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第78話 侵食最深部――その背後にいるもの

通路を走るたび、足裏に返ってくる感触が変わっていった。


石床を蹴っているはずなのに、硬さが薄い。

靴底の下で、ぬめった膜がわずかにたわむ。

まるで生き物の腹の中を走っているみたいな、不快な粘りだけが足に残った。


壁もひどかった。


黒い筋が脈打ちながら、どろどろと流れている。

上から下へ落ちているようで、次の瞬間には下から上へ這い上がる。

向きは一つじゃない。

黒い内臓の中を逆流する体液を、そのまま壁一面に塗りたくったみたいな有様だった。


「うわ……ほんとに気持ち悪いって、これ」


クロエが顔をしかめる。


「見た目だけじゃなくて、空気そのものが悪いわね」


ノエルも周囲を睨んでいる。


フィーネは息を整えながら、それでも前だけを見ていた。


「……流れ、止まっていません……ずっと、奥へ……」


黒の本流は、まだ先へ続いている。


その濁流の向こうに、ようやく扉が見えた。


重い石扉。

本来なら、伊勢ダンジョン最奥のボス部屋を塞いでいたはずの入口。

にんともさんたちの配信が最後に映していた扉だ。


フィーネがその扉を見つめ、小さく言う。


「……黒の流れ、全部この部屋に吸い込まれています……」


吸い込まれている。


その表現が、一番しっくり来た。

流れ込んでいる、というより、向こう側で何かが喰っている。

そんな印象だった。



「みんな、中に入ろう。準備はいいか」


「オッケー!」


「……大丈夫です」


「まかせてっ♪」


三人の返事を聞いて、俺は扉の前に立つ。


ここまで来たら、もう躊躇っている暇はない。

にんともさんとかんともさんがこの先にいる。

助けるなら、入るしかない。


それでも、手を伸ばす瞬間だけは、ほんの少しだけ嫌な予感が強くなった。


黒い筋が扉の縁まで這い上がっている。

まるで、向こう側の何かがこちらを待っているみたいだった。


「……行くぞ」


扉に手をかける。


冷たいはずの石が、妙にぬるい。

押し込むと、ずん、と重い抵抗が返ってくる。

扉そのものが重いんじゃない。

向こう側から何かが張りついて、開くのを嫌がっているような感触だった。


俺は歯を食いしばって、さらに力を込める。


石が擦れる音はしない。

代わりに、ぶち、ぶち、と粘ついた音が耳に触れた。


嫌な音だ。


それでも止めない。


扉がわずかに動く。

黒い筋が、引き剥がされるように千切れる。


その隙間へ、俺は身体を滑り込ませた。



中に入った瞬間、空気がさらに重くなった。


濃い。

圧がある。

まるで水の中に踏み込んだみたいに、呼吸一つするだけで胸の奥に何かが貼りつく。


部屋は広かった。


本来のボス部屋の形は、もうほとんど残っていない。

壁一面に黒い液体が走り、ゆっくりとうねっている。

呼吸しているみたいに膨らみ、縮み、脈を打つ。

天井からは黒い筋が垂れ下がり、その先端が床に触れるたび、じゅくりと小さな波紋が広がった。


床も完全な石じゃない。

ところどころ黒い膜に覆われ、その下で何かがもぞもぞ動いている。

部屋全体が、巨大な肺か、心臓か、あるいはもっと気味の悪い生き物の臓器みたいだった。


「ここ、ほんとにボス部屋?」


クロエが低く言う。


「ボス部屋だった場所、でしょうね」


ノエルの声にも余裕はない。


その時だった。


部屋の中央付近に立っていた六つの影が、一斉にこちらを向いた。


スケルトンだ。


だが、ただのスケルトンじゃない。

骨の隙間という隙間に、黒が詰まっている。

関節は妙に多く、腕の曲がる位置が人間と違う。

胸骨の奥で、黒い靄が小さく脈打っていた。


「あのスケルトンだ……!」


前に見た、侵食された異形スケルトン。

六体が、ほとんど同時にこちらへ駆け出してくる。


俺はスケルトンへ踏み込んだ。


「崩すから、ノエル。とどめを頼む!」


「了解! 《浄霊聖波・ターンアンデッド》!」


一体目を白い光が貫く。

黒が蒸発するように消え、骨がそのまま崩れ落ちた。


だが、止まらない。


残りの五体が一斉に距離を詰めてくる。

俺は横薙ぎで二体まとめて弾き飛ばし、そのまま踏み込んで三体目の膝を断つ。

クロエの闇が足元に絡みつき、フィーネが流れの薄い位置を読む。


「右、来ます……!」


「分かった!」


押し込まれる前に、俺は四体目の頭を叩き割るように斬り上げた。

骨と黒が散る。

だが、その場に落ちた破片がまた寄り集まりかける。


「ノエル!」


