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第81話 黒い心臓の向こう側――中枢を潰す双盾

にんともさんとかんともさんを操っていた六本腕の悪魔は消えた。


だが、異変そのものは終わっていなかった。


壁の向こうに露出した黒い心臓は、なおもゆっくりと脈打っている。

どくん、と一度鳴るたびに、床を這う黒い管が震え、壁の奥を走る筋が膨らみ、天井から垂れた細い管までが生き物みたいにぴくりと反応した。


止まっていない。


この空間そのものが、まだ生きている。


「助けただけじゃ終わらないな」


俺が低く言うと、ノエルが頷いた。


「ふふん! 天才天使がちゃちゃっとやってやるわよ」


かんともさんはまだ肩で息をしている。

にんともさんも立てはするが、さすがに足元が危うい。


ここで後ろへ下がるのが正解か。

一瞬そう考えた。


だが、拍動のたびに黒い管が太くなるのを見て、その考えはすぐに消えた。


逃げても駄目だ。

ここを止めない限り、また同じことが起きる。


「ここで止める」


俺はそう言って、黒い心臓の方へ視線を向けた。


クロエがロッドを肩へ担ぐ。


「やると思ってたよ、お兄ちゃん」


フィーネも小さく頷く。


「……わたしたちで、止めましょう……」


「いこう」


そう言って、俺は前へ出た。



壁の裂け目を越えた瞬間、空気の質が変わった。


もうここはダンジョンじゃない。


床は石に見えて、その実、薄い膜みたいなぬめりを持っている。

踏み込むたびに、靴裏の下でぐずりと沈み、内側から鈍い反発が返ってきた。

壁は黒い管に覆われていて、拍動に合わせてわずかに膨らみ、縮む。

太い管は人の胴ほどもあり、細いものは指先ほどの太さで無数に枝分かれしながら走っていた。


呼吸している。


そうとしか思えない。


空間全体が巨大な生き物の体内みたいだった。


「……ここ、伊勢ダンジョンの構造じゃありません……」


フィーネが、周囲を見渡しながら断言する。


「完全に別物だね」


クロエも珍しく軽口を抑えた声で言った。


俺も同じ感覚だった。


「侵食っていうより、上書きか」


本来あるはずの通路の理屈も、部屋の継ぎ目も、もう残っていない。

伊勢ダンジョンの上に、別の何かが被さっている。


その中心に、あの黒い心臓がある。


だが、見ているうちに違和感が浮かんだ。


俺は足を止める。


「待った」


クロエとフィーネが同時にこっちを見る。


俺は黒い心臓と、その周囲を走る管を見比べた。


拍動。

膨張。

収縮。

黒い流れ。

それぞれの動きが、ぴたりと一致していない。


「分かったかもしれない」


俺は心臓を指さした。


「あの心臓、本体じゃない」


クロエが眉を上げる。


「え、でもどう見てもど真ん中じゃん」


「ど真ん中ではある。でも、役割が違う」


一歩踏み出し、黒い管の太い束を目で追う。


「見てくれ。太い流れは、心臓から生まれて広がってるんじゃない。裏側の一点に集まって、一回ここを通ってから全体へ押し出されてる」


クロエがはっと息を呑んだ。


「ほんとだ!」


「心臓は流れを押し出してる役だ。でも、流れを“決めてる”場所は別にあるはずだ」


さらに観察する。


拍動のたびに黒い管が全体へ広がる。

だが、その前に必ず、心臓の裏側へ束ねられた太い管の根元が一度だけ脈打っていた。


「押し出す役と、流れを決める役が分かれてる」


俺は確信する。


「しかも入出力が一点に束ねられてるなら、中枢はその先だ。制御してるのは、心臓の奥の壁の向こうだ」


クロエがにやっと口元を上げる。


「いいね。その読み、好き♪」


フィーネは、すでに《魔力干渉視覚》で裏側を見ていた。

瞳の奥が、いつものように静かに研ぎ澄まされていく。


「……あります……」


「見えたか?」


「……はい……」


フィーネの指先が、心臓のさらに奥――管束が収束する壁の向こうを指した。


「……あの奥に魔を感じます……」



フィーネの示した先を見る。


黒い心臓の裏。

そのさらに奥。

壁そのものみたいに黒い管が束ねられている場所がある。


最初は、それ自体が壁の一部にしか見えなかった。

だが、フィーネの言葉を聞いてから見直すと、そこだけ明らかに流れが違った。


無数の管が、ただ絡まっているわけじゃない。

奥の一点へ向かって集まり、そこからまた別方向へ分かれている。

まるで、見えない何かを中心にして、魔の流れだけが分岐しているようだった。


フィーネが目を細める。


「……あそこから流れが分かれています……」


黒い心臓がまた脈打つ。


どくん。


その瞬間、奥の管束が先に震えた。

一拍遅れて、黒い心臓が膨らみ、床や壁へ黒い流れが走る。


間違いない。


「あそこが中枢か」


「……おそらくは……」


フィーネが小さく頷いた。


