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第90話 三つの王が待つ中枢――魔皇公ゼルギウス=ゼディア

黒い霧は、同じ方向へ消えた。


倒した魔たちから噴き出した黒い霧は、その場で散ったわけではない。

床の継ぎ目へ吸い込まれる直前、ほんの一瞬だけ流れを作っていた。

水路とは違う。

空気の流れでもない。

何かに引かれるように、同じ方向へ向かっていた。


「……あっちです……黒い流れが、全部あっちへ向かっています……」


フィーネが指したのは、補助連絡通路のさらに奥だった。


そこには、協会のマップには何も表示されていない。

ただの壁。

ただの行き止まり。

少なくとも、端末の地図上ではそうなっている。


だが、俺にはもう、それがただの壁には見えなかった。


「マップにない通路か」


俺が呟くと、津詰さんが端末を確認した。


「こちらの図面にも載っていないな。救援訓練用の補助通路でもない」


「でも、黒い霧はあそこへ戻っています」


「つまり、敵側の通路か」


「たぶん。もしくは、もともとあった点検用の隙間を、向こうが使っているかです」


ダンジョンにも構造はある。


表の通路。

裏の通路。

水路。

空気穴。

管理用の細い道。


ゲームでも同じだ。

プレイヤーが通る道と、仕掛けを動かすための道は別にある。

罠が複雑になるほど、裏側には必ず仕組みを支える空間がある。


今回、敵は標準ルートを読み、待避ポイントを潰し、隊列を分断しようとした。


なら、その罠を動かすための“裏側”があるはずだ。


「行きましょう」


俺は剣を握り直した。


「黒い霧が戻るなら、その先に中枢があります」


津詰さんが頷く。


隊列は崩さない。


分断罠を受けても戦闘単位が残る形。

さっき、それが有効だと分かった。

ここで元に戻す理由はない。


全員が位置についたのを確認してから、俺は壁の継ぎ目へ剣を入れた。


石の壁に見えた部分は、予想より薄かった。


刃が入る。

抵抗がある。

だが、岩を斬っている感触ではない。


中に何かが詰まっている。


黒い膜。

魔力で固めた蓋。


俺は一度息を吸い、剣を横へ走らせた。


ズバァッ!!


