第56話 黒い虫群――炎の乱入者
「俺が前に出る! ノエルは合図したら回復を、フィーネは爆発矢を構えて待機だ!」
意を決して、結界の外へ出る。
ノエルの《多層聖界・プリズムウォール》は頼もしい。
実際、あの虫の濁流を正面から受け止めてくれている。
ただ――試し撃ちの時点で分かっていた。
火炎放射を結界の内側からそのまま放つとまずい。
炎はまっすぐ抜けず、結界の壁面に沿って内側へ回り込む。
下手をすると、俺たち自身を焼くことになる。
だったら、やることは一つだ。
外に出るしかない。
「シンゴさん!」
ノエルが叫ぶのを背中で聞きながら、俺は結界から飛び出した。
瞬間、音が変わる。
ブブブブブブブ――ッ!!
羽音が、耳のすぐそばで炸裂した。
壁の向こうで聞いていた時とは比べものにならない。
空気そのものが震えて、頭蓋の内側まで揺らされる。
吐き気がした。
視界の端を黒が埋める。
虫だ。
黒い羽虫が、顔の横を、肩の脇を、首筋をかすめていく。
それだけで皮膚が総毛立った。
俺は躊躇わず、両手で抱えた灰色の火炎放射器のレバーを引いた。
ゴウッ!!
先端の短い筒口から、橙色の火が一直線に噴き出す。
白んだ芯を持った灼熱が、虫の群れへ槍みたいに突き刺さった。
最初の一帯が、まとめて焼けた。
翅も胴も区別がつかないほど、一瞬で火に呑まれる。
黒い塊のまま燃え上がり、群れごと崩れるように落ちていった。
焦げた油みたいな臭いが、熱風に乗って鼻を殴った。
最悪だ。
焼けた虫の臭いなんて、言葉にしたくもない。
生ごみと焦げた毛と古い排水溝をまとめて炙ったみたいな、吐き気のする臭いだった。
しかも音がひどい。
ジジジジッ――
パチ、パチッ。
ブブブ……ブッ。
燃えながら落ちていく羽虫の音と、まだ生きて羽を鳴らす音が混ざって、耳の奥をひっかく。
「痛っ、たたたたたっ!」
顔に張りついた羽虫が噛んできた。
小さい。
一体一体は、本当に小さい。
でも、数が異常だ。
頬。首。手の甲。耳の裏。
むき出しの場所を狙ったみたいに、容赦なく食いついてくる。
俺は火炎を放ちながら、空いた手で顔を叩いた。
バシッ! バシッ!
潰れる感触が気持ち悪い。
でも止まれない。
レバーを握り込んだまま、くるりと半回転する。
炎の帯が円を描き、周囲に押し寄せた虫をまとめて焼き払う。
焼け落ちる。
でも、そのすぐ後ろから次の群れがくる。
「くそっ……!」
前へ出て、焼く。
半歩下がって、また焼く。
虫の濁流に飲まれないよう、足を止めない。
それでも接近される。
数体。
いや、数十体だ。
肩に。腕に。頬に。
羽虫がへばりつき、細い口器で肉を噛む。
熱い。痒い。痛い。
一箇所なら耐えられる。
でも、それが同時に何十も来ると、普通に意識を持っていかれそうになる。
「シンゴさん! 大丈夫!?」
結界の向こうからノエルの声が飛ぶ。
「まだ大丈夫だ! でも合図したら回復を頼む!」
「オッケー! 無茶しないでよ!」
「フィーネ! あいつが近づいてきたら、即撃ってくれ!」
「……分かりました……!」
返事を聞きながら、俺はさらに前へ出た。
虫の大群は、ただ突っ込んでくるだけじゃない。
焼かれるのを嫌がるように散って、横から回り込んでくる。
火炎の死角へ潜ろうとしているのが分かった。
なら、足を止めるな。
左へ踏み込み、短く噴射。
右へ体を切って、もう一度。
顔に張りついた虫を手の甲で乱暴にこそぎ落とし、そのまま足元へ火を落とす。
床が赤く染まり、熱気が跳ね返る。
虫が焼けて落ちる。
黒い小粒が炭になって転がる。
でも、まだ多い。
さっきまで部屋を埋めていた黒い霧が、少し薄くなっただけだ。
「くっ……キリがない……!」
◆
少し離れた入口の陰。
扉の隙間から、その光景を覗いていた小さな影があった。
炎を噴きながら、一人で前へ出る男。
その背中側で、白い結界を維持する金髪の天使。
