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第55話 四階最深部――蟲王、出現

奥の闇の中で、何かが立ち上がった。


部屋は静かだ。

石柱の影も、奥の壁も、火の入っていない燭台も、見た目は何ひとつ変わっていない。


でも、いる。


見えていないだけで、この空間には何かがいる。


俺は剣の柄を握ったまま、呼吸を浅く整える。

焦って動くのが一番まずい。

こういうときは、足音や視線じゃない。もっと曖昧で、もっと嫌なもの――空気の濁りみたいな気配を拾うしかない。


そして、すぐに分かった。


奥だ。


祭壇みたいに一段高くなった場所。

その前あたりに、苦い気配が沈んでいる。


空間そのものが、そこだけ重い。

暗がりが凝っている、みたいな感覚だった。


「奥! 祭壇前に何かいる!」


俺が声を飛ばす。


ノエルとフィーネは、もうとっくに気づいていたらしい。

二人とも、視線を祭壇へ固定していた。


次の瞬間だった。


祭壇の手前の床に、黒い染みみたいなものが滲んだ。


水たまり――に見えた。

だが、ただの液体じゃない。


どろりと濃い。

光を吸うような黒だ。

墨でも泥でもない。もっと粘ついていて、もっと生き物じみている。


その黒が、ぶくり、と膨れた。


ぶく、ぶくぶく――。


まるで底から煮え立っているみたいに、黒い水面が沸騰し始める。

気泡が弾けるたび、ぬめった音が部屋に響いた。


しかも、熱そうには見えない。

湯気も立たない。

ただ、黒だけが不自然に泡立っている。


水たまりは広がらない。

逆に、盛り上がる。


床を這う黒が、上へ、上へと積み上がっていく。


二十センチ。

五十センチ。

一メートル。


人の胴体みたいな高さに達したところで、それは急に輪郭を持ち始めた。


「なんだ!?」


思わず声が出る。


黒い塊は、ずるりと形を変えた。

肩らしきものが生まれ、細長い腕が伸び、頭部が持ち上がる。


二メートル近い高さに達したそれは、もう水たまりには見えなかった。


人型だ。


いや――人に似せただけの、別の何かだ。

しかも、その輪郭の時点で分かる。

あれは虫だ。

人の形をしているのに、立ち方も、腕の伸び方も、節のある不自然さも、全部が巨大な捕食昆虫を思わせる。


全身を覆うのは、黒曜石みたいな外殻。

光を受けても艶やかには光らず、鈍く、濁った緑を帯びている。


細身なのに、異様に長い手足。

立っているだけで不自然だ。

わずかに前傾した姿勢が、祈っているようにも、飛びかかる寸前にも見える。


胸部は重厚な甲冑みたいに厚く、腹は節のある殻に包まれている。

肩、前腕、膝にかけて、刃物を思わせる鋭い突起。

背中には、折り畳まれた漆黒の翅がマントみたいに張りついていた。


顔を見た瞬間、背筋が冷えた。


縦に細長い頭部。

王冠みたいに鋭く伸びた外殻。

そして左右に大きく張り出した、濁った複眼。


虫の顔だ。


しかも、ただの虫じゃない。

人の顔を、虫の理屈で無理やり作り直したみたいな、見てはいけない造形だった。


複眼の奥で、赤黒い光がぬるりと走る。


目が合った気がした。


その瞬間、胸の奥がざらついた。

本能が嫌がる。

理屈抜きで、近づいてはいけないと分かる顔だった。


あれと同類だ。


嫌な感じが一気に膨らむ。

浦安で戦った、あの四本腕の悪魔。

理屈を超えて“上の存在”だと分からされる、あの圧。

「本能が、逃げろと叫んだ。」


目の前のこいつも、同じだ。


虫の悪魔が、こちらを見た。


口元は閉じていた。

だが、その輪郭の奥で、何かが細かく震えている。

開いたら、人間みたいな口にはならない。

縦にも横にも裂ける、そんな確信があった。


「…………」


声がした。


いや、声というより羽音だ。


羽虫の大群をガラス瓶に閉じ込めて、それを無理やり人の言葉に押し広げたみたいな、不快な振動。

機械音声みたいに平坦なのに、奥で無数の翅が擦れ合っている。


