第92話 対戦カード崩壊――黒い水の上では戦場はひとつ
三つの戦場が、同時に熱を帯びていく。
俺たちは圧倒されていなかった。
もちろん、楽ではない。
蟲王ベルゼ・ローチの放つ蟲の軍勢は、見ているだけで皮膚が粟立つほどの数だったし、闇王ノクス・ヴェインの黒い管は、ただ伸びるだけで空間そのものを侵していくような不気味さがあった。
そして、俺の前に立つ魔皇公ゼルギウス=ゼディアは、そこにいるだけで場の空気を押し潰していた。
六本腕を構える前から、すでに重い。
息を吸うだけで胸が詰まり、足元に見えない鎖を巻かれているような圧がある。
それでも、戦えていた。
シンゴパーティと特務救援隊。
その場にいる全員が、自分の役割を理解して動いている。
敵は強い。
けれど、今のところ、布陣は崩れていなかった。
◆
クロエの前方で、蟲の群れが黒い波になって押し寄せる。
床を埋め、壁を這い、天井からも落ちてくるそれは、もはや一匹一匹を相手にするものではなかった。
ベルゼ・ローチが鎌のような腕をゆっくりと上げるたび、黒い蟲の流れが向きを変え、クロエたちの防衛線へ押し込まれていく。
「守田さん、正面お願い!」
「任せてください!」
守田さんが大盾を構え、蟲の濁流を真正面から受け止めた。
盾に蟲がぶつかるたび、ぎちぎちと嫌な音が響く。
盾の縁から回り込もうとする蟲を、副長さんが冷静に斬り落としていく。
副長さんは派手ではない。
だが、位置取りがうまい。
クロエの詠唱を邪魔しようとする蟲だけを確実に潰し、守田さんの盾を越えようとした個体だけを狙って落とす。
その二人がいるから、クロエは前だけを見ることができた。
「まだまだ焼くよ? ファイヤーストーム!」
次の瞬間、白く鋭い炎が、蟲の群れの中心で膨れ上がった。
渦を巻いた炎が、蟲の群れを黒い濁流ごと呑み込んでいく。
床を這う蟲も、壁に張りついた蟲も、天井から落ちてくる蟲も、火の流れに巻き込まれて次々と崩れた。
それでも、ベルゼ・ローチは怯まない。
焦げた床の裂け目から、また蟲が湧く。
燃え残った翅の下から、小さな黒い脚が這い出す。
「蟲ハ……灰ノ下カらも湧ク。群レハ……途切レぬ」
ベルゼ・ローチの声が、蟲の羽音に混じって響く。
クロエは少しだけ目を細めた。
「しつこいね。でも、そういうの嫌いじゃないよ」
そう言って、またロッドを振る。
二発目のファイヤーストームが、湧き直した蟲の中心を正確に焼いた。
ベルゼ・ローチの物量は凄まじいが、クロエたちはまだ押し負けていない。
むしろ、蟲王の軍勢を焼き返していた。
◆
闇王ノクス・ヴェインの戦場も、同じように拮抗していた。
黒い管が床を這い、壁を伝い、天井から垂れ下がる。
その動きは、蛇よりも水に近かった。
こちらが斬れば避け、射抜けば分かれ、浄化すれば別の隙間からまた伸びてくる。
「ながれは、切れぬ。管は、またつながる」
ノクス・ヴェインの声は静かだった。
それなのに、声を聞くだけで、身体の奥に冷たいものを流し込まれるような気持ち悪さがある。
甲斐さんが大盾を構え、黒い管の束を受け止めた。
「前は止めます!」
盾に黒い管が絡みつく。
そのまま盾ごと引き倒そうとする管を、甲斐さんは足を踏み込み、体重をかけて耐えた。
その横から、ノクス・ヴェインの太い腕が振り下ろされる。
象の前脚を思わせる、重く分厚い腕だった。
甲斐さんが盾を傾けて受ける。
鈍い音が響き、足元の床がわずかに沈んだ。
そこへ山崎さんの矢が飛ぶ。
狙うのは管の先端ではない。
床から伸びる根元。
矢が刺さり、黒い管の動きがわずかに止まったところへ、三好さんの浄化が重なる。
白い光が黒い液を薄め、ぬめった管の表面を焼いていく。
「今です!」
三好さんの声に合わせて、津詰さんが踏み込んだ。
剣が走る。
弱まった管がまとめて断ち切られ、ノクス・ヴェイン本体へ向かう道が一瞬だけ開いた。
津詰さんはそこを逃さない。
だが、ノクスも簡単には届かせない。
太い腕が再び振るわれ、黒い管が横から足元をすくおうとする。
甲斐さんが盾を入れ、山崎さんが次の根元を射抜き、三好さんが再び浄化を流す。
