EP 3
氷血公爵の顎クイと、過剰なソーシャルディスタンス
広場の大理石を瞬時に凍結させる、絶対零度の魔力。
ルナミス帝国北部を治める帝国最強の魔剣士にして、社交界では「人の心がない」と恐れられる男――『氷血公爵』ヴァルター・フォン・アーデルハイト。
「ひぃぃぃっ! い、氷血公爵……!? な、なぜ貴閣下がこのような所に……ッ!」
先ほどまで「国外追放だ!」と意気揚々にテンプレ断罪を繰り広げていた王太子は、ヴァルターの放つ極低温のプレッシャーを浴びて、情けなく尻餅をついた。
ヴァルターは王太子を一瞥すらしなかった。ただ無言のまま、冷たく鋭い青い瞳を向け、一歩、また一歩と、大理石の床を凍らせながら進み出る。
「ひっ、ひぃぃぃっ! お、覚えておれェェッ!」
王太子は、取り巻きの令嬢を置き去りにして、這うようにして広場から逃げ出していった。
乙女ゲーの『当て馬(ざまぁ対象)』の退場としては、あまりにもあっけない幕切れであった。
広場は静まり返り、冷たい沈黙が降りた。
ヴァルターは、床に座り込んでいた男爵令嬢エミリアの前に立ち止まった。
彼は、一切の感情を読み取らせない氷のような美貌から、静かにエミリアを見下ろしている。
(……来る。テンプレの『ヒーローによる救済イベント』だ)
野次馬の最前列で、九条湊はURデッキブラシを構えたまま、胡散臭そうに目を細めた。
ヴァルターは、黒革の手袋に包まれた右手をゆっくりと伸ばした。
そして、泣き濡れたエミリアの顎に指を添え、スッ……と上を向かせる。
乙女ゲー界隈において、何億回と擦られてきた伝説の奥義――『顎クイ』である。
「あっ……公爵、様……?」
エミリアの瞳が、至近距離に迫る絶世の美男子の顔に揺れる。
ヴァルターは何も言わない。ただ、その薄く形の良い唇を、エミリアの唇へとゆっくりと近づけていく。
言葉などいらない。傷ついたヒロインの心は、絶対的な権力者による公衆の面前での甘いキスによって癒やされ、ヒロインは彼に落ちる。それがこの街の、いや、月の女神カグヤが定めた『宇宙の真理』なのだ。
二人の唇が、あと数センチで重なり合う――。
「…………ちょっと待てやゴラァァァァッ!!」
スパーーーンッ!!
甘いロマンスの空間を、オカンの放つ『プラスチック製の布団叩き』の乾いた破裂音が木っ端微塵に粉砕した。
「なっ!?」
ヴァルターの動きがピタリと止まり、驚愕に目を見開く。
湊が、いつの間にか二人の間に割り込み、タローマン特売の布団叩きでヴァルターの腕をペチッと叩き落としたのだ。
「お前ら、白昼堂々、公衆の面前で何やってんだ! 発情期の犬猫じゃねェんだぞ! 公然わいせつ罪でルナミス警察に突き出すぞコラ!」
「き、貴様……私に向かって……っ」
「貴様じゃねェ! お前、公爵だろ? 帝国北部を治める領主なんだろ?」
湊は、布団叩きでヴァルターの胸ぐら……のあたりをビシビシと指差しながら、圧倒的な『説教モード』に入った。
「今日は平日だぞ! なんで領地をほっぽり出して、こんな王都の広場で女の顎クイなんかやってんだ! ハンコ(決裁)待ちの書類がデスクに山積みになってるはずだろ! 仕事しろ! 納税者の血税で飯食ってんなら、真っ当に労働(インフラ整備とか)に汗を流せ!」
「……っ!!」
『氷血公爵』の顔から、文字通り血の気が引いた。
彼がこれまで受けてきたのは「冷酷だ」「恐ろしい」といった畏怖の言葉ばかり。
『平日の昼間からサボってないで仕事しろ』という、痛烈すぎる『社会人としてのド正論』で殴られたのは、彼の二十八年の人生で初めての経験であった。
「す、すげぇ……。あの氷血公爵が、湊さんの言葉に完全に圧されてる……」
キャルルがウサギ耳を震わせて感嘆する。
「当然ですわ! 労働しない貴族なんて、ただの金食い虫ですの! 愛より先にまず経済を回しなさい!」
リーザも便乗してヤジを飛ばす。
「あ、あの……」
助け出された(?)形になったエミリアが、震える声で湊を見上げた。
彼女の目には、公爵のキスから守ってくれたという安堵よりも、「この人、本当に仕事の効率とコンプライアンスのことしか考えてない……! 前世の監査部の鬼部長より凄まじい!」という、畏敬の念が宿り始めていた。
「大丈夫ですか、エミリアさん?」
そこへ、キャルルが優しく駆け寄ってきた。
「転んだ時に、少し膝をすりむいてますね。今、治しますから……えいっ」
キャルルが手をかざすと、月兎族の治癒の力でエミリアの傷が一瞬にして塞がった。
「わぁ……ありがとうございます。あの、あなたは……?」
「私はポポロ村の村長、キャルルです! こんな硬くて滑る大理石の道で転んだら危ないですよ。はい、これ、お手製の人参柄ハンカチです。涙を拭いてくださいねっ♡」
キャルルが、天使のような笑顔でハンカチを差し出す。
エミリアも「なんて優しい女の子なの……」と、その温かさに心を開きかけた。
――ピキキキキキキッ!!
