マヨイガ——①
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本作品では登場人物のモノロローグ(心の声)を、地の文の文頭に『——』をつけることで表現しています。また「セリフ」内の『——』は会話の割り込みを表現しております。
プロローグ マヨイガ——①
僕の名前は九条義男。義理の男と書いて義男だ。
なんて酷い名前だろう。字画数が良いというだけでつけられた名前である。
その日、僕は彼女との初デートに浮かれ、ずいぶん早く家を飛び出した。待ち合わせ時間よりも2時間早く着くためだ。
とはいえ、何か特別なデートプランを考えてきたわけでもなければ、今から何かを仕込むわけでもない。相性のいい二人が共に時間を過ごすのだ。下手に準備をしていって、ミスってテンパる方が男としてはダサいし、彼女をガッカリさせるだろう。
それに男性と女性では脳の構造が異なっている。男性の場合、合コンやデートで特別なことをしたがる傾向にあるが、女性の場合、いつものように過ごすことを好む傾向にある。つまりデートで特別なことをしようとすることは、男が『してあげた』という自分の欲求を満たす行為であり、女性が求めているものにコミットしていない時点でそれは男の独りよがり、単なるオナニーでしかないということを、僕はこの短い人生の中でよく理解している。
デートに何も準備をしていかないことこそが最大の戦略であり、成功の秘訣なのだ。今の僕にできることといえば、待ち合わせに絶対遅れないということだ。故に僕は2時間前に到着するよう家を飛び出したのだ。
電車に揺られること20分、車内アナウンスで目を覚ました僕は慌てて電車を飛び降りた。女性の駅員さんが僕の目の前を横ぎり、女性の車掌さんの発車を告げるアナウンスが流れた。駅のホームを歩く乗客も、なんだかいつもと違った様子だ。
それもそのはず。僕としたことが下車したのは目的地の一駅前、どうりで見慣れない風景なわけだ。もしや乗る電車を間違えたのではないかと肝を冷やしたこともあり、一駅違いだと分かった僕は、ホッと胸を撫で下ろした。
どうせデートの時間までは2時間もある。
僕は健康の為にも、目的地まで歩いて向かうことにした。
隣駅への道は簡単で、どんな方向音痴でも決して迷うことはない。線路沿いにひたすらまっすぐ行けば良いのだ。
とはいえ、自分ではまっすぐ歩いているつもりでも地図上では『くの字』に歩いている。故にこのエリアは近道しようものならば、たちまち道に迷ってしまう『迷いの森』なのだ。これも路線が折れ曲がっている影響だ。
普段はそんなことに気づきもしないし気にもしないが、今日は時間に余裕があった為、スマホの地図アプリを片手に散歩を満喫していた僕は、そのことに気づけたというわけだ。
こういう小さな発見が散歩の醍醐味である。
僕はこの時間を最大限に楽しもうとスマホの電源を切り、ポケットにしまい、あえて出発点と終着点を結んだ最短距離のルートで待ち合わせ場所を目指すことにした。
当然、それが最短ルートではないことぐらい分かっている。地図上で最短に見えるそのルートにまっすぐな道はなく、複雑に幾つものビルや建物が立ち並んでいる。線路沿いのまっすぐな道が斜めに走ってるせいもあり、方向感覚を失いやすい迷いの森だということも重々承知している。
僕は今からこのコンクリートジャングルを探検するわけだ。地図もコンパスも持たず。
それに目的地までは大した距離ではない。仮に道に迷ったとしても、いざとなればスマホもある。そして何より今の僕には時間がある。
このとき僕は、早起きは三文の徳という言葉の意味をうっすらと理解した。
僕はまず、保険会社と牛丼屋の間の路地へと入って行った。狭く薄暗い、なんともいい雰囲気の路地だ。今にもガラガラヘビなんかが出てきそうである。——そう思った時だった。
僕の視界の奥に突然、黒い影が現れた。
黒い影はビルの壁に向かい突っ立っていた。
——何故だ? 何故ビルの壁に向かい突っ立っているんだ? ここは単なる路地だ。壁には何もない。地元の人が抜け道に使うような『知る人ぞ知る』抜け道だ。何故、壁に向かって立っているんだ!
一人称視点で書いているのだから、わざわざダッシュ記号を使ってまでモノローグを書かなくてもいいのではないかというツッコミを恐れることなく、僕は心の中でそう呟いた。
僕が目を凝らしてその影を見てみると、そいつはこちらを振り向いて、少し俯くと、再び壁の方を向き直し、まっすぐ壁を見つめいた。
「立ちションかよ!!!」
そう、あろうことか黒い影は立ちションしている小汚いオッサンだったのだ。
昼間の薄暗い路地で奇妙な存在と言えば、流れ的にも普通は『怪異』を思い浮かべるだろうに。あろうことかそこにいたのは壁に向かい立ち小便をしている姿を見られ、少し頬を赤く染め、照れるように俯く小汚いオッサンだったのだ。
まぁ、小便をしている姿を見られて照れるオッサンなんて令和の時代にそうそうお目にかかれるものでもないし、怪異といえば怪異かも知れない。
僕はオッサンの小便の飛沫がかかると嫌なので、オッサンが用を済ませた後に先へ進むことにした。
実に数十秒、時間を無駄にした。
僕は怪異なオッサンが立ち去ったあと、地面に広がる黄色い水溜りを避けるようにして前に進んだ。
しばらく行くと路地は三手に分かれていた。
成人男性2人が並んで歩ける幅の路地が横たわり、成人男性1人がギリギリ歩けそうな狭い路地がVの字に展開している三叉路だ。
この横たわる広めの路地を行き、もう少し広い幅の路地を行くのも一つの手だが、狭いところほど入りたくなってしまうのは何故だろう。何故だろう。
このとき僕は、これまでさんざん馬鹿にしてきた『ことあるごとに狭いところに入っていく猫』や『何故か毎度の如く狭い隙間にハマって抜け出せなくなるC国人の子供』の気持ちを、ほんの少し理解した。
結論から言うと、この狭い路地は、ただただ狭いだけで何一つとして楽しいことはなく、左右の壁にへばりつく排気ガスで黒ずんだのであろう埃と地面から漂う異臭によるストレスしかなかった。
これほどまでに自分の選択を悔いたのは、人生初めてのことだった。
僕はなんとか少し広めの路地へ抜け出すと、左右に首を振り状況を確認した。
「あっ……」
嫌な声がした。
それは“そいつ”と目があった時だった。
誰とだって?
「いやぁ〜、どうも〜」
「また立ちションかよ!!!!!」
さっきとは違うオッサンが壁に向かって立ち小便をしていたのだ。
どうやらこの路地で、立ち小便をするオッサンは怪異でもなんでもなく、ごくごく普通にいる存在らしい。このとき僕には、『次に何が現れても眉一つ動かさないという、結構どうでもいい自信』が生まれていた。
僕は静かにオッサンとは真逆の方向に進み始めた。
もう尿溜まりを跨ぐのは嫌だったからだ。
僕は少し広めの路地を進むと左手の狭い路地へ入り、そこを抜け、広い路地を進み、また狭い路地へ入る。その繰り返しでクネクネと狭い岩の隙間を縫うように這う蛇のように、確実に目的地へと近づいていった。
そんなある時、僕が広めの路地を歩いていると——
シュタッ!
僕の隣に何かが舞い降りた。