特務救援隊の連携は噛み合っていた。
止める。
射抜く。
薄める。
踏み込む。
一人が崩れたら終わる相手に対して、誰か一人に頼らず、隊全体で崩れないように戦っている。
こちらも、まだ崩れていなかった。
◆
俺の前で、ゼルギウスが六本腕を動かした。
右上の剣が正面から来る。
右中の盾が俺の退路を塞ぐ。
右下の拳が、着地を狙う。
左上の黒槍が横へ跳ぶ道を潰し、左中の盾が俺の反撃の軌道を閉じ、左下に浮かぶ赤黒い魔力弾が、空中へ逃げた場合の場所に置かれていた。
初見なら、たぶん動けなかった。
いや、初撃では実際に遅れた。
だが、今は違う。
ゼルギウスは、ただ六本の腕を振り回しているのではない。
こちらに逃げ道を見せて、そこへ向かった瞬間に潰してくる。
なら、見えている逃げ道をそのまま選ばなければいい。
俺は正面の剣を見た。
右へ跳べる。
そう思わせる振り下ろしだった。
だから右へは行かない。
《跳空のブーツ》で床を蹴り、あえて低く沈むように左前へ滑る。
黒槍が、俺が右へ跳んでいた場合の空間を貫いた。
ぞっとする。
読めていても、怖い。
ゼルギウスの右中の盾が、俺の進路を塞ぐ。
俺は壁を蹴った。
靴裏に魔力が弾け、身体が斜めに跳ぶ。
盾の縁をかすめて抜けた瞬間、右下の拳が来た。
完全には避けられない。
剣を立て、受ける。
ガァンッ!!
腕が痺れる。
骨の奥まで衝撃が響く。
だが、吹き飛ばされない。
「……シンゴさん、左下です……!」
フィーネの声が飛んだ。
俺は考えるより先に身体を倒した。
赤黒い魔力弾が、頭上を削るように飛んでいく。
熱が髪を揺らした。
危ない。
でも、避けた。
フィーネが全体を見ている。
ノエルの結界が後衛を守っている。
俺はゼルギウスの“見せてくる逃げ道”を疑っている。
それが噛み合えば、六本腕にも対応できる。
まだ勝てるとは言えない。
だが、一方的にやられているわけではなかった。
ゼルギウスの目が、わずかに細くなる。
「……今のを抜けるか」
静かな声だった。
感心ではない。
苛立ちでもない。
獲物の動きを見定めるような、冷たい確認だった。
俺は息を整えながら、剣を構え直す。
「抜けなきゃ死ぬんで」
軽口のつもりだった。
だが、喉の奥は乾いている。
一手間違えれば終わる。
それでも、ゼルギウスの攻撃には規則がある。
逃げ道を見せ、そこを潰す。
なら、見せられた道を疑い続ければいい。
ゼルギウスの口元が、ほんの少しだけ歪んだ。
その笑みが、嫌だった。
こちらの対応すら、まだ試しているように見えた。
その時点では、戦況は悪くなかった。
余裕なんてない。
だが、布陣は機能している。
蟲王にはクロエたちが食らいつき、闇王には津詰隊が対応し、ゼルギウスには俺とフィーネでどうにか届いている。
このまま続ければ、勝ち筋は作れる。
そう思った。
その瞬間だった。
◆
床の黒い液体が、どくん、と鳴った。
黒い川のように流れていた液体が、中央で渦を巻き、波紋のように広がっていく。
ベルゼ・ローチの足元へ。
ノクス・ヴェインの足元へ。
そして、俺たちの足元へ。
ノクス・ヴェインが、静かに笑った。
「闇は、ながれるもの。戦場も、また、ながれる」
黒い液体が波打つ。
次の瞬間、ベルゼ・ローチが蟲の群れごと、床の黒い液体へ沈んだ。
クロエのファイヤーストームが、ベルゼのいた場所を焼く。
だが、そこにはもう何もいない。
「消えた?」
クロエが目を見開く。
その直後、津詰さんたちの足元の黒い液体が、ぼこりと膨れ上がった。
黒い蟲の群れが噴き出す。
床から、壁から、盾の裏側から。
そして、その中心から、蟲王ベルゼ・ローチが現れた。
「巣ハ……つなガる。黒キ水ノ下デ、すべテ群レる」
津詰さんが即座に剣を構え直す。
「蟲王がこちらに来た!」
同時に、クロエたちの前で黒い管がうねった。
さっきまで津詰隊の前にいたノクス・ヴェインの影が、黒い液体へ沈む。
そして次の瞬間、クロエたちの正面に、長い鼻と二本角を持つ闇の魔が浮かび上がった。
「おまえたちが分けた戦場も、闇の上では、ひとつ」
