マヨイガ——②
シュタッ!
僕の隣に何かが舞い降りた。
そこには男が立っていた。
歳は僕より少し上、大学生ぐらいだろうか。髪は黒く艶のある短髪で、ひたいには鉢巻を巻いている。男の着るタンクトップは膨れ上がった胸筋にペタッと張り付き、広い背中に盛り上がった肩はこの男が只者でないことを物語っていた。
——この男、何者だ? いったいどこから現れた? 上には何もないはずだ。
ここはアパートとラーメン屋の間の路地。見上げても、日照権を無視して建てられたであろうアパートの、日の当たらないベランダがあるだけで、建物自体は4階建て以上の高さを誇っている。
その高さから突然、僕の真横に着地することなど神であっても不可能なはずだ。
男は僕を横目で確認すると、次のように言い放った。
「お前も無事やったか……」
「無事……?」
僕には男の言葉の意味が理解できなかった。
しかし男は困惑する僕のことなどお構いなしに話を続けた。
「ここの連中はイカれとる。まだお前が侵食れてへんでよかったわ」
「え……と……、なん……のことですか?」
「お前、ここにおるってことは、彼奴等から逃げてきたんとちゃうんか?」
男にとって僕の返答は予想外のものだったのであろう。
僕にとっても、この男の登場は予想外だ。
きっとまた立ちションのオッサンが出て来ると思ってたからだ。
——こっちはツッコミの準備までしていたというのに。それにしても『彼奴等』とはいったい誰のことだ?
僕は頭を捻らせた。
「あ! 立ちション親父のことだよな! いやぁ、あれには参ったよ。今はもう令和だっていうのに、今日日、立ちションって、ねぇ」
僕の脳は、男の言った『まだお前が侵食されてへんでよかった』という言葉を無かったことにし、無理やり『連中』という言葉を『立ちションのオッサン』だと思い込もうとしていた。
この男の言うことを真に受けてしまえば、僕の頭がおかしくなってしまいそうだったからだ。
僕が今、怪異でもなければ変なオッサンでもない、到底、現代科学では説明もできない怪奇現象か何かに巻き込まれていると認めざるを得なくなるからだ。
「立ちション親父? なんやそれ?」
「え……?」
まさかの返答に、僕は足が竦んだ。
「お、おい。冗談だろ? 知らないわけないよな? あんた、ここに詳しいんだろ? 僕なんて今日、初めてここを通ったのに、ほんの20分やそこらで2人も会ったんだぜ? 10分に1人のペースだ。ア、アレのことを言ってるんだよな? な?」
男は、僕の震える言葉に眉を顰めた。
それはまるで、僕の言っていることを何一つ理解できてないかのようであり、その感情は簡単に読み取れてしまう。
——なんて便利な表情なんだ。
僕はそんなズレた感心を抱くほど、心に余裕を持てずにいた。
「この街には女しかおらへん。お前の言う『立ちション親父』ってのがなんなんかは分からへんけどな、この街に入った男は、例外なくヤラれる。連中の餌食や」
「へ? お、女だけ? お、おい。ははははは、そんなはずないだろ? だ、だって、さっき駅を出た時も——」
「——ホンマに男はおったんか?」
「え……? あ、いや……、そりゃいるだろ。男ぐらい……」
「よーく思い出してみぃ。お前の乗ってた車両、気づいたら女性専用車両になってへんかったか? 電車を降りたら、やけにワンピースやスカートの人間が多いと感じへんかったか? よう思い出してみぃ。車掌さんは? 駅員さんは?」
「そ、そうだ……。僕はさっき、この駅は車掌も駅員も女で……珍しいって……、彼女にDMを送って……」
「せやろ? それが全てや。ここに来たやつは皆、気づかへんねん。まるでそれが当然のことであるかのように何も疑わへん。『駅やねんから男ぐらいおるやろ』『街やねんから男ぐらいおるやろ』っちゅうように、自分の見た景色の中に当然、男が混じってたと脳が勝手に補完する。そして知らぬ間に……ヤラれるんや」
「お、おい。ヤラれるってなんだよ! さ、さっきから説明が抽象的なんだよ! なぁ、教えてくれよ!」
「おい! あんま大きな声だしなや。彼奴等に気づかれたらゲームオーバーや。せっかく生き残ってんねん。ここで終わりたないやろ? ちょい静かにせぇ」
男の必死の説得で僕の脳は少し落ち着きを取り戻し、モノローグと地の文を綴る程度の余裕を得た。
——この男が誰なのかは分からない。この男自身が怪異である可能性も捨てきれない。この男の素性が明らかでない以上、その言葉を鵜呑みにするのはリスクだ。からかわれているだけかもしれないしな。
僕は冷静に状況を俯瞰した。
ここ数ヶ月で一番と言っていいほど頭を回した。その結果『やはり、この男を丸々信じるのは危険だ』という答えに行き着いた。
しかし、この男の眼差しは真剣そのものだった。
とても嘘をついている男の目ではない。
その男は路地の奥をまっすぐ睨みつけ、口元をギュッと結び、集中して状況を俯瞰している。その様子からは、僕より遥かに真剣にこの状況の打開策を考えていることが、よく伝わってくる。
信じよう、この男を!




