて燃やすよ? ファイヤーストーム!」


白く鋭い炎が、蟲の群れへ叩き込まれた。

炎の渦が部屋の中央で膨れ上がる。


床を埋めていた蟲が焼ける。

壁を這っていた蟲が弾ける。

天井から落ちてきた黒い塊が、炎の中で一瞬にして灰になる。


黒い濁流が、赤い嵐の中へ引きずり込まれていった。


「道が開いた!」


副長さんが叫ぶ。


守田さんと甲斐さんが盾で蟲の波を押し返し、津詰さんと副長さんがその隙間を斬り開く。


だが、ベルゼ本体にはまだ遠い。


「クロエ、もう一発! ベルゼの周りを焼いてくれ!」


「はいはい! 派手にいくよ!」


クロエが笑う。


「ファイヤーストーム!」


二度目の炎が、ベルゼの周囲で爆ぜた。


白く鋭い火が広がり、ベルゼの足元にまとわりついていた蟲をまとめて呑み込む。

黒い翅が炎に照らされ、複眼が赤く反射する。


その炎の中へ、俺は飛び込んだ。


《キングはぐれミスリルスライムの鎧》。

神話級の鎧。魔法軽減九十パーセント。


クロエの炎は味方の魔法だが、普通なら近づくだけで危険な熱量だ。

それでも、この鎧なら突っ切れる。


炎の中を、俺だけが走れる。


クロエの火力を、俺の道に変えられる。


「行くぞ、ベルゼ!」


俺は炎の中から飛び出した。


ベルゼ・ローチの複眼が、俺を捉える。


「ォマエ……炎ノ中ヲ来ルか」


「悪いな。うちの魔法は、道にもなるんだ」


ベルゼの両腕が開いた。


黒い鎌が、ぎしりと音を立てて広がる。

その外殻が割れるように鳴り、濁った魔力が隙間から漏れ出した。


黒翅が大きく開き、両腕の鎌がさらに長く伸びる。


「群レハ……退イタ。次ハ……王ガ喰ウ」


《蟲王捕食形態》。


蟲の軍勢を操る王ではなく、王自身が獲物を狩る形。


ベルゼの姿がぶれた。

羽音だけが残る。


次の瞬間、左右の鎌が俺の逃げ道ごと閉じてきた。


「逃ゲ場ハ……ナイ」


《捕食王鎌》。


ただの斬撃じゃない。

避ける先ごと刈り取る一撃。


右の鎌を剣で受ける。


左の鎌が脇腹へ迫る。


刃が鎧をかすめ、火花が散った。


重い。


速い。


だが、受けられる。


ベルゼの鎌と、俺の剣が噛み合った。

鍔迫り合い。

黒い鎌がぎりぎりと鳴る。


ベルゼの複眼が、すべて俺を見ていた。


正面の俺だけを。


「ォマエ……邪魔ダ」


「そうだろうな」


俺は歯を食いしばる。


ベルゼの鎌が、さらに重くなる。


腕が軋む。

肩が悲鳴を上げる。


だが、ここで引けない。


「……眉間です……」


フィーネの声が、炎の奥から届いた。


「……複眼の中央に、核があります……!」


ベルゼの濁った複眼。


その中央。


眉間に当たる位置。


黒い外殻の奥で、わずかに脈打つ核がある。


ベルゼの鎌を受ける。


ベルゼの視線を正面に固定する。


炎が荒れる。


クロエのファイヤーストームが蟲を焼き、視界を赤白く揺らす。


その炎の向こうで、誰かが動いた。


津詰さんだった。


いつの間にか、姿が消えていた。


いや、消えたんじゃない。


炎の中に入っていた。


津詰さんは、腰に下げていた小瓶を噛み砕くように飲み干していた。


耐火ポーション。


そうか。

最初から持ってきていたのか。

ベルゼ・ローチが現れる可能性を考えて。


蟲の王が炎で焼かれる場面を想定して。

その炎の中を、自分が抜けるために。


津詰さんの服の端が焦げている。

頬に汗が浮いている。


耐火ポーションがあっても、完全に無傷ではないのだろう。

それでも、津詰さんは止まらない。


叫ばない。


合図もしない。