「ターンアンデッド!」


二体目が浄化される。

続けて三体目も、白い光に貫かれて完全に崩れた。


「まだ来る!」


ノエルが息を整える間もなく、残る三体が左右から迫る。

俺は前へ出て一体の胴を斬り裂き、クロエがもう一体の足を闇で止める。

フィーネが小さく叫ぶ。


「……左、集まります……!」


「そこか!」


床に散った骨が寄り始めた一点へ、俺は剣を叩き込んだ。


「ターンアンデッド!」


白い光が走る。

四体目、五体目がまとめて黒を失い、その場で沈黙する。


残った最後の一体が、半ば崩れたままなお腕を伸ばしてきた。

俺は踏み込み、首ごと断ち切る。


「ノエル、最後!」


「ターンアンデッド!」


白い光が貫いた瞬間、黒が蒸発するように消えた。

今度こそ六体のスケルトンは完全に崩れ、床に沈んだまま動かなくなる。



「ふう……」


ノエルが軽くため息をつく。


さすがに連続使用は消耗が大きいか。

肩で息をしているのが分かった。


「ノエル。大丈夫か?」


「ふふん! 天才天使には余裕よ!」


言い方はいつも通りだが、少し無理をしている。

それでも立て直せる範囲だ。


「でも、ここにいると思われるボスへの切り札は、ノエルの《ターンアンデッド》になると思う。ノエルを少し節約しようか」


「私を節約って何よ!?」


ノエルが抗議した、その直後だった。


奥から、気配がした。


さっきまでのスケルトンとは違う。

もっと重い。

もっと近くにいるだけで嫌な、濃い気配だ。


「……まだいる」


クロエがロッドを持ち直す。


部屋の奥の暗がりで、何かがゆっくり動いた。


一体。

そして、もう一体。


人の形に見える。

だが歩き方が変だ。

足を前に出しているのに、背中側から別の力で引かれているみたいに、ぎこちなく揺れている。


やがて、その姿が暗がりから出てきた。


「シンゴさん……」


かすれた声。


「ごめん。しくった……」


その姿を見た瞬間、背筋が凍った。


にんともさんと、かんともさんだった。


だが、普通じゃない。


二人とも、顔から腕、足に至るまで、黒い何かが這い回るように侵食している。

皮膚の下に墨を流し込まれたような筋が浮き、ところどころ表面まで滲み出ていた。

目はかろうじて本人たちのものに見える。

だが、その周囲まで黒く染まり、涙の代わりに黒い筋が頬を伝っている。


しかも――本当に異様なのは、その真後ろだった。


そこに“何か”がいた。


黒いコウモリのような顔。

口元は裂け、奥に細い牙が何列も並んでいる。

首は長く、頭だけが前へ突き出るように揺れていた。

胴体は痩せ細っているのに、そこから生えた手足だけが異様に長い。


腕は六本。


そのうち四本が、にんともさんとかんともさんの手足へ直接繋がっていた。


肩に食い込み、

肘の内側へ潜り込み、

膝裏に絡みつき、

足首の筋に黒い針みたいに刺さっている。


まるで二人を“操る”ための関節を、外から追加されたみたいだった。


残る二本の腕は、地面を這うように垂れている。

指は長く、節が多く、先端だけが刃物みたいに尖っていた。


そいつは二人の真後ろに半分隠れるように立ちながら、黒い膜を脈打たせている。


にんともさんとかんともさんが前へ出るたび、後ろの化け物の腕が遅れてぴくりと動く。


本人たちが歩いているんじゃない。


後ろの何かが、二人を前へ押し出している。


「……っ」


言葉が出なかった。


あまりにも鮮明で、あまりにも不穏で、あまりにも“助けるべき相手”の姿を壊しすぎていた。


ノエルが息を呑む。


「なに、あれ……」


クロエの声も、さっきまでよりずっと低い。


「最悪……」


フィーネだけが、目を逸らさずに見ていた。

だが、その指先は小さく震えている。


「……繋がっています……」

「……あれが、二人を……」


にんともさんが苦しそうに顔を上げる。


「逃げて、って言いたいけど……」


かんともさんも唇を震わせる。


「もう、それ……無理そう……」


その後ろで、黒いコウモリ顔の異形が、ゆっくりと口を開いた。


裂けた口の奥で、黒が脈打つ。


次の瞬間、その六本腕が一斉に持ち上がった。

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― 新着の感想 ―
こんばんは。 うわぁ…寄生型ですか。味方は盾にされるのは無論のこと、寄生してる奴にダメージ→されてる側にもダメージいきそうという、一番戦いたくないタイプですね。
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