第82話 黒い心臓崩壊――生還への撤退戦
どくん。
黒い心臓が、今までで一番大きく脈打った。
床が沈む。
壁を走っていた黒い管が、一斉に膨らんだ。
天井から垂れていた細い管がぶちぶちと千切れ、黒い液が雨みたいに降り始める。
「……まずいです」
フィーネが、黒い心臓を見つめたまま言った。
「……中枢を失って、流れが逆流しています……」
次の瞬間、心臓の表面に大きな亀裂が走った。
ばきん、と嫌な音が響く。
黒い心臓が、内側から割れ始めていた。
「崩れるぞ!」
俺が叫ぶのと同時に、足元の床が大きく波打った。
◆
床が溶ける。
壁がひび割れる。
天井を走っていた黒い管が一斉に裂け、そこから逆流するように黒い液が噴き出した。
ノエルが反射的に《多層聖界・プリズムウォール》を展開する。
白い層が、降ってくる黒い液と崩れた壁材を弾いた。
「出口まで走るわよ!」
「了解!」
俺はにんともさんの肩を掴んだ。
「立てますか?」
「ありがとう、行きましょう……!」
よろけながらも、にんともさんは頷いた。
ノエルはかんともさんへ肩を貸す。
「しっかり!逃げるわよ。」
「助かります……!」
そのまま全員で走り出す。
もう敵は出ない。
代わりに、空間そのものが死にかけた生き物みたいに暴れている。
床が波打つ。
壁の一部が溶け落ちる。
天井から太い管がちぎれて落ち、後ろで黒い液の沼を作った。
走るたびに、靴裏にぬめりが絡みつく。
一歩遅れれば、そのまま足を取られそうだった。
裂け目を越え、元のボス部屋まで戻る。
そこも無事じゃない。
床石の継ぎ目から黒い液が噴き上がり、壁の膜がずるずると剥がれ落ちていた。
「まだ来るよ、後ろ!」
クロエが振り向きざまに叫ぶ。
俺が見ると、崩れた管束の残骸が、最後の悪あがきみたいにうねっている。
だが、もう追ってこない。
ただ崩れていくだけだ。
「そのまま抜ける!」
フィーネが先の通路を見て言う。
「……右側、まだ床が残っています……! そこを!」
フィーネの指示に従って、全員で右へ寄る。
直後、左側の床が丸ごと崩れ、黒い泥みたいに沈んだ。
「うわっぶな!」
クロエが叫ぶ。
「足元、気をつけろ!」
俺はにんともさんの肩を支えたまま、さらに前へ進む。
◆
しばらく走ったところで、前方から声がした。
「こっちです!」
ござるの声だ。
暗い通路の先で、三つの影が手を振っている。
ござる、うずまき、ちくわだ。
三人とも疲れ切っているが、自分の足で動けるくらいには回復していたらしい。
「無事だったか!」
「そっちこそ!」
うずまきが叫ぶ。
「ダンジョンの黒いのが急に剥がれ始めたから、こっちも動いたの!」
ちくわが後ろを見ながら言う。
「出口までの道、まだ残ってます! 急いで!」
合流した瞬間、背後でまた大きな崩落音が響いた。
黒い膜が壁から剥がれ、天井の一部が落ちる。
その下から、見慣れた伊勢ダンジョンの石壁が少しずつ現れていた。
上書きが剥がれている。
だが、剥がれる勢いが荒すぎる。
剥がれた黒が泥みたいに床へ落ち、通路を塞ぎ始めていた。
「出口まで押し切る!」
俺の声に、全員が頷く。
ござるが前へ出て、倒れかけた岩をハンマーで弾く。
うずまきが槍で崩れた管を払い、ちくわが後方を見張る。
にんともさんとかんともさんはまだふらついているが、それでも前に進んだ。
走る。
支える。
引っ張る。
転びそうな足を無理やり前へ出す。
背後では、ずるり、ぐしゃり、と嫌な音が何度も重なった。
振り返らない。
今は前だ。
そして、ようやくダンジョンの出口が見えた。
「抜ける!」
全員が一気に飛び出す。
冷たい夜気が肺に入る。
外だ。
誰もすぐには喋れなかった。
少し遅れて、背後から重い音が響く。
伊勢ダンジョンの入口側で、黒い気配が完全に途切れた。
終わった。
少なくとも、ここは。
◆
全員無事だった。
にんともさんたち五人も生きている。
疲労は深い。
傷もある。
だが、全員ちゃんとここにいた。
俺は荒い息を整えながら、崩れた伊勢ダンジョンの入口を見た。
「……最近、こんなのばっかりだな」
思わず、そんな言葉が漏れた。
浦安。
草津。
そして伊勢。
ダンジョンに潜るたび、ただの攻略では終わらない。
救助になり、異変になり、最後には“誰かが仕込んだもの”に辿り着く。
ゲームなら、メインクエストが勝手に進んでいる感じだ。
笑えない。
けれど、それでもここは止めた。
助けるべき人たちは、助け切った。
それだけは、胸の奥に確かに残っていた。
フィーネが、残骸の方をじっと見つめている。
その横顔は、安堵よりも少しだけ強い緊張を残していた。
「……同じです……」
「……これも、誰かが作ったものです……」
小さな声だった。
けれど、それで十分だった。
この場所の戦いは終わった。
異変も、この場では止まった。
それでも、全部が終わったわけじゃない。
黒い心臓の向こう側にあったもの。
あれを作った誰かが、まだどこかにいる。
夜の空気は冷たい。
だが、その冷たさが、次へ続く気配をはっきり教えていた。
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