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第82話 黒い心臓崩壊――生還への撤退戦

どくん。


黒い心臓が、今までで一番大きく脈打った。


床が沈む。


壁を走っていた黒い管が、一斉に膨らんだ。

天井から垂れていた細い管がぶちぶちと千切れ、黒い液が雨みたいに降り始める。


「……まずいです」


フィーネが、黒い心臓を見つめたまま言った。


「……中枢を失って、流れが逆流しています……」


次の瞬間、心臓の表面に大きな亀裂が走った。


ばきん、と嫌な音が響く。


黒い心臓が、内側から割れ始めていた。


「崩れるぞ!」


俺が叫ぶのと同時に、足元の床が大きく波打った。



床が溶ける。

壁がひび割れる。

天井を走っていた黒い管が一斉に裂け、そこから逆流するように黒い液が噴き出した。


ノエルが反射的に《多層聖界・プリズムウォール》を展開する。

白い層が、降ってくる黒い液と崩れた壁材を弾いた。


「出口まで走るわよ!」


「了解!」


俺はにんともさんの肩を掴んだ。


「立てますか?」


「ありがとう、行きましょう……!」


よろけながらも、にんともさんは頷いた。


ノエルはかんともさんへ肩を貸す。


「しっかり!逃げるわよ。」


「助かります……!」


そのまま全員で走り出す。


もう敵は出ない。

代わりに、空間そのものが死にかけた生き物みたいに暴れている。


床が波打つ。

壁の一部が溶け落ちる。

天井から太い管がちぎれて落ち、後ろで黒い液の沼を作った。

走るたびに、靴裏にぬめりが絡みつく。

一歩遅れれば、そのまま足を取られそうだった。


裂け目を越え、元のボス部屋まで戻る。

そこも無事じゃない。

床石の継ぎ目から黒い液が噴き上がり、壁の膜がずるずると剥がれ落ちていた。


「まだ来るよ、後ろ!」


クロエが振り向きざまに叫ぶ。


俺が見ると、崩れた管束の残骸が、最後の悪あがきみたいにうねっている。

だが、もう追ってこない。

ただ崩れていくだけだ。


「そのまま抜ける!」


フィーネが先の通路を見て言う。


「……右側、まだ床が残っています……! そこを!」


フィーネの指示に従って、全員で右へ寄る。

直後、左側の床が丸ごと崩れ、黒い泥みたいに沈んだ。


「うわっぶな!」


クロエが叫ぶ。


「足元、気をつけろ!」


俺はにんともさんの肩を支えたまま、さらに前へ進む。



しばらく走ったところで、前方から声がした。


「こっちです!」


ござるの声だ。


暗い通路の先で、三つの影が手を振っている。

ござる、うずまき、ちくわだ。

三人とも疲れ切っているが、自分の足で動けるくらいには回復していたらしい。


「無事だったか!」


「そっちこそ!」


うずまきが叫ぶ。


「ダンジョンの黒いのが急に剥がれ始めたから、こっちも動いたの!」


ちくわが後ろを見ながら言う。


「出口までの道、まだ残ってます! 急いで!」


合流した瞬間、背後でまた大きな崩落音が響いた。

黒い膜が壁から剥がれ、天井の一部が落ちる。

その下から、見慣れた伊勢ダンジョンの石壁が少しずつ現れていた。


上書きが剥がれている。


だが、剥がれる勢いが荒すぎる。

剥がれた黒が泥みたいに床へ落ち、通路を塞ぎ始めていた。


「出口まで押し切る!」


俺の声に、全員が頷く。


ござるが前へ出て、倒れかけた岩をハンマーで弾く。

うずまきが槍で崩れた管を払い、ちくわが後方を見張る。

にんともさんとかんともさんはまだふらついているが、それでも前に進んだ。


走る。

支える。

引っ張る。

転びそうな足を無理やり前へ出す。


背後では、ずるり、ぐしゃり、と嫌な音が何度も重なった。

振り返らない。

今は前だ。


そして、ようやくダンジョンの出口が見えた。


「抜ける!」


全員が一気に飛び出す。


冷たい夜気が肺に入る。

外だ。


誰もすぐには喋れなかった。


少し遅れて、背後から重い音が響く。

伊勢ダンジョンの入口側で、黒い気配が完全に途切れた。


終わった。


少なくとも、ここは。



全員無事だった。


にんともさんたち五人も生きている。

疲労は深い。

傷もある。

だが、全員ちゃんとここにいた。


俺は荒い息を整えながら、崩れた伊勢ダンジョンの入口を見た。


「……最近、こんなのばっかりだな」


思わず、そんな言葉が漏れた。


浦安。

草津。

そして伊勢。


ダンジョンに潜るたび、ただの攻略では終わらない。

救助になり、異変になり、最後には“誰かが仕込んだもの”に辿り着く。


ゲームなら、メインクエストが勝手に進んでいる感じだ。


笑えない。


けれど、それでもここは止めた。

助けるべき人たちは、助け切った。

それだけは、胸の奥に確かに残っていた。


フィーネが、残骸の方をじっと見つめている。


その横顔は、安堵よりも少しだけ強い緊張を残していた。


「……同じです……」

「……これも、誰かが作ったものです……」


小さな声だった。


けれど、それで十分だった。


この場所の戦いは終わった。

異変も、この場では止まった。


それでも、全部が終わったわけじゃない。


黒い心臓の向こう側にあったもの。

あれを作った誰かが、まだどこかにいる。


夜の空気は冷たい。

だが、その冷たさが、次へ続く気配をはっきり教えていた。

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