聞いているだけで、耳の内側が痒くなるような声だった。


「ォマエ、たチ……」


ぞわり、と鳥肌が重なる。


「ヴェルグ、ヲ……喰い終えた、肉か……」


「巣に、返せ」


言葉の区切りが変だ。

噛んでいるんじゃない。

一語ごとに、虫が群れで喋っている感じだ。


「魔ハ……憶えてイる。

怒リも、腐リも、群レも……すべて巣ノ中に残る。

ォマエたチの肉ノ中で、孵してヤる」


「な……!?」


やはり悪魔だ。


しかも、四本腕の件を知っている。


虫の悪魔――いや、王だ。

立っているだけで分かる。

こいつはそこらの雑魚じゃない。


その悪魔が、ゆっくり右手を持ち上げた。


すると、その前の空間が黒く濁った。


空気の中に、墨を垂らしたみたいに闇が広がる。

丸い。

球体に近い。


だが、ただの闇じゃない。


中で何かがうごめいている。


小さい。

無数だ。


ざわざわと蠢く影が、球の内側を埋めていた。

羽音がする。

湿った擦過音も混じる。


見た瞬間に分かった。


虫だ。


小さな羽虫の群れが、黒い球の中でぎっしりと渦巻いている。


「ノエル! 結界だ!」


「任せて! 《多層聖界・プリズムウォール》!」


ノエルが両手を前へ出す。


白い紋様が床に走り、俺たちの前に幾重もの光の壁が立ち上がる。

透明に近いのに、輪郭だけが強く光る、何層もの結界。


それが完成した、ほぼ同時だった。


黒い球が弾けた。


バッ、と闇が開く。


中から飛び出したのは、羽虫の大群だった。


黒い。


いや、黒すぎる。


一匹一匹は指先ほどの大きさなのに、数が異様だった。

蠅とも、羽蟻とも、蛾とも違う。

どれとも断定できない、薄い翅と不快な胴を持った虫たちが、一つの濁流みたいに押し寄せてくる。


羽音が一気に膨れ上がる。


ブブブブブブブ――ッ!!


音だけで胃がひっくり返りそうになる。

黒い霧だ。

いや、霧よりひどい。

全部、生きている。


「うわっ……!」


虫の大群が結界にぶつかる。


ばちばちばち、と白い火花が散った。


結界の表面に群がった虫たちが、押しつけられたまま焼ける。

だが、次の群れがその上に重なる。

焼ける。

また重なる。


暗黒の濁流の中で、ノエルの結界だけが白く輝いていた。


真っ黒な羽虫の霧の中心に、光の球が浮いているみたいだった。


結界の外側を虫が埋める。

叩く。

擦る。

噛みつく。


ガリガリ、ジジジ、と嫌な音が混ざった。


「……っ、数が多すぎる……!」


ノエルが歯を食いしばる。


俺はリュックへ手を突っ込んだ。


さっそく、使うことになるとはな……。


浦安ダンジョンで嫌というほど思い知らされた。

俺たちには、小型の大群をまとめて攻撃する手段がない。


だから、あの翌日に津詰隊長へ連絡を入れた。

ダンジョン協会側の許可付きで扱える、対群体用の装備を手配してもらったのだ。


引き抜いたのは、太いホースが繋がった大型の金属器だった。


両手で抱えるくらいの灰色の本体。

前方には短く太い筒状の噴出口。

握りやすい前後二つのグリップ。

そして背中の容器から伸びる太いホースが、それに直結している。


消火器を何倍も凶悪にしたような見た目だ。

見間違えようがない。

あれは、“焼くための道具”だった。


コメント欄が一気に跳ねる。


『え、ちょっ』

『それ火炎放射器!?』

『火炎放射器きた!?』

『マジで!』


俺は両手で構え、グリップを握り直す。


噴出口の先で、かすかに赤い火が灯った。

小さく、鋭い、試し火みたいな炎。

その熱が手元まで伝わってくる。


虫の群れは、結界の向こうでなおも膨れ続けている。

黒い霧の奥では、あの悪魔が静かに立ったままだ。


王の顔で、こちらを見ている。


結界の向こうで、無数の羽音がさらに膨らむ。


次の瞬間――

俺は、引き金を引いた。

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