ただ、炎の揺らぎに紛れて、ベルゼの背後へ回っていた。


ベルゼの複眼は、俺を見ている。

正面の俺を。


その背後に、津詰さんが立った。


双剣を構える。


一瞬だけ、津詰さんの目が見えた。


冷静だった。


熱の中でも、蟲の羽音の中でも、まったく揺れていない。


現場を知っている人間の目だった。


「ベルゼ・ローチ」


津詰さんが低く言う。


「お前が来ることは、想定していた」


ベルゼの複眼が、初めて揺れた。


「ナニ」


遅い。


津詰さんの双剣が走った。


右の剣が、右上から左下へ。


左の剣が、左上から右下へ。


交差する斬撃。


十字。

ベルゼ・ローチの眉間が、クロスに裂けた。


黒い外殻が割れる。


濁った複眼の中央が砕ける。

その奥の核が、双剣に斬り裂かれた。


「ガ、ァ……」


ベルゼの鎌から力が抜けた。


俺は剣を押し返し、距離を取る。


ベルゼの黒翅が一度、大きく震えた。


ブブブ、と汚れた羽音が空間に響く。


だが、それもすぐに途切れた。

周囲の蟲が、一斉に動きを止める。


床を這っていた蟲が崩れる。

壁に張りついていた蟲が落ちる。

天井を埋めていた黒い群れが、灰のように散っていく。


「蟲ハ……一匹残レバ……」


ベルゼの声が掠れる。


クロエがロッドを掲げた。


「残さないよ♪」


炎が走る。


白く鋭いファイヤーストームが、残った蟲の群れをまとめて呑み込んだ。

黒い翅が焼ける。

外殻が崩れる。


ベルゼ・ローチの身体が、膝から崩れ落ちた。

濁った複眼の光が消える。

黒曜石のような外殻が割れ、そこから黒い灰がこぼれていく。

やがて、蟲王の巨体は形を失った。


黒い灰。


黒い霧。


そして、焦げた匂いだけを残して、戦場から消えていく。


蟲王ベルゼ・ローチ。


討伐。


俺は息を吐いた。


腕が重い。


肩が痛い。


それでも、立っている。


津詰さんが双剣を下ろした。

炎の中を抜けたせいか、袖口が焦げていた。


それでも表情は変わらない。


「助かりました」


俺が言うと、津詰さんは短く答えた。


「こちらこそ、正面をよく止めてくれた」


「耐火ポーション、用意してたんですね」


「所沢の報告を読んだ時点で、こいつが出る可能性は見ていた」


津詰さんは、灰になって消えていくベルゼを見た。


「蟲を焼くなら、炎の中を抜ける必要があると思っていた」


やっぱり、プロだ。


その準備が、最後の一撃に繋がった。


クロエが肩をすくめる。


「クロエの炎、味方が突っ込む前提で使われるの、なかなかすごいんだけど」


「便利だった」


「そこは褒めて?」


「最高だった」


「よし♪」


クロエが満足そうに笑う。


ノエルが結界を張り直しながら、ふう、と息を吐く。


「ふふん。これで王級二体目ね。なかなか派手な戦場じゃない」


その声はいつも通りに聞こえた。

だが、額には汗が浮いている。

全員、余裕があるわけじゃない。


ノクスを倒した。


ベルゼを倒した。


これで残る王は、一体。


俺は奥を見る。


勇者レオンたちが、魔皇公ゼルギウス=ゼディアと戦っている。


光の剣が走る。


巨大な盾が軋む。


セリナ・フェリスの二枚盾が、ゼルギウスの攻撃を受け止める音だった。


俺はその音を聞いた瞬間、胸の奥に残っていた違和感が、はっきりと形になるのを感じた。


あの勇者パーティは、強い。


けれど――あの守り方は、どこかおかしい。

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