第81話 黒い心臓の向こう側――中枢を潰す双盾
にんともさんとかんともさんを操っていた六本腕の悪魔は消えた。
だが、異変そのものは終わっていなかった。
壁の向こうに露出した黒い心臓は、なおもゆっくりと脈打っている。
どくん、と一度鳴るたびに、床を這う黒い管が震え、壁の奥を走る筋が膨らみ、天井から垂れた細い管までが生き物みたいにぴくりと反応した。
止まっていない。
この空間そのものが、まだ生きている。
「助けただけじゃ終わらないな」
俺が低く言うと、ノエルが頷いた。
「ふふん! 天才天使がちゃちゃっとやってやるわよ」
かんともさんはまだ肩で息をしている。
にんともさんも立てはするが、さすがに足元が危うい。
ここで後ろへ下がるのが正解か。
一瞬そう考えた。
だが、拍動のたびに黒い管が太くなるのを見て、その考えはすぐに消えた。
逃げても駄目だ。
ここを止めない限り、また同じことが起きる。
「ここで止める」
俺はそう言って、黒い心臓の方へ視線を向けた。
クロエがロッドを肩へ担ぐ。
「やると思ってたよ、お兄ちゃん」
フィーネも小さく頷く。
「……わたしたちで、止めましょう……」
「いこう」
そう言って、俺は前へ出た。
◆
壁の裂け目を越えた瞬間、空気の質が変わった。
もうここはダンジョンじゃない。
床は石に見えて、その実、薄い膜みたいなぬめりを持っている。
踏み込むたびに、靴裏の下でぐずりと沈み、内側から鈍い反発が返ってきた。
壁は黒い管に覆われていて、拍動に合わせてわずかに膨らみ、縮む。
太い管は人の胴ほどもあり、細いものは指先ほどの太さで無数に枝分かれしながら走っていた。
呼吸している。
そうとしか思えない。
空間全体が巨大な生き物の体内みたいだった。
「……ここ、伊勢ダンジョンの構造じゃありません……」
フィーネが、周囲を見渡しながら断言する。
「完全に別物だね」
クロエも珍しく軽口を抑えた声で言った。
俺も同じ感覚だった。
「侵食っていうより、上書きか」
本来あるはずの通路の理屈も、部屋の継ぎ目も、もう残っていない。
伊勢ダンジョンの上に、別の何かが被さっている。
その中心に、あの黒い心臓がある。
だが、見ているうちに違和感が浮かんだ。
俺は足を止める。
「待った」
クロエとフィーネが同時にこっちを見る。
俺は黒い心臓と、その周囲を走る管を見比べた。
拍動。
膨張。
収縮。
黒い流れ。
それぞれの動きが、ぴたりと一致していない。
「分かったかもしれない」
俺は心臓を指さした。
「あの心臓、本体じゃない」
クロエが眉を上げる。
「え、でもどう見てもど真ん中じゃん」
「ど真ん中ではある。でも、役割が違う」
一歩踏み出し、黒い管の太い束を目で追う。
「見てくれ。太い流れは、心臓から生まれて広がってるんじゃない。裏側の一点に集まって、一回ここを通ってから全体へ押し出されてる」
クロエがはっと息を呑んだ。
「ほんとだ!」
「心臓は流れを押し出してる役だ。でも、流れを“決めてる”場所は別にあるはずだ」
さらに観察する。
拍動のたびに黒い管が全体へ広がる。
だが、その前に必ず、心臓の裏側へ束ねられた太い管の根元が一度だけ脈打っていた。
「押し出す役と、流れを決める役が分かれてる」
俺は確信する。
「しかも入出力が一点に束ねられてるなら、中枢はその先だ。制御してるのは、心臓の奥の壁の向こうだ」
クロエがにやっと口元を上げる。
「いいね。その読み、好き♪」
フィーネは、すでに《魔力干渉視覚》で裏側を見ていた。
瞳の奥が、いつものように静かに研ぎ澄まされていく。
「……あります……」
「見えたか?」
「……はい……」
フィーネの指先が、心臓のさらに奥――管束が収束する壁の向こうを指した。
「……あの奥に魔を感じます……」
◆
フィーネの示した先を見る。
黒い心臓の裏。
そのさらに奥。
壁そのものみたいに黒い管が束ねられている場所がある。
最初は、それ自体が壁の一部にしか見えなかった。
だが、フィーネの言葉を聞いてから見直すと、そこだけ明らかに流れが違った。
無数の管が、ただ絡まっているわけじゃない。
奥の一点へ向かって集まり、そこからまた別方向へ分かれている。
まるで、見えない何かを中心にして、魔の流れだけが分岐しているようだった。
フィーネが目を細める。
「……あそこから流れが分かれています……」
黒い心臓がまた脈打つ。
どくん。
その瞬間、奥の管束が先に震えた。
一拍遅れて、黒い心臓が膨らみ、床や壁へ黒い流れが走る。
間違いない。
「あそこが中枢か」
「……おそらくは……」
フィーネが小さく頷いた。
ただ、位置が悪い。
気配はすぐそこにある。
なのに、管束と奥の壁が邪魔をして、真正面からは届かない。
クロエがロッドをくるりと回した。
「引きずり出す? お兄ちゃん♪」
「そうするしかないな」
クロエが一歩前に出る。
ロッドの先に熱が集まり、赤い火がごうっと膨らんだ。
「ふふっじゃあ派手にいくよ♪《ファイヤーストーム》!」
放たれた炎は渦を巻きながら、心臓の奥の壁一帯へ叩きつけられた。
熱風が吹き荒れる。
黒い管束が一斉に焼け、壁の表面を覆っていた膜がぶすぶすと音を立てて溶けていく。
炎の中で、管束が露わになった。
何本もの太い管が、絡みつきながら一本の塊みたいに束ねられている。
その奥に、小型悪魔の姿がはっきり見えた。
焼かれたせいで身体を引き、黄色い目をぎらりとこちらへ向ける。
「見えた!」
クロエが叫ぶ。
それで十分だった。
「行く!」
俺は床を蹴る。
《跳空のブーツ》が足裏で弾けた。
一気に加速し、黒い心臓の脈動を飛び越えるように跳ぶ。
空中で剣を引き抜き、そのまま管束の中心へ叩き込んだ。
ズバァッ!!
