第93話 あと一歩届かない――そして勇者が現れた
黒い液体の上では、三つの戦場はひとつだった。
蟲王ベルゼ・ローチと闇王ノクス・ヴェインは、黒い水を通じて戦場を入れ替えた。
クロエたちの前にはノクス。
津詰隊の前にはベルゼ。
本来の相性で言えば、逆の方がいい。
だが、元の位置へ戻ろうとしても、黒い液体が戦場を繋いでいる限り、また入れ替えられる。
なら、狙うべき場所は一つだった。
「先にノクスを落としてください!」
俺はゼルギウスから目を離さないまま、声を張った。
「黒い液体を動かしているのはノクスです。こいつを止めない限り、何度でも崩されます!」
ノクス・ヴェインの濁った金色の瞳が、ゆっくりとこちらを向く。
長い鼻の奥で、黒い液体がごぼりと鳴った。
俺は剣を握り直した。
ゼルギウスの六本腕が、わずかに動く。
俺を行かせる気はない。
それでいい。
俺がゼルギウスを抑える。
その間に、ノクスを落とす。
「クロエ、ノクスの周りを焼いてくれ! 本命はノエルだ!」
「了解! 道を開ければいいんだね!」
クロエがロッドを構える。
正面のノクスを焼き切るためではない。
黒い管を消し、ベルゼの蟲を払い、ノエルの浄化を通すための炎だ。
「ファイヤーストーム!」
白く鋭い炎が広がった。
黒い液体が音を立てて蒸発し、蟲の群れが炎に巻き込まれて崩れていく。
「今だ!」
山崎さんの矢が飛んだ。
床から伸びる太い管の根元へ、正確に刺さる。
動きが鈍ったところへ、三好さんの浄化が重なった。
白い光が黒い水の表面を焼き、ノクスの足元に広がる流れを薄めていく。
「……今なら、通ります……!」
フィーネが見えている。
「ノエル!」
「任せなさい!」
ノエルが両手を前へ突き出した。
いつもの軽い笑みは消えていた。
後衛を守る結界を維持しながら、それでも一撃を通すために魔力を集めている。
「《浄霊聖波・ターンアンデッド》!」
白い聖光が、一直線に走った。
炎で開いた道を抜け、矢で止まった管の隙間を通り、浄化で薄くなった黒い流れを突き破って、ノクス・ヴェインへ届く。
ノクスの濁った瞳が、初めて大きく見開かれた。
「ぬう」
ノクスが、とっさに右腕を前へ出した。
象の前脚を思わせる、太く重い腕。
黒い外殻に覆われたその腕が、盾のように聖光の前へ差し込まれる。
だが、ノエルの《浄霊聖波・ターンアンデッド》は止まらない。
白い光が、黒い外殻を正面から削った。
じゅう、と黒い液体が蒸発する。
腕の表面が白く焼け、節くれ立った指が崩れ、分厚い外殻が内側から剥がれていく。
ノクスの右腕が、肩口へ向かって削られていく。
いける!
そう思った時だった。
「ブブブブブブブ」
ベルゼ・ローチが翅を震わせた。
何千もの蟲が、一斉に動く。
黒い壁のような蟲群が、ノエルのターンアンデッドとノクス・ヴェインの間へ割り込んだ。
ジジジジジジジッ!!
