第52話 第二章開幕――“まだ終わっていなかった”
その日常は、長くは続かなかった。
浦安ダンジョン救出レイドから、一週間が経った。
あの夜は、三人でささやかな打ち上げをした。
ノエルには大吟醸『女神』。
フィーネには麦茶と、食後のバニラアイス。
俺はビール。
宅配で頼んだピザにパスタ、唐揚げ、シーザーサラダをテーブルに並べて、「全員生還」と何度も乾杯した。
ノエルは上機嫌で杯を傾け、フィーネは最初こそ遠慮していたが、バニラアイスをひと口食べたあたりで、ほんの少しだけ表情がやわらいだ。
その二人を見ながら、俺はようやく思った。
ああ、帰ってこられたんだな、と。
その後は、配信もしばらく休みにした。
あれだけの激戦だったんだ。
体の疲れはもちろん、頭の奥に残る張り詰めた感じが、なかなか抜けなかった。
だから今週は、意識して何もしないと決めた。
ダンジョンも、配信も、最低限の外出以外はなし。
そうして一週間。
ようやく、普通にリビングへ出てきて「コーヒーでも淹れるか」と思えるくらいには戻ってきた。
キッチンでマグカップを三つ並べながら、俺はリビングの方へ目をやる。
「ちょっと! こんなところにバナナ置くのはなしでしょう!」
「……ありです……ちゃんと道具ですから……」
テレビの前で、ノエルとフィーネがゲームをしていた。
レースゲームだ。
昨日、ノエルが「休んでるだけじゃもったいないわ。娯楽も必要よ、娯楽!」と言い出して始まった。
最初、フィーネはかなり警戒していた。
コントローラーを両手で持ったまま、
「……これ、押すと……どうなるんですか……?」
と、一つずつ確認していたし、カーブに合わせて体ごと右へ左へ傾いていた。
段差で少し跳ねただけでも、
「……ひゃっ」
と小さく声を上げるし、アイテムの箱を割った瞬間には、
「……なにか出ました……!」
と本気で驚いていた。
それを見たノエルは、
「んふふふっ! 大丈夫よフィーネ、いきなり爆発したりはしないわ!」
なんて笑っていたのだが――。
「……また、私が一位です……」
フィーネが小さく言った。
画面の中では、フィーネのカートが一位でゴールしている。
俺は思わず笑った。
「上手いな。フィーネ」
これで三連勝だ。
たぶん、走り方がいいんだろう。
無理に前へ出ようとしない。
でも危ないところでほとんどミスしない。
アイテムも、取った瞬間に投げるんじゃなくて、ちゃんと相手を見て使っている。
こういうタイプ、地味に強いんだよな。
「次は本気を出すわ!」
ノエルがコントローラーを握り直す。
「……三回とも、そう言ってました……」
フィーネが静かに返した。
俺は吹き出しそうになる。
ノエルは一瞬ぽかんとしてから、わっと声を上げた。
「それはいわないでほしいんですけど! 事実ですけど!」
フィーネは、自分がちょっと鋭いことを言った自覚がないらしく、少しだけ困った顔でこっちを見た。
「……すみません……?」
「謝るところじゃないわ! もう、次! 次こそ勝つ!」
やたら騒がしい天使である。
俺は三人分の飲み物を持って、リビングへ向かった。
俺とノエルはコーヒー。
フィーネにはココアを出す。
フィーネは両手でマグカップを受け取った。
「……ありがとうございます……」
「ああ」
受け取る仕草も、ソファに座る位置も、もうだいぶ自然だった。
少し前までのフィーネは、何をするにも遠慮していた。
座るのも、頼るのも、笑うのも、どこか一歩引いていた。
でも今は、リビングでノエルとゲームをしている。
勝っても大騒ぎはしないが、耳がほんの少しだけ緩んでいる。
ちゃんとこの家の空気の中にいる顔だ。
それがなんだか、少し嬉しかった。
◆
四戦目が始まって少しした頃だった。