壁が割れた。


中から、冷たい風が漏れる。

それと一緒に、黒い霧の残り香みたいなものが、細く流れ出してきた。


「ここか」


割れた壁の向こうには、狭い通路があった。


石造りではない。

壁も床も、黒い管のようなものに覆われている。

通路というより、巨大な生き物の血管の内側に入り込むような感覚だった。


だが、長くはない。


奥に、広い空間が見えている。


「探索は最低限でいきます。罠があっても、今は中枢を止めるのが先です」


「同感だ」


津詰さんが短く返す。


俺たちは、黒い通路へ踏み込んだ。



通路の中は、音が吸われていた。


水音も、足音も、呼吸の音すら近くで潰れる。

壁を這う黒い管が、こちらの動きに合わせるようにぴくりと震える。

時折、管の中を黒い液体が流れ、どくん、と小さく脈打った。


フィーネが眉を寄せる。


「……魔が……この奥から流されています……」


「なら、当たりだな」


クロエがロッドを担ぎ直す。


「親玉部屋って感じ?」


「そうだな。しかも、かなり嫌な親玉部屋だ」


俺は前方を見る。

通路の先にある空間が、少しずつ大きく見えてくる。


そこは、大空洞だった。

ただし、協会マップにある大空洞ではない。


もっと奥。

もっと深い。

幕張臨海ダンジョンの地下水路のさらに裏側に隠された、黒い制御空間。


天井は高く、壁一面に黒い管が走っていた。

床には水ではなく、黒い液体が細い川のように流れている。


その黒い川は、中央で渦を作りながら、音もなく脈打っていた。


「……ここです……」


フィーネが小さく言った。


「……黒い流れが、全部ここに集まっています……」


その瞬間だった。


空気が、軋んだ。


目に見える何かが現れたわけじゃない。

だが、全員がほぼ同時に身構えた。


肌が粟立つ。

喉の奥が乾く。

背中から冷たいものが這い上がってくる。


強い。


今まで通路で相手にしていた魔とは、比べ物にならない。

圧だけで、こちらの足を止めるほどの魔が、この空間のどこかにいる。


津詰さんが剣を構えた。

タンク役の隊員が盾を前に出す。

ノエルが腕を組んだまま、笑みを消す。

クロエもロッドを握り直した。


「来るぞ」


俺が言った直後だった。


空間全体に、羽音が響いた。


最初は小さかった。

耳元を一匹の虫が飛んだような音。


だが、すぐに増える。


十。

百。

千。


無数の羽音が重なり、黒い波のように場を満たしていく。


「――ヨうヤく来タか。虫ノ群れヲ焼き、我が兵ヲ踏み越エた者ドもヨ」


声が、場全体に響き渡った。


低く、ざらついていて、耳に届いた瞬間に皮膚の内側を何かが這うような声だった。


空気が重くなる。


ただ声を聞いただけなのに、背中に冷たいものが走った。

タンク役の隊員が、無意識に盾を構え直す。

副長さんが半歩だけクロエの横へ寄る。

ノエルの表情から、いつもの軽さが消えた。

クロエも笑ってはいたが、ロッドを握る指に力が入っている。


「……強い魔です……」


フィーネの声が震えた。


次の瞬間、壁、床、天井から黒い蟲の群れが湧き上がった。


一匹一匹は小さい。

だが、数が違う。


黒い濁流みたいに集まり、渦を巻き、中央でひとつの形を作っていく。


翅。

鎌。

黒曜石のような外殻。

濁った複眼。


黒いカマキリを、人型の魔王に作り替えたような姿が、蟲の軍勢の中心に立った。


「我ガ名ハ……蟲王ベルゼ・ローチ。

焼ケ。燃やセ。灰にシロ。

だが蟲ハ……一匹残れバ、また群レる。

見せテみロ……ォマエの炎が、我が巣ノ奥マで届くカを」


その名を告げた瞬間、魔の圧が爆ぜた。


風が吹いたわけじゃない。

音が大きくなったわけでもない。


それなのに、胸を真正面から押し潰されたような重さが来た。


一匹一匹の蟲が、ひとつの王の意思で動いている。

群れではなく、軍勢。


その中心に立つ黒いカマキリの王が、こちらを見下ろしていた。


津詰さんの声が鋭くなる。


「アイツは! 所沢ダンジョンに現れた!」


蟲王ベルゼ・ローチ。


所沢ダンジョンで、黒い虫群を操っていた王。


そいつが、今ここにいる。


クロエが、ゆっくりと笑った。


「虫の王様か。燃やしがいありそう」


その圧だけでも、十分すぎるほど異常だった。


だが、その直後だった。


別の魔が、場に流れ込んだ。


羽音が遠のく。


さっきまで空間を支配していた蟲の気配が、押し広げられるように薄くなる。

代わりに、冷たいものが床下から這い上がってきた。


