マヨイガ——③
——信じよう、この男を!
「すまん。ちょいションベンしてええか?」
「お前もかよ! 僕のシリアス返せよ!! 僕の感心を返せよ!!!」
「なに言うとんねん。えぇから静かにせぇや。いてまうぞボケ」
なんとガラの悪いことだろうか。
しかしおそらく関西弁を操るこの男にとってはこれが平常運転であり、僕への殺意やら悪意やらはないのだろう。関西弁……怖い……。
男はそう言うと、ベルトを緩め、ズボンをずらし、パツンパツンのボクサーブリーフからマンモスをのぞかせた。
——こいつ……デカい……。っていうか、ズボン下まで下げるのかよ! おしっこの飛沫がズボンにかかるだろう!
僕は違う意味で冷や汗が止まらなかった。
男は用を済ませてズボンを履くと僕の方を向き、先ほどの緊迫した雰囲気がまるで嘘のように穏やかな表情でニコリと微笑んだ。
——ついさっきまで『いてまうぞボケ』とか言ってた人が仏の顔をしている! これが放尿の持つ力か!
「オレの名前は高梨忠雄。よろしくな」
男の名は高梨というらしい。
高梨は僕にサッと手を差し出し、握手を求めてきた。
「しないよ」
「え? なんでや?」
「『なんでや?』じゃないよ。ションベンして手も洗ってないやつと握手なんてするわけないだろ」
「これやから東京モンは。まぁええわ、よろしくな」
「あぁ、よろしく」
高梨の汚い手に触りたくない僕は、そう短く返事をした。
何故だろう。『よろしくな』の一言を交わしただけなのに、僕は高梨に妙な親しみを覚えていた。
きっとそれは、これから2人でこの状況を乗り越えていく決意の表れなのだ。まだ自分の置かれた状況を把握しきれていないが、きっとこれからとてつもない壮絶な戦いが待っているに違いない。それを2人で協力して切り抜ける決意の表れなのだろう。
この時、僕は震えていた。
先ほどまでの身震いとは違う。
未だかつてない冒険への期待だ。
「ところで高梨、『連中』だとか『ヤラれる』だとか、いったいどういうことなんだ? ちゃんと教えてくれよ」
「せやな。これから2人で切り抜けるためには情報共有も必要や。ほな説明すんで。よう聞きや」
「あぁ、心の準備はできている」
「さっきも話したけど、『連中』って言うんはこの街の女どもや。えぇか、彼奴等は普通やない。常軌を逸しとる」
「普通じゃ……ない? 常軌を……逸してる?」
「あぁ、そうや。マトモやないっちゅうこっちゃ。彼奴等はある思想に囚われとる。ある種の呪いや」
「呪い……」
「せや。彼奴等、表向きは普通の人間のように振る舞っとるし、普通にしか見えへん。しゃーけど、その内側では悪魔のような感情が渦巻いとる。オレには分かる。今日、この日までオレが無傷で生き延びて来られたことが何よりの証拠や」
「大変……だったんだな……」
「あぁ。まぁ、なんとかな」
それがいったい何の証拠になるのかは全く分からないが、僕は高梨に共感した。
きっとこいつは、その経験を言葉にできないほど大変な思いをしてきたんだろう。そうに違いない。頭の中の情報が、身体に刻まれた記憶が、統合できないほどに壮絶な経験をしてきたのだ。
「で、具体的にはどうなんだよ、連中は」
「彼奴等……クッ……思い出すだけで……」
「む……無理しなくていい。今は思い出したくないこともあるんだろう。分かったよ。また話せる時に話してくれ」
「いや、いま話しとくわ。お前も、なんやよう分からん状態で振り回されんのは嫌やろ。それにオレらはもう、仲間やからな、相棒」
「高梨……」
僕は当年取って十七歳、いい歳をした青年だ。
それにもかかわらず、あろうことか僕の瞳は感動の涙で揺れていた。
極限状態における友情とはこうも美しいものなのか。僕はこの状況に感銘を受けていた。
「彼奴等はアホみたいに『高市総理! 高市総理!』って言いよんねん。中には『早苗ちゃん!』とか言うヤツまでおる。どうかしてんで、ホンマに」
「へ……?」
「ついこの間まで『民自党はダメだ』とか『民自党は終わりだ』とか抜かしよったくせに、高市さんが『初の女性総理!』の可能性ができたら、一気に掌返して民自党史上最高の議席数や。比例で議席余って野党にわけ与えるぐらいの人気ぶりやで。どうかしとるわ」
「へ……?」
「どう考えてもこれは呪いやで。つい先日までボロボロやった党が、なんの実績もなしに、なんやよう分からん……『女やから?』とかいう理由だけで普通あないな伸び方せーへんで! 街の女ども見てみぃ! どいつもこいつも『早苗教』みたいになりよってからに、政策の中身もなーんも分かっとらんドアホどもが! 分かってへんけど『高市さんだから大丈夫!』や言うてからに、何が大丈夫やねん! アホか!」
一瞬、時間が止まったかのように思えた。それは僕が思っていた返答とあまりに違い過ぎたからだ。
だが僕は凍りついた時間を無理やりに解凍し、高梨に向かって大声で吐き捨てた。