蟲たちは聖光に触れた瞬間、次々と浄化されて消えていく。
だが、数が多すぎた。
消える蟲の後ろから、さらに次の蟲が飛び込む。
そのさらに後ろから、また別の蟲が押し寄せる。
一匹一匹は一瞬で消えている。
それでも、暴力的な物量が、聖光の軌道をわずかにずらした。
光がノクスの胸奥へ届く寸前で、右へ流される。
本来なら核へ向かうはずだった浄化の奔流が、肩口へ逸れた。
ノクスの右腕が、肩から先ごと消し飛ぶ。
黒い液体が飛び散り、白い煙になって消えた。
だが、そこまでだった。
闇王を落とせば、戦場操作は止まる。
だが、あと一歩。
その一歩を、二体の連携に止められた。
そして、その一瞬の隙を、ゼルギウスが見逃すはずがなかった。
◆
「上出来だ」
ゼルギウスの声がした。
褒めているわけではない。
こちらの手札を確認した声だった。
「すべて見させてもらった」
左下の腕に、赤黒い魔力が集まる。
魔力弾。
さっきまでよりも大きい。
狙いは、俺ではない。
「ノエル、防御!」
俺が叫んだ瞬間、ゼルギウスの魔法が放たれた。
赤黒い光弾が、後衛を守っていた《多層聖界・プリズムウォール》へ直撃する。
「舐めないで!」
結界が厚みを増す。
白い層が重なり、赤黒い魔力を押し返そうとする。
だが、ゼルギウスはもう一発撃った。
二発目の赤黒い光弾が、まったく同じ場所へ叩き込まれる。
白い結界が、ガラスのように砕けた。
光の破片が飛び散る。
ノエルの体が後ろへ揺れる。
「くっ!」
山崎さんが弓を構え直し、三好さんが息を呑む。
後衛の前から、守りの光が消えた。
「結界が!」
クロエの声が飛ぶ。
ノエルは倒れていない。
だが、結界は壊された。
後衛を守っていた最大の壁が消えた。
俺は反射的にそちらへ跳ぼうとする。
だが、ゼルギウスの黒槍が、その進路へ置かれた。
「行かせると思うか」
視界の端で、ベルゼの蟲が広がる。
ノクスの黒い管も、右腕を失ったままなお床を這っている。
後衛が危ない。
クロエたちも押し込まれている。
津詰隊も蟲群に足を取られている。
それでも、俺は動けない。
正確には、動ける。
ゼルギウスとは戦える。
だが、ここを離れれば、こいつの一撃が後衛へ飛ぶ。
それだけで終わる。
◆
ゼルギウスの剣が来る。
俺は横へ沈み込み、黒槍の軌道を避けながら壁を蹴った。
《跳空のブーツ》の反発で角度を変え、右中の盾の縁をかすめて抜ける。
剣を振る。
《キングはぐれミスリルドラゴンの剣》の刃が、ゼルギウスの外殻を削った。
浅い。
だが、届いた。
ゼルギウスの目が細くなる。
「人の身で、我とここまで打ち合うか」
「褒めるなら、終わってからにしてくれ」
軽口を返す余裕があるように見せた。
だが、胸の奥は冷えている。
俺は互角に近いところまでは来ている。
六本腕を見切り、逃げ道を疑い、ゼルギウスへ刃を届かせることはできている。
けれど、それだけだ。
俺が一歩でも後衛へ寄れば、ゼルギウスはその背中を潰しに来る。
俺がクロエたちを助けに向かえば、ノエルたちが狙われる。
俺が津詰隊への道を開こうとすれば、ゼルギウスの魔法が飛ぶ。
戦える。
だが、救えない。
その事実が、戦場の真ん中で喉に刺さった。
「強いな、人間」
ゼルギウスが六本腕を広げる。
赤黒い魔力が、床と壁の黒い管を震わせた。
「だが、貴様一人が強くとも、戦場は救えぬ」
その言葉は、的確だった。
だから腹が立つ。
俺は歯を食いしばり、剣を構え直した。
「一人で足りないなら、足りるまで粘る」
◆
そう言ったものの、状況は悪い。
ノエルは結界を再構築しようとしているが、さっきの破壊で魔力の流れが乱れている。
クロエは火力でノクスの管を押し返しているが、右腕を失ってなおノクスは止まらない。