ただ、位置が悪い。

気配はすぐそこにある。

なのに、管束と奥の壁が邪魔をして、真正面からは届かない。


クロエがロッドをくるりと回した。


「引きずり出す? お兄ちゃん♪」


「そうするしかないな」


クロエが一歩前に出る。

ロッドの先に熱が集まり、赤い火がごうっと膨らんだ。


「ふふっじゃあ派手にいくよ♪《ファイヤーストーム》!」


放たれた炎は渦を巻きながら、心臓の奥の壁一帯へ叩きつけられた。

熱風が吹き荒れる。

黒い管束が一斉に焼け、壁の表面を覆っていた膜がぶすぶすと音を立てて溶けていく。


炎の中で、管束が露わになった。


何本もの太い管が、絡みつきながら一本の塊みたいに束ねられている。

その奥に、小型悪魔の姿がはっきり見えた。

焼かれたせいで身体を引き、黄色い目をぎらりとこちらへ向ける。


「見えた!」


クロエが叫ぶ。


それで十分だった。


「行く!」


俺は床を蹴る。


《跳空のブーツ》が足裏で弾けた。

一気に加速し、黒い心臓の脈動を飛び越えるように跳ぶ。

空中で剣を引き抜き、そのまま管束の中心へ叩き込んだ。


ズバァッ!!


束ねられていた黒い管が一閃で裂ける。

弾けた液が飛び散り、焼けた管がばらばらにほどける。

その奥にいた小型悪魔が、初めて大きく悲鳴を上げた。


「ギッ――!」


悪魔は俺を避けるように奥の壁から剥がれ、黒い心臓の手前へ転がり出る。

管束から離れたせいで、身体の輪郭がはっきり見えた。


小さい。


人間の子どもほどの大きさしかない。

けれど、可愛げなんてものは一切なかった。

痩せ細った黒い体。

骨みたいに浮き出た肋骨。

折れそうなくらい細い角。

濁った黄色の目。

耳元まで裂けた口。


だが、痩せた胴に対して指と爪だけが異様に長く、口の裂け目の奥では細かい歯が何重にも並んでいた。


逃げる!


そう思った瞬間、その前へすっと白い影が立った。


ノエルだ。


「あーら。どこに行こうと思っているのかしら」


悪魔が立ち止まる。


逆側から、クロエも炎の残滓をまとったまま歩み寄った。


「よくも好き勝手してくれたわねー♪」


小型悪魔が、露骨に慌てた。

逃げ道を探すように首を振る。

だが、もう遅い。


ノエルがふふんと鼻を鳴らす。


「ふふん。いい身分だわ。でも、ここは真打に任せましょうか」


その声の後ろから、ふらつきながら二つの影が前へ出た。


にんともさん。

かんともさん。


まだ万全じゃない。

呼吸も荒い。

足元も危うい。

だが、その目にはちゃんと意志が戻っていた。


「かたじけない」


にんともさんが、短く頭を下げる。


「ありがとう」


かんともさんも低く言った。


そして二人は、悪魔を挟むように左右へ散った。


大盾を構える。


その動きに、さっきまでの苦しさはもうない。

まだ重そうではある。

けれど、これは本人たちの立ち方だ。


「いくわよ! かんとも!」


「いいわ! にんとも!」


二人が同時に床を蹴った。


「ツイン・シールドバッシュ!!」


左右から、大盾が同時に叩き込まれる。


小型悪魔が悲鳴を上げる間もなかった。


ぐしゃっ、と鈍い音が響く。

左右から挟まれた胴が一瞬で潰れる。

細い角が折れ、裂けた口が横へ伸び、黄色い目が飛び出しかける。

さらに勢いの乗った盾が、そのまま床へ押し潰した。


黒い液が派手に飛び散る。

小さな胴体が石床にめり込み、痩せた腕と長い爪が変な角度で折れた。


見ているだけで痛い。

いや、もう痛いとかそういう段階じゃない。


「うわ……」


思わず本音が漏れる。


表面的な動きだけ操ってくる相手で、本当によかった。

あれと、まともに戦うと思うと、ぞっとする。


悪魔はぴくぴくと痙攣したあと、最後にひきつるように震えた。

裂けた口から黒い霧が漏れる。

濁った黄色の目が、ふっと光を失う。


次の瞬間、小さな身体の輪郭が崩れた。

潰れた胴も、折れた角も、長い爪も、ほどけるように黒い霧へ変わっていく。

霧は床を這うように広がり、最後には黒い心臓へ吸い込まれる前に、空気に溶けるように消えた。


「あーー」


にんともさんが、息を吐くみたいに声を漏らす。


「すっきりした!」


かんともさんも同意するように肩を落とした。


その言葉を聞いて、俺もようやく少しだけ息を吐いた。


にんともさんとかんともさんを助けた。

六本腕の悪魔も倒した。

そして今、黒い心臓を動かしていた小型の悪魔も潰した。


これで終わり。


そう思いたかった。


だが――。


どくん。


黒い心臓が、今までで一番大きく脈打った。


床が沈む。


壁を走っていた黒い管が、一斉に膨らんだ。

天井から垂れていた細い管がぶちぶちと千切れ、黒い液が雨みたいに降り始める。

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