ぴりぴりと肌が痛む。


呼吸をするたびに、胸の奥へ黒い水を流し込まれるような感覚があった。


重いだけじゃない。

怖いだけでもない。


内側へ入り込んでくる魔。


身体の奥を、勝手に覗かれているような気持ち悪さ。


ベルゼ・ローチですら、わずかに視線を奥へ向けた。


次の瞬間、別の声が場に響いた。


「伊勢の闇を断った者たちよ。だが、あれは終わりではない」


黒い管が、壁や床から伸びた。


一本ではない。

何十本、何百本もの黒い管が、空間そのものを縫い合わせるように這い回る。


床に落ちた黒い液体が、どくん、と脈打った。


それはただの液体ではなかった。


生き物みたいにうごめき、盛り上がり、ねじれながら一つの塊になっていく。


長い鼻。


象を思わせる、黒く太い鼻がゆっくりと垂れ下がる。


頭部には二本の大きな角。


その下に、濁った金色の瞳が開いた。


手足は大型の爬虫類のように太く、節くれ立ち、黒い鱗とも岩ともつかない外殻に覆われている。


背中からは黒い管が何本も伸び、壁や床へ繋がっていた。


それは、闇そのものが獣の形を取ったような魔だった。


「我が名は、闇王ノクス・ヴェイン。

闇は、ながれるもの。

管をつたい、傷をつたい、恐れをつたい……

おまえたちが断ったのは、ただの一滴。

流れは、まだ止まらぬ」


その言葉と同時に、黒い管が一斉に脈打った。


空間が支配される。


そう感じた。


壁も床も天井も、ダンジョンの一部ではなく、ノクス・ヴェインの体内に変わっていくようだった。


誰が言ったわけでもない。


だが、皆が理解した。


伊勢ダンジョンの異変は、こいつの仕業だ。


足元から黒い魔が染み上がる。

息を吸うだけで、胸の奥に冷たいものが入り込んでくる。


僧侶の隊員が息を呑み、レンジャーが弓を構えたまま動きを止める。


津詰さんが低く言った。


「魔王クラスが二体だと!?」


その声に、誰もすぐには返せなかった。


蟲王ベルゼ・ローチ。

闇王ノクス・ヴェイン。


二体の王が、同じ場に立っている。


それだけで、戦場の空気は完全に塗り替わっていた。


だが。


その二体の王すら、黙った。


さらに奥から、もっと重い魔圧が来た。


空気が沈む。

膝が重くなる。

胸の奥を、直接掴まれるような圧が広がっていく。


黒い空間の奥。


そこから、六本腕の巨体が歩いてきた。


一歩。


それだけで、床の黒い液体が震えた。


二歩。


壁を這う管が、そいつを避けるように引いていく。


蟲王も、闇王も、道を譲るように黙っていた。


現れたのは、ヴェルグ=ゼディアよりも一回り以上大きな悪魔だった。


六本の腕。

黒く厚い外殻。

頭部には、王冠のように伸びた角。


その瞳は、怒りで燃えているのに、どこまでも冷たかった。


「我がヴェルグを討った者は、誰だ」


声は、静かだった。


だが、その静けさが一番重かった。


怒鳴られた方が、まだ楽だったかもしれない。

その一言だけで、背骨を握られたような感覚が走る。


魔皇爵ヴェルグ=ゼディア。

浦安ダンジョンで俺たちが倒した、四本腕の悪魔。


その名が出た瞬間、全員が理解した。


今回の一連の異変。


所沢。

草津。

伊勢。

幕張。


その奥にいた者。


息子の仇を討つために、浦安レイド参加者を狙い続けた首謀者。


六本腕の悪魔が、こちらを見下ろす。


「我が名は魔皇公ゼルギウス=ゼディア。ヴェルグ=ゼディアの父にして、貴様らの死を定めた者だ」


魔皇公。

その名乗りと同時に、場の魔圧がさらに重くなった。


ベルゼ・ローチの蟲の圧とも違う。


ノクス・ヴェインの闇の圧とも違う。


ただ、純粋に上位の魔がそこにいる。

そう思い知らされる圧だった。


誰もすぐには動けない。


だが、俺は前に出た。


一歩。


たった一歩だ。


それでも、足が重い。

肺が重い。

心臓が、いつもより大きな音を立てていた。


ゼルギウスの視線が、俺に向く。


「問う。再び問う。我がヴェルグを討った者は、誰だ」


俺は剣を握り直した。


逃げる理由はない。


この異変を終わらせるなら、ここで答えるしかない。


「俺だ」


空間が、静まり返った。


俺はゼルギウスを見上げた。


「ヴェルグ=ゼディアを倒したのは、俺だ」


六本腕の魔皇公が、ゆっくりと笑った。


それは、笑みというより、処刑の合図に近かった。

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