さらに後方で、弓を構えた銀髪のエルフが、目を細めて敵の本体を見ている。
「ふーん。自分が犠牲になっても、仲間を守るタイプなんだ」
その声は軽い。
でも、目はちゃんと戦場を見ていた。
男は苦戦していた。
黒い虫の濁流の中で、火炎を振り回しながら必死に立っている。
顔や腕に虫が取りつき、払っても払っても次が来る。
それでも、一歩も引かない。
「へえ……」
視線が、少し楽しそうに細まる。
「あんな目にあっても逃げないんだ」
火炎を撃つ。
立ち位置をずらす。
背後の仲間へ短く指示を飛ばす。
痛みで顔を歪めながらも、次に何をするかだけは止めない。
戦場の真ん中で、ちゃんと頭を回していた。
「しかも、ちゃんと仲間に指示も出せてる」
一人で突っ込んでいるように見えて、視線はちゃんと戦場全体を追っている。
後ろの二人が動きやすい位置を保ったまま、自分だけが前で虫を引き受けていた。
「悪くないかも!」
その影は口元を上げた。
「決めた!」
扉の陰からするりと身を滑らせる。
軽い。
音がしない。
黒い煙と羽音に覆われた部屋へ、その小さな影はためらいなく近づいていった。
◆
「くっ! キリがない!」
本当に、その通りだった。
焼ける。
でも尽きない。
虫の群れが少し薄くなったと思えば、すぐまた黒く濃くなる。
火炎の届かない高い位置で渦を巻き、俺の顔面めがけて降ってくるやつまでいる。
もう一回、横へ薙ぐ。
ゴウッ!!
火が走る。
虫が焼け落ちる。
その熱で、顔に張りついたやつも何匹か落ちた。
その時。
入口の近くから、女の声が響いた。
「まとめて焼くよ? ファイヤーストーム!」
次の瞬間、炎の渦が部屋全体へ広がった。
赤じゃない。
橙でもない。
もっと白く、もっと鋭い炎。
部屋の中央で一気に膨れ上がった火が、渦を巻きながら虫の群れを呑み込んでいく。
黒い濁流が、一瞬で赤い嵐の中に引きずり込まれた。
羽虫が逃げる間もなく燃え上がる。
翅がぱちぱちと弾け、胴が炭みたいに丸まり、黒い粒が雨のように落ちた。
ブブブブ――ッ!!
あれだけうるさかった羽音が、悲鳴みたいに途切れていく。
炎は止まらない。
渦を巻き、床を舐め、柱の影にまで潜り込み、部屋じゅうの虫をまとめて焼いていく。
まるでこの空間全体を、一度まるごと炉の中へ突っ込んだみたいだった。
ノエルたちは結界の中で無事だ。
俺は、少し熱かった。
いや、かなり熱い。
頬がひりつくし、前髪の先が軽く焦げた気がする。
でも、顔や手に取りついていた羽虫が焼け落ちていく方が、何倍もありがたかった。
肩から、腕から、黒い塊がぽろぽろ落ちる。
焼けた虫が床へ弾けるたび、ようやく皮膚が自分のものに戻ってくる感じがした。
「っ……はぁ……!」
息を吐く。
目の前で、虫の黒煙が一気に晴れていった。
もともと濁っていた空気が、熱で無理やり押し流される。
黒い煤と焦げた羽の粉が舞い上がり、そこへ赤い炎の残光がちらつく。
さっきまで、あれほど濃く部屋を埋めていた虫の群れが嘘みたいだった。
視界が開ける。
石柱が見える。
燭台が見える。
祭壇が見える。
そして――あの虫の王は、もうそこにいなかった。
逃げたのか。
消えたのか。
それとも最初から、ここに長く留まる気はなかったのか。
ただ一つ確かなのは、部屋の入口付近に、別の存在が立っていることだった。
小柄な少女。
炎の残り火を背に、平然とそこに立っている。
桃色がかった銀髪が、熱に揺れる。
その足元には、まだ黒い火の名残がちらついていた。
この場の誰でもない、四人目。
俺は火炎放射器を構えたまま、その少女を見た。
――さっきの炎は、こいつが撃った。
敵か。
味方か。
まだ分からない。
だが一つだけ、はっきりしている。
この少女は、ただの乱入者じゃない。
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