第78話 侵食最深部――その背後にいるもの
通路を走るたび、足裏に返ってくる感触が変わっていった。
石床を蹴っているはずなのに、硬さが薄い。
靴底の下で、ぬめった膜がわずかにたわむ。
まるで生き物の腹の中を走っているみたいな、不快な粘りだけが足に残った。
壁もひどかった。
黒い筋が脈打ちながら、どろどろと流れている。
上から下へ落ちているようで、次の瞬間には下から上へ這い上がる。
向きは一つじゃない。
黒い内臓の中を逆流する体液を、そのまま壁一面に塗りたくったみたいな有様だった。
「うわ……ほんとに気持ち悪いって、これ」
クロエが顔をしかめる。
「見た目だけじゃなくて、空気そのものが悪いわね」
ノエルも周囲を睨んでいる。
フィーネは息を整えながら、それでも前だけを見ていた。
「……流れ、止まっていません……ずっと、奥へ……」
黒の本流は、まだ先へ続いている。
その濁流の向こうに、ようやく扉が見えた。
重い石扉。
本来なら、伊勢ダンジョン最奥のボス部屋を塞いでいたはずの入口。
にんともさんたちの配信が最後に映していた扉だ。
フィーネがその扉を見つめ、小さく言う。
「……黒の流れ、全部この部屋に吸い込まれています……」
吸い込まれている。
その表現が、一番しっくり来た。
流れ込んでいる、というより、向こう側で何かが喰っている。
そんな印象だった。
◆
「みんな、中に入ろう。準備はいいか」
「オッケー!」
「……大丈夫です」
「まかせてっ♪」
三人の返事を聞いて、俺は扉の前に立つ。
ここまで来たら、もう躊躇っている暇はない。
にんともさんとかんともさんがこの先にいる。
助けるなら、入るしかない。
それでも、手を伸ばす瞬間だけは、ほんの少しだけ嫌な予感が強くなった。
黒い筋が扉の縁まで這い上がっている。
まるで、向こう側の何かがこちらを待っているみたいだった。
「……行くぞ」
扉に手をかける。
冷たいはずの石が、妙にぬるい。
押し込むと、ずん、と重い抵抗が返ってくる。
扉そのものが重いんじゃない。
向こう側から何かが張りついて、開くのを嫌がっているような感触だった。
俺は歯を食いしばって、さらに力を込める。
石が擦れる音はしない。
代わりに、ぶち、ぶち、と粘ついた音が耳に触れた。
嫌な音だ。
それでも止めない。
扉がわずかに動く。
黒い筋が、引き剥がされるように千切れる。
その隙間へ、俺は身体を滑り込ませた。
◆
中に入った瞬間、空気がさらに重くなった。
濃い。
圧がある。
まるで水の中に踏み込んだみたいに、呼吸一つするだけで胸の奥に何かが貼りつく。
部屋は広かった。
本来のボス部屋の形は、もうほとんど残っていない。
壁一面に黒い液体が走り、ゆっくりとうねっている。
呼吸しているみたいに膨らみ、縮み、脈を打つ。
天井からは黒い筋が垂れ下がり、その先端が床に触れるたび、じゅくりと小さな波紋が広がった。
床も完全な石じゃない。
ところどころ黒い膜に覆われ、その下で何かがもぞもぞ動いている。
部屋全体が、巨大な肺か、心臓か、あるいはもっと気味の悪い生き物の臓器みたいだった。
「ここ、ほんとにボス部屋?」
クロエが低く言う。
「ボス部屋だった場所、でしょうね」
ノエルの声にも余裕はない。
その時だった。
部屋の中央付近に立っていた六つの影が、一斉にこちらを向いた。
スケルトンだ。
だが、ただのスケルトンじゃない。
骨の隙間という隙間に、黒が詰まっている。
関節は妙に多く、腕の曲がる位置が人間と違う。
胸骨の奥で、黒い靄が小さく脈打っていた。
「あのスケルトンだ……!」
前に見た、侵食された異形スケルトン。
六体が、ほとんど同時にこちらへ駆け出してくる。
俺はスケルトンへ踏み込んだ。
「崩すから、ノエル。とどめを頼む!」
「了解! 《浄霊聖波・ターンアンデッド》!」
一体目を白い光が貫く。
黒が蒸発するように消え、骨がそのまま崩れ落ちた。
だが、止まらない。
残りの五体が一斉に距離を詰めてくる。
俺は横薙ぎで二体まとめて弾き飛ばし、そのまま踏み込んで三体目の膝を断つ。
クロエの闇が足元に絡みつき、フィーネが流れの薄い位置を読む。
「右、来ます……!」
「分かった!」
押し込まれる前に、俺は四体目の頭を叩き割るように斬り上げた。