束ねられていた黒い管が一閃で裂ける。
弾けた液が飛び散り、焼けた管がばらばらにほどける。
その奥にいた小型悪魔が、初めて大きく悲鳴を上げた。
「ギッ――!」
悪魔は俺を避けるように奥の壁から剥がれ、黒い心臓の手前へ転がり出る。
管束から離れたせいで、身体の輪郭がはっきり見えた。
小さい。
人間の子どもほどの大きさしかない。
けれど、可愛げなんてものは一切なかった。
痩せ細った黒い体。
骨みたいに浮き出た肋骨。
折れそうなくらい細い角。
濁った黄色の目。
耳元まで裂けた口。
だが、痩せた胴に対して指と爪だけが異様に長く、口の裂け目の奥では細かい歯が何重にも並んでいた。
逃げる!
そう思った瞬間、その前へすっと白い影が立った。
ノエルだ。
「あーら。どこに行こうと思っているのかしら」
悪魔が立ち止まる。
逆側から、クロエも炎の残滓をまとったまま歩み寄った。
「よくも好き勝手してくれたわねー♪」
小型悪魔が、露骨に慌てた。
逃げ道を探すように首を振る。
だが、もう遅い。
ノエルがふふんと鼻を鳴らす。
「ふふん。いい身分だわ。でも、ここは真打に任せましょうか」
その声の後ろから、ふらつきながら二つの影が前へ出た。
にんともさん。
かんともさん。
まだ万全じゃない。
呼吸も荒い。
足元も危うい。
だが、その目にはちゃんと意志が戻っていた。
「かたじけない」
にんともさんが、短く頭を下げる。
「ありがとう」
かんともさんも低く言った。
そして二人は、悪魔を挟むように左右へ散った。
大盾を構える。
その動きに、さっきまでの苦しさはもうない。
まだ重そうではある。
けれど、これは本人たちの立ち方だ。
「いくわよ! かんとも!」
「いいわ! にんとも!」
二人が同時に床を蹴った。
「ツイン・シールドバッシュ!!」
左右から、大盾が同時に叩き込まれる。
小型悪魔が悲鳴を上げる間もなかった。
ぐしゃっ、と鈍い音が響く。
左右から挟まれた胴が一瞬で潰れる。
細い角が折れ、裂けた口が横へ伸び、黄色い目が飛び出しかける。
さらに勢いの乗った盾が、そのまま床へ押し潰した。
黒い液が派手に飛び散る。
小さな胴体が石床にめり込み、痩せた腕と長い爪が変な角度で折れた。
見ているだけで痛い。
いや、もう痛いとかそういう段階じゃない。
「うわ……」
思わず本音が漏れる。
表面的な動きだけ操ってくる相手で、本当によかった。
あれと、まともに戦うと思うと、ぞっとする。
悪魔はぴくぴくと痙攣したあと、最後にひきつるように震えた。
裂けた口から黒い霧が漏れる。
濁った黄色の目が、ふっと光を失う。
次の瞬間、小さな身体の輪郭が崩れた。
潰れた胴も、折れた角も、長い爪も、ほどけるように黒い霧へ変わっていく。
霧は床を這うように広がり、最後には黒い心臓へ吸い込まれる前に、空気に溶けるように消えた。
「あーー」
にんともさんが、息を吐くみたいに声を漏らす。
「すっきりした!」
かんともさんも同意するように肩を落とした。
その言葉を聞いて、俺もようやく少しだけ息を吐いた。
にんともさんとかんともさんを助けた。
六本腕の悪魔も倒した。
そして今、黒い心臓を動かしていた小型の悪魔も潰した。
これで終わり。
そう思いたかった。
だが――。
どくん。
黒い心臓が、今までで一番大きく脈打った。
床が沈む。
壁を走っていた黒い管が、一斉に膨らんだ。
天井から垂れていた細い管がぶちぶちと千切れ、黒い液が雨みたいに降り始める。
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