一瞬で、相手が入れ替わった。
クロエたちの前にはノクス。
津詰隊の前にはベルゼ。
俺の割り振った対戦カードが、床の黒い液体によって崩された。
「まずい!」
俺は叫んだ。
クロエは蟲相手なら強い。
だが、ノクスの黒い管と液体は、ただ焼けば終わる相手ではない。
津詰隊はノクスの管を断つ連携を組んでいた。
だが、急に蟲の大群が湧けば、山崎さんや三好さんを守る位置取りが一気に難しくなる。
敵は力で押してきたんじゃない。
戦場そのものを繋いできた。
「敵に合わせて位置を組み直してください!」
俺は声を張った。
「クロエは蟲王へ! 津詰さんたちは闇王へ戻る形に!」
言いながら、俺自身も分かっていた。
言うのは簡単だ。
だが、この状況で元の対戦カードに戻すのは難しい。
クロエたちの前には、ノクス・ヴェインが立っている。
守田さんが盾を構え、黒い管を受け止めた。
「通しません!」
だが、ノクスの管は正面から押すだけではなかった。
水のように盾の縁を回り込み、床を這い、クロエの足元へ伸びていく。
クロエはロッドを構え直すが、相手は蟲ではない。
大群を焼くように炎を広げても、黒い液体に呑まれて狙いを逸らされる。
「うわ、やりにくいね、これ」
クロエが舌打ちまじりに笑う。
副長さんがクロエの横に入り、伸びてきた管を斬った。
「無理に撃つな。まず位置を戻す」
「分かってる。でも、あいつ通してくれないじゃん」
その通りだった。
ノクス・ヴェインはクロエたちを倒しに来ているというより、そこに縫い止めに来ていた。
一方、津詰隊の前では、ベルゼ・ローチが蟲の群れを一気に広げていた。
津詰さんがノクスの方へ戻ろうと踏み出す。
だが、その進路を黒い蟲の濁流が塞いだ。
「ォマエたチの足ハ……巣ノ中ダ。戻レると思ウな」
ベルゼ・ローチの声と同時に、蟲の群れが床を埋める。
甲斐さんが盾を構え、山崎さんが矢を放つ。
だが、相手は多い。
群れそのものが壁になっている。
三好さんが浄化を流そうとするが、蟲の数が多すぎて、浄化の光が奥まで届きにくい。
「津詰さん、こちらも戻れません!」
山崎さんの声が飛ぶ。
津詰さんが歯を食いしばる。
「強引に抜けるな。まず崩れるな!」
元の相手に戻りたい。
だが、戻れない。
クロエたちはノクスに足止めされ、津詰隊はベルゼの蟲群に道を塞がれている。
相性のいい対戦カードは、たしかに正しかった。
だからこそ、敵はそこを崩してきた。
黒い液体で戦場を繋ぎ、相手を入れ替え、その場に縫い止める。
この瞬間、俺たちの優位は消えた。
◆
ゼルギウスが動いた。
「遅い」
短く、それだけを言った。
次の瞬間、ゼルギウスの拳が正面から来た。
まともに受ければ、身体ごと潰される。
俺は横へ避けようとした。
その瞬間、足首が動かなかった。
「っ!」
黒い液体から伸びたノクスの管が、俺の足首に巻きついていた。
避けられない。
逃げ道を選ぶ以前に、足を止められている。
ゼルギウスの拳が迫る。
視界の半分が、黒い拳で埋まった。
受けるしかない。
俺は剣を正面に構え、刃を盾のように立てた。
だが、構えた瞬間に分かった。
これは受ける攻撃じゃない。
耐えられるかどうかじゃない。
受けた時点で、身体の芯まで砕かれる類の一撃だ。
ゼルギウスの拳が、剣ごと俺を叩いた。
衝撃。
腕が軋む。
胸の奥の空気が一瞬で抜ける。
視界が白く弾け、身体が後ろへ吹き飛んだ。
「シンゴさん!」
フィーネの叫びが聞こえる。
背中が床に叩きつけられる直前、黒い液体が視界の端で揺れた。
そこから、また黒い管が伸びてくる。
周囲では、ベルゼの蟲が床を埋めるように広がっていた。
ゼルギウスは、ゆっくりと歩いてくる。
一撃で終わらせるつもりではない。
逃げ場を奪い、動きを止め、確実に潰すつもりだ。
対戦相手を分けた。
布陣も正しかった。
だが、敵は戦場そのものを繋いできた。
黒い液体の上では、三つの戦場はひとつだった。
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