骨と黒が散る。
だが、その場に落ちた破片がまた寄り集まりかける。
「ノエル!」
「ターンアンデッド!」
二体目が浄化される。
続けて三体目も、白い光に貫かれて完全に崩れた。
「まだ来る!」
ノエルが息を整える間もなく、残る三体が左右から迫る。
俺は前へ出て一体の胴を斬り裂き、クロエがもう一体の足を闇で止める。
フィーネが小さく叫ぶ。
「……左、集まります……!」
「そこか!」
床に散った骨が寄り始めた一点へ、俺は剣を叩き込んだ。
「ターンアンデッド!」
白い光が走る。
四体目、五体目がまとめて黒を失い、その場で沈黙する。
残った最後の一体が、半ば崩れたままなお腕を伸ばしてきた。
俺は踏み込み、首ごと断ち切る。
「ノエル、最後!」
「ターンアンデッド!」
白い光が貫いた瞬間、黒が蒸発するように消えた。
今度こそ六体のスケルトンは完全に崩れ、床に沈んだまま動かなくなる。
◆
「ふう……」
ノエルが軽くため息をつく。
さすがに連続使用は消耗が大きいか。
肩で息をしているのが分かった。
「ノエル。大丈夫か?」
「ふふん! 天才天使には余裕よ!」
言い方はいつも通りだが、少し無理をしている。
それでも立て直せる範囲だ。
「でも、ここにいると思われるボスへの切り札は、ノエルの《ターンアンデッド》になると思う。ノエルを少し節約しようか」
「私を節約って何よ!?」
ノエルが抗議した、その直後だった。
奥から、気配がした。
さっきまでのスケルトンとは違う。
もっと重い。
もっと近くにいるだけで嫌な、濃い気配だ。
「……まだいる」
クロエがロッドを持ち直す。
部屋の奥の暗がりで、何かがゆっくり動いた。
一体。
そして、もう一体。
人の形に見える。
だが歩き方が変だ。
足を前に出しているのに、背中側から別の力で引かれているみたいに、ぎこちなく揺れている。
やがて、その姿が暗がりから出てきた。
「シンゴさん……」
かすれた声。
「ごめん。しくった……」
その姿を見た瞬間、背筋が凍った。
にんともさんと、かんともさんだった。
だが、普通じゃない。
二人とも、顔から腕、足に至るまで、黒い何かが這い回るように侵食している。
皮膚の下に墨を流し込まれたような筋が浮き、ところどころ表面まで滲み出ていた。
目はかろうじて本人たちのものに見える。
だが、その周囲まで黒く染まり、涙の代わりに黒い筋が頬を伝っている。
しかも――本当に異様なのは、その真後ろだった。
そこに“何か”がいた。
黒いコウモリのような顔。
口元は裂け、奥に細い牙が何列も並んでいる。
首は長く、頭だけが前へ突き出るように揺れていた。
胴体は痩せ細っているのに、そこから生えた手足だけが異様に長い。
腕は六本。
そのうち四本が、にんともさんとかんともさんの手足へ直接繋がっていた。
肩に食い込み、
肘の内側へ潜り込み、
膝裏に絡みつき、
足首の筋に黒い針みたいに刺さっている。
まるで二人を“操る”ための関節を、外から追加されたみたいだった。
残る二本の腕は、地面を這うように垂れている。
指は長く、節が多く、先端だけが刃物みたいに尖っていた。
そいつは二人の真後ろに半分隠れるように立ちながら、黒い膜を脈打たせている。
にんともさんとかんともさんが前へ出るたび、後ろの化け物の腕が遅れてぴくりと動く。
本人たちが歩いているんじゃない。
後ろの何かが、二人を前へ押し出している。
「……っ」
言葉が出なかった。
あまりにも鮮明で、あまりにも不穏で、あまりにも“助けるべき相手”の姿を壊しすぎていた。
ノエルが息を呑む。
「なに、あれ……」
クロエの声も、さっきまでよりずっと低い。
「最悪……」
フィーネだけが、目を逸らさずに見ていた。
だが、その指先は小さく震えている。
「……繋がっています……」
「……あれが、二人を……」
にんともさんが苦しそうに顔を上げる。
「逃げて、って言いたいけど……」
かんともさんも唇を震わせる。
「もう、それ……無理そう……」
その後ろで、黒いコウモリ顔の異形が、ゆっくりと口を開いた。
裂けた口の奥で、黒が脈打つ。
次の瞬間、その六本腕が一斉に持ち上がった。
【フォローで更新通知が届きます】
★評価・ハート・ブックマークで応援いただけると、めちゃくちゃ励みになります!