「アホはお前だ!!! なんだよそれ! この街で何かとんでもない怪奇現象が起きてるんじゃなかったのかよ!! そんなの、ただのお前の政治思想の話じゃないか!!!」
「なんやら藪からスティックに」
「藪からスティックってなんだよ! なんでそこだけルー大柴?!」
「ユーモアやがな」
「今時の若い読者に分かるかよ!」
「しゃーけど、お前もおかしい思うやろ?」
「あぁ、思うよ! お前がな!!」
「いやいやいや、オレはどうみても正常やで、むしろ正義や」
「どうみても異常だろ! イカれてるだろ!! 悪だろ!!! なんだよ……この街に起きてる怪奇現象から1人逃れたこの街の真実を知る唯一の男! みたいな現れかたしやがって! そういうふうにお前を解釈してしまった僕の厨二加減にもほとほと呆れるよ!」
「兄ちゃん……。自分に呆れてまうんはしゃーない。うん、しゃーないな。人間完璧な奴なんておらん。しゃーから全部忘れよ。全部忘れてオレと一緒に、民自党、潰そうぜ!」
「なんの話だよ! こんな新手の勧誘初めてだよ!! ていうかお前、最初どっから出てきたの? 急に『シュタッ』って現れたけど!!」
「あぁ。わい、あのマンションの二階に住んどんねん。なんやオモロそうな兄ちゃん現れたなぁ思って、ちょいからか……お友達になれたらなぁ……と……思って……」
「お前、あそこの住人だったのかよ! ベランダからジャンプしただけかよ! それにお前いま、『からかう』って言いかけたよな?」
「い、いえ……言ってまてん……」
「急に標準語使うんじゃないよ! しかも微妙にふざけてるし! あぁ、もう。時間を無駄にした。僕はもう帰るからな!」
「もう……帰るやって?」
高梨は追い詰められてるにも関わらず、妙に自信ありげに、そして不敵に微笑んだ。
「お、おい。なんだよ……」
「兄ちゃん、ホンマに帰れると思ってんのんか……?」
「お、おい。ははは、や、やめろよ。オーサカンジョークってやつだよな、笑えるぜ。ははは……じょ、冗談だよな? ま、まさか……」
「そっちは駅と逆方向でっせ」
「そんなことかよ! 紛らわしいんだよ! いいよ、ここからはスマホ使うから! なんだよ驚かせやがって!」
この関西人が胡散臭いクソ野郎なことは分かっていた。おそらく、高梨忠雄という名前も偽名だろう。そこまで分かっていた僕だったが、最後にこの関西人の見せた自信溢れる不敵な笑みで、ついつい次の展開を期待してしまったのだ。
これだけふざけたことを言っておいて、実はこの関西人がこの地域を支配する土地神か何かで、僕を逃れることのできない結界に引き摺り込んだ後だったとか……。そういう厨二臭い展開を期待してしまったのだ。
いい加減、家に帰ったらラノベの類を全て焼却しよう。少しは読解力が上がるかと期待して買い込んだラノベだが、どうやら僕のようなタイプにとっては悪影響しかないらしい。
しかしまぁ、とんだガラガラヘビに出会ってしまったものだ。
やはり、抜け道なんて使わない方がいい。
その後、どうなったかと言うと。
僕は大通りへ出て、なんの障害もなく目的地へ辿り着くことができた。当然、大通りには女性の姿も男性の姿もあり、街は至って普通であり、この街が女しかいないなんていうのは出鱈目話だったのだ。
後に分かったことなのだが、あの日、あの駅は女性活躍社会推進の一環で、女性社員だけで駅を運用する試みをしていたそうだ。しかし、それは逆に男女差別を助長するとの声が大きく、取りやめになったらしい。
あの関西人との出来事は彼女とのデートで話題となり、いいデートの肴になってくれた。デートはうんと盛り上がったのだが、彼女との会話の中で一つの大きな問題が発覚した。
それは、僕はこれまでも、彼女とは付き合っていると思っていたのだが、どうやらそれは僕の勘違いだったらしく、彼女にとって僕は仲のいい友達程度の存在だったみたいだ。
それは僕に『デートはお付き合いをしてからするものだ』という昭和チックな考えがあった為、『デートをするんだからもう付き合ってるんだよね』という勘違いが生まれてしまっていたことと、僕の方からハッキリと告白をしなかったことが原因だった。
とっても恥ずかしい勘違いに気づいてしまったこのタイミングで、まさか告白するなどできるわけもなく、結局今も『仲のいい友達』のままである。
だが少しは関係が前に進んだのだと信じたい。
そして今になってつくづく思うことがある。
もし、あのままノープランで挑んだデートで彼女につまらない思いをさせていたら、僕は彼氏候補から外されて、既に彼氏だと勘違いしていた僕は、それでも彼女を諦めきれず、彼女のストーカーになってしまうという、最悪の結末を迎えていたかもしれない。
そう思うと、高梨忠雄には感謝である。
今度、会うことがあったらラーメンでも奢ってやるとしよう。
勿論、彼に手を洗わせた後で。