ノエルが急に「あっ」と声を上げた。
さっきまでコントローラーを握って騒いでいたのに、急に背筋を伸ばす。
そのまま、耳元に手を当てた。
電話をしているように見える。
だが、スマホは持っていない。
「はい! ノエルです! はい! お疲れさまです! ……はい、はい! すいません!」
俺は目を瞬いた。
なんだなんだ。
急にどうした。
フィーネも、きょとんとしている。
ノエルはそのまま、妙にかしこまった口調で喋り続けた。
「はい、浦安の件ですね! はい! ……あー、それはですねー……はい!」
「はい、討伐支援の件も……はい」
「え、報告書……ですか。はい……はい……」
「地上で、ですか? ……はい、承知しました」
「はい……はい……失礼します!」
しばらくして、ノエルは盛大にため息をついた。
「はああああ……面倒くさいわあ……」
「今の、誰だ?」
「……誰と話してたんですか……?」
俺とフィーネが聞くと、ノエルはソファにぐでっと沈み込んだ。
「上司よ。天界の」
「上司って、あっちのか」
「そう。あっちの」
ノエルは天井を見たまま、だるそうに続ける。
「この間の四本腕の悪魔、魔皇爵ヴェルグ=ゼディアっていうらしいわ」
「名前あったのか……」
「あるのよ。あるから面倒なのよ。あの討伐支援と、ワイトを大量に殲滅した件について、ちゃんと報告を上げろですって」
ノエルは頬を膨らませた。
「しかもあの上司、淡々としてるのよ!」
「ネームドの悪魔を討伐した記録が上がってますが、報告書は提出しましたか? 討伐から三日以内に必要なのはご存じですよね?って感じなのよ!」
両手を使ってものまねまでしている。
だいぶ不満らしい。
「ちょっとは褒めてもよくない? よくない? 思わない?」
「まあ、そこは少しくらい労ってほしいな」
「でしょう!?」
ノエルが勢いよく身を乗り出す。
「しかもね、それで“徳が貯まった”から研修を受けろ、ですって」
「徳?」
「徳よ。善行ポイントみたいなもの。功績とか、誰を助けたとか、そういうのが貯まるの」
ノエルは心底嫌そうな顔をした。
「面倒くさいわー。褒美ならお酒にしてほしいわ」
徳を積むって、本当にあったんだ……。
なんだか昔話か宗教の話みたいだと思っていたものが、まさかリアルに制度として存在しているらしい。
フィーネも少し感心したように言った。
「……天界って、そういう仕組みなんですね……」
「そうなのよ。ほんっと面倒」
ノエルはそう言って、ソファの背にもたれた。
「で、研修ってことは、天界に行くのか?」
俺が聞くと、ノエルは嫌そうな顔のまま首を振った。
「本当はそう言われたのよ」
「でも私が全力で嫌がったら、“じゃあ地上勤務を継続したまま実地研修扱いにする”って話になったの」
「それ、嫌がって通るんだな……」
「そこは交渉力よ」
胸を張るノエル。
でも次の瞬間には、またぐったりした。
「面倒が減ったようで、増えた気しかしないわ」
どういうことかと聞く前に、ノエルは指を折りながら説明を始めた。
「まず、地上での支援活動は継続」
「功績、行動、判断を定期報告」
「善行として認定される行為を優先」
「必要なら同行者の記録も提出」
「同行者って……」
「つまりあんたたちのことよ」
そう言われて、俺は少しだけ嫌な予感がした。
つまり今後は、ノエルだけじゃない。
俺たちの行動そのものが、天界側の記録対象になる可能性があるってことだ。
「場合によっては追加課題も出るらしいわ。あーもう、絶対書類仕事多いやつじゃない」
ノエルが頭を抱える。
フィーネが小さく言った。
「……報告って、大変そうです……」
「大変よ。たぶん絶対大変。書式とか細かいのよ、ああいう人たち」