津詰さんたちはベルゼの蟲群を削っているが、蟲の壁を抜け切れない。
フィーネは全体を見ている。
けれど、見えているからこそ、危険が多すぎるのも分かってしまう。
「……後衛の守りが、次の一撃に耐えられません……!」
その声で、ゼルギウスが笑った。
笑った気がした。
六本腕のうち、左下の腕に赤黒い魔力が再び膨れ上がる。
今度は一発の魔力弾ではない。
空間全体へ押し広げるような、重い魔法だった。
「終わらせる」
ゼルギウスが低く言う。
俺は止めに行く。
ゼルギウスの前へ踏み込む。
ただ真っすぐ向かえば、剣と黒槍に挟まれる。
だから、低く入った。
《跳空のブーツ》で床を蹴り、滑るように懐へ近づく。
だが、ゼルギウスは読んでいた。
右上の剣が降る。
左上の黒槍が、退路を塞ぐ。
俺は剣を受け流し、黒槍の軌道をぎりぎりで外す。
そこへ、二枚の盾が来た。
左右から閉じる壁。
俺の剣筋を潰し、前へ出る角度を消すための動きだった。
「くそっ」
盾の縁を蹴って、無理やり角度を変える。
拳が来る。
正面から受ければ止まる。
だから受けない。
肩をひねり、拳の外側へ逃がす。
対応はできている。
致命傷は避けている。
だが、その間にも、赤黒い魔力は膨らみ続けていた。
ゼルギウスの左下腕に集まる魔力が、床を震わせる。
黒い管が反応し、空間そのものが軋む。
俺の剣は、あと一歩のところで届かない。
ゼルギウスの盾が、必ずそこへ入ってくる。
止められない。
このままでは、後衛が吹き飛ぶ。
そう思った瞬間だった。
◆
奥で、光が走った。
黒い制御空間の奥。
黒い管が絡み合い、黒い液体が流れている壁の向こう。
そこに、白い亀裂が入った。
魔の黒ではない。
ノエルの聖光とも違う。
もっとまっすぐで、もっと硬い光。
それは、闇を押し返すというより、空間そのものに刃を入れるような光だった。
白い線が縦へ走り、黒い壁を裂いていく。
そこから漏れた魔力は、このダンジョンのものではなかった。
魔族の魔とも違う。
澄んでいて、古くて、どこか物語じみている。
ファンタジーの世界そのものが、現実の裂け目から踏み込んでくるような気配だった。
ゼルギウスの動きが、一瞬だけ止まった。
ベルゼの蟲群も、わずかにざわめく。
ノクスの黒い管が、光の方へ向いた。
亀裂が大きく開く。
まばゆい光の中から、四つの影が現れた。
先頭に立つのは、眩しい剣を持つ男。
剣から放たれる光だけで、周囲の黒い管がじりじりと後退していく。
その隣には、巨大な魔力をまとった女。
あらゆる魔法を同時に編み上げられるような、圧倒的な魔力を感じる。
さらに後ろに、音もなく立つ細い影。
気配が薄い。
視線を外せば、そこにいることさえ見失いそうなほどの隠密性。
そして最後に、自分の背丈を超えるほどの巨大な盾を左右の手に持つ人物がいた。
二枚の盾。
その表面には、複雑な魔法防御の紋様が光っている。
四人が、黒い戦場へ踏み込んでくる。
その時、ゼルギウスが溜めていた赤黒い魔力が放たれかけた。
眩しい剣を持つ男が、一歩で間合いに入る。
速い。
距離を詰めたというより、最初からそこにいたような踏み込みだった。
「間に合ったな」
その声と同時に、光の剣が振るわれた。
ゼルギウスの体勢が崩れる。
赤黒い魔力の軌道が、横へ逸れる。
放たれかけていた魔法が黒い天井を削り、黒い管をまとめて吹き飛ばした。
衝撃で、黒い水が大きく波打つ。
戦場が止まった。
ゼルギウスが、低く問う。
「何者だ」
光の剣を持つ男が、ゼルギウスを見据えたまま答える。
「勇者だ」
その一言が、黒い戦場に落ちた。
見知らぬ四人組。
その存在が、崩れかけていた戦場へ割り込んできた。
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