突如、広場の気温が再び急降下し、大理石の床から巨大な氷の棘が数本、突き出した。
「「きゃっ!?」」
キャルルとエミリアが咄嗟に身を引く。
見れば、氷血公爵ヴァルターが、かつてないほどの『ドス黒い殺気』を全身から放ちながら、キャルルを睨みつけていた。
「……気安く、彼女に触れるな」
ヴァルターの声は、地獄の底から響くように低く、冷酷だった。
「彼女は私のものだ。……どこの馬の骨とも知れん女が、彼女と親しげに口を利くことなど、万死に値する。……消えろ」
ゴゴゴゴゴゴ……!
ヴァルターの周囲に、恐るべき数の氷の剣が顕現する。
乙女ゲー界隈において「ヒロインに近づく者は、同性であろうと容赦しない」というのは、ヒーローの『異常な溺愛』を表現するための最強のスパイス(設定)である。
「ひぃっ!? な、なんで私が殺されそうになってるんですかっ!?」
キャルルが涙目で湊の背中に隠れる。
しかし。
その光景を見た湊の顔は、怒りというよりも、もはや『軽蔑』に満ちていた。
「…………お前、マジで言ってんのか?」
湊は、URデッキブラシを構え、氷の剣の群れを前にしても一歩も退かずにヴァルターの鼻先まで歩み寄った。
「女同士が、ハンコチ貸して世間話してるだけだぞ? それに嫉妬して殺気を放つ? 命を奪おうとする?」
「……私が彼女を守る。他の者の介在など不要だ」
「バカ野郎!!」
湊の怒声が、氷の魔法陣をビリビリと震わせた。
「それは『溺愛』じゃなくて、ただの『束縛』だ! 相手の人間関係を極端に制限して、自分にだけ依存させようとする……情緒不安定すぎんだろ! お前のやってることは、乙女のロマンでもなんでもねェ。ただの『重度のモラハラDV男』の典型的な兆候だ!!」
「な……っ!? でぃーぶい……!?」
「そうだ! ソーシャルディスタンスって言葉を知らねェのか! 少し話しただけで殺されるような男のそばにいたら、こいつ(エミリア)は一生友達も作れず、社会から孤立して生きていくしかなくなるだろ! お前はこいつを『鳥籠』に閉じ込めて、自分の所有欲を満たしたいだけだ!」
湊の、あまりにも痛烈な、そして現代社会の倫理観に照らし合わせた完璧な『モラハラ診断』。
『氷血』と恐れられた公爵は、物理的な攻撃を一切受けていないにもかかわらず、目に見えて動揺し、顕現させていた氷の剣がパラパラと砕け散ってしまった。
「はーいっ! 全世界のリスナーのみんなーっ!」
その頭上から、キュララが魔導カメラを構えて元気よく実況を被せてくる。
「ただいま、ムーンキャピタルが誇るイケメン公爵様が、湊さんに『ただの情緒不安定なモラハラDV男』として論破されておりますっ! コメント欄、大荒れでーす☆」
空中にホログラムで投影されたコメント欄が、滝のような勢いで流れていく。
『草』
『公爵様、ただのヤバいメンヘラ男じゃんww』
『女同士の会話に殺気はドン引きだわ……』
『湊オカンの正論ラッシュ気持ちよすぎww』
『氷血(笑)じゃなくて、ただのコミュ障なんじゃないの?』
『エミリア逃げてー!』
『仕事しろはグサッときた(社畜並感)』
「あ、あ、ああ……っ」
ヴァルターは、空中のコメント欄(デジタルタトゥーの刻印)を見て、ワナワナと震え出した。
彼の中の「冷酷でカッコいい公爵様」というメッキが、湊の圧倒的な現実主義と、ネット社会の暴力によって、ベリベリと剥がされていく。
「さぁ、立て、エミリア」
湊は、呆然としているエミリアに手を差し伸べた。
「こんな危ねェメンヘラ男の隣にいたら、精神を病むぞ。……ウチの村に来い。とりあえず、温かい飯(芋の煮っ転がし)でも食わせてやるから」
「えっ……あ、はい……っ!」
エミリアは、湊の手を取り、立ち上がった。
その瞳には、かつての上司(?)を信じてついていく新入社員のような、清々しい決意が宿っていた。
「ま、待て……! エミリア……ッ!」
ヴァルターが、悲痛な声を上げて手を伸ばす。
「ついてくるな! お前はまず、溜まってる決裁書類にハンコを押して、領地の排水機構の整備計画書を提出しろ!」
湊の容赦ない業務命令(お掃除)に、氷血公爵は完全に心をへし折られ、大理石の床に膝をつくしかなかった。
こうして、ムーンキャピタルが誇る『乙女ゲーの超人気シナリオ』は、開始わずか数十分で、オカン清掃員によって「業務改善」という名の完全崩壊へと導かれたのである。