「……でも、ノエルさんが地上にいられるなら、その方がいいです……」
フィーネのその一言で、ノエルの肩の力が少し抜けた。
「まあ、それはそうね」
俺も同意だった。
正直、天界とやらへ行ってしばらく戻ってきません、みたいな展開はかなり困る。
ノエルが地上に残るなら、その分だけ話はまだマシだ。
だが同時に思う。
浦安の件は、もう終わったつもりでいた。
けれど、その結果がこうして天界側にまで波及している。
ノエルはコーヒーを一口飲んでから、今度は少しだけ真顔になった。
さっきまでのだるそうな顔とは違う。
こういう顔をするときのノエルは、たいてい本当に大事なことを言う。
「それでね。研修内容の一つに、地上異変の観測補助が入ってるの」
「異変の観測補助?」
「今回みたいな、悪魔性汚染とか、死霊系の異常発生とか、そういうの。私は浄化と結界担当だから、相性がいいらしいわ」
浦安の最深部が頭をよぎる。
黒い霧。
赤い筋。
ワイトの群れ。
あの四本腕。
ようやく遠ざかったはずの記憶が、少しだけ輪郭を取り戻す。
「上司の話だと、浦安みたいな件は一回で終わってほしい規模なんですって。でも――」
そこでノエルは、ほんの少し言いにくそうに言葉を切った。
「地上に、似た気配がまだ薄く残っている可能性があるらしいのよ」
リビングが静かになった。
ついさっきまで流れていたゲームの明るい音楽が、妙に場違いに聞こえる。
俺はゆっくり息を吐いた。
「それは、もう何か起きてるってことか?」
「そこまでは分からない、って。余波かもしれないし、観測違いかもしれないし、まだ断定はできないらしいわ」
「でも、何もないとも言い切れない」
「そういうこと」
フィーネがマグカップを両手で持ったまま、そっとうつむく。
耳が少しだけ下がる。
不安なときの反応だ。
でも、フィーネは小さく言った。
「……あの時の感じが、まだどこかに残っているなら……見つけたいです……」
「……そうだな。まだ何かあるなら、放ってはおけない」
俺は短く頷いた。
ノエルがむっとした顔でこっちを見る。
「ちょっと。二人とも、今すぐ深刻な空気に入るのやめて。まだ“かもしれない”段階なんだから」
「お前が言い出したんだろ」
「注意喚起よ、注意喚起。私はちゃんと伝えた。だから今日はここまで」
「切り替え早いな」
「切り替えないとやってられないの! しかも今ので集中切れたし、次こそ勝つ!」
「……さっきから、ずっとそう言ってます……」
フィーネが小さく言う。
ノエルが崩れ落ちた。
「だからそれ言わないでってば!」
思わず笑ってしまう。
こういうところが、ノエルのいいところなんだろう。
本当にまずいときは、こいつはふざけない。
でも、まだ笑っていていい段階なら、ちゃんとそうしてくれる。
平和だ。
少なくとも、見た目は。
――でも。
もし本当に、あの時の嫌な気配がまだどこかに薄く残っているのだとしたら。
終わったと思っていたものは、まだ終わっていないのかもしれない。
「だめ! だめ! だめ!」
ノエルの声で、意識が戻る。
振り向くと、画面の中でノエルがまた派手にコースアウトしていた。
「ちょっと! 今の見てた!? 後ろから当てられたの! 事故よ事故!」
「お前、さっきから毎回事故ってるな」
「違うの! 不運なの!」
ノエルの悲鳴がリビングに響く。
俺は吹き出した。
窓の外の夜景は変わらない。
部屋の中も、今はちゃんと温かい。
さっきまでの静かな引っかかりを胸の奥に残したまま、それでもリビングには笑い声があった。
浦安は終わった。
そう思っていた。
次の瞬間。
あの時と同じ“気配”が、確かに動いた。
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