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言ってくれれば手伝ったのに、と夫は笑った。八年間、言い続けていたのに  作者: 九葉(くずは)


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第10話 法的に、隣にいてもいいですか

ルーカス・ヴェーバーという人間は、手紙でも「確認事項があります」から始める。


朝、事務所の扉の下に封筒が差し込まれていた。表書きはいつもの几帳面な筆跡。封蝋は使わず、糊付けだけ。――この人は封蝋を持っていないのか、あるいは封蝋を押す作業が苦手なのか。靴の縫い目はあれほど正確なのに。


封を開ける。


中身は便箋三枚。法律事務所の正式な書面用紙に、条項番号まで振ってある。


「第一条 本書面の目的」から始まっていた。


目を通す。一回目は、法律用語が多すぎて意味が取れなかった。


二回目。「相互利益に基づく恒久的な協力関係の構築」という表現が繰り返し出てくることに気づいた。「当事者双方の合意に基づき」「排他的かつ継続的な」「生活基盤の共有を前提とした」。


三回目。ようやく全体の構造が見えた。


第一条から第三条まで。各条に項が二つずつ。末尾に「附則」がついていて、「本書面の有効期限は無期限とする」と記されている。無期限。法律文書で無期限という表現を使うのは異例だ。通常、契約には期限がある。更新条項があるか、終了条件がある。無期限というのは、つまり――。


――これは、求婚の手紙だ。


便箋を持つ指が震えた。法律用語を一つずつ剥がしていくと、その下に隠れていたのは、世界で一番不器用な愛の告白だった。


「第三条第二項」に至っては、「甲は乙の隣に恒久的に所在することを希望する」と書いてある。注釈がついていて、「本条項における『隣』は物理的近接性および精神的親密性の双方を含む」と記されていた。


条項番号を振った求婚など、聞いたことがない。


眼鏡を外した。レンズが曇っていた。――いや、曇っているのではない。目の焦点が合わないだけだ。なぜ合わないのか。合理的な説明を試みて、失敗した。


◇◇◇


事務所が軌道に乗ったのは、開業二ヶ月目からだった。


ペーターの土地権利の件を解決したことが噂になったらしい。旧ヘルダーリン侯爵領だけでなく、隣領からも依頼が入るようになった。契約書の作成、相続の助言、商取引の紛争調停。机の上の羊皮紙が増えていくのは、侯爵家時代と変わらない。


変わったのは、すべての書類に私の名前が入っていることだ。


「クラーラ・ヴェルナー」。署名欄に自分の名前を書くたび、インクの匂いが少しだけ違う気がする。同じインクなのに。


依頼人たちは私を「先生」と呼ぶ。そのたびに背筋が伸びる。――というより、そのたびに少し狼狽える。八年間「奥様」と呼ばれ、その実態は名前のない事務員だった。「先生」という呼称には、私個人の能力への敬意が含まれている。その重みに、まだ慣れない。


先日、父から手紙が届いた。「看板の写しを送ってくれ」と書いてあった。曲がった文字の看板だが、父にとってはヴェルナー家の法学の系譜が続いた証なのだろう。祖父の判事章、父の蔵書、そして私の看板。


◇◇◇


旧ヘルダーリン侯爵領の噂は、商人たちの口伝えで断片的に届く。


王家の暫定管理官が派遣され、領地の会計は正常化に向かっているらしい。ヴァレンティンは侯爵の称号こそ残っているものの、実権はすべて剥奪された。社交界には出ているという。出て何をしているのかは知らない。


一度だけ、商人の一人がこう言った。


「侯爵閣下は、今でも『彼女が一言言ってくれれば』とおっしゃっているそうですよ」


八年間言い続けた言葉は、結局届かなかったのだ。でも、もう届かなくていい。あの言葉は、この事務所の看板に届いた。曲がった文字の、私の名前に。


リゼッテ嬢は実家に戻されたと聞いた。社交界への出入りを止められ、縁談もすべて流れたという。


それ以上は聞かなかった。知る必要のないことだ。


窓辺の鉢植えに水をやりながら、ふと手を止めた。水差しの水が鉢の縁からこぼれかけている。集中力が散漫だ。朝から三回目の便箋を読んで以来、ずっとこうだ。「恒久的な所在地」という法律用語が、頭の中で繰り返し反響している。


つまり――いや、つまりも何も、返事をしなければならない。


◇◇◇


午後。


ルーカスの事務所の扉を叩いた。三回。


「どうぞ」


中に入ると、ルーカスは机に向かって書類を広げていた。私を見た瞬間、ペンを持つ手が止まり、それから書類の角を折り始めた。――緊張している。


「お手紙、拝読しました」


「……はい」


「三回読みました」


ルーカスの目が泳いだ。頬がわずかに赤い。法典に手が伸びかけて、途中で止まった。


「法律用語を除去して要約すると」


私は便箋を取り出した。三枚の便箋に、私が赤インクで注釈を入れたもの。条項番号の横に、平易な言葉で翻訳を書き添えてある。


「第一条は、『あなたのことが好きです』。第二条は、『ずっと隣にいたい』。第三条第二項は――」


声が詰まった。


おかしい。法廷で証言したときは詰まらなかった。商人の前でも、監査官の前でも、言葉は正確に出てきた。なのに今、たった一文が喉につかえている。


「――正確に言えば、『結婚してください』、ですね」


ルーカスが立ち上がった。椅子が後ろに倒れそうになって、慌てて片手で押さえている。もう片方の手は、まだ法典に伸びかけたまま宙に浮いていた。


「ヴェルナー殿……いえ、クラーラ」


名前で呼ばれたのは、初めてだった。


「あなたの側が、私の恒久的な所在地でありたい。法的に言えば――」


言葉が途切れた。法律用語が出てこないのではなく、法律用語では足りないのだと、この人は気づいたのだろう。


ルーカスは深く息を吸った。


「法的に、隣にいてもいいですか」


静かな声だった。法廷証言のときとは違う、少し震えた声。


窓の外で荷馬車が通り過ぎる音がした。裏通りの石畳を車輪が噛む、あの規則的な音。


「法的に」


私は言った。声が少し掠れた。


「認めます」


◇◇◇


ルーカスの手が、私の手に触れた。


靴職人の息子の手だ。指の腹に、幼い頃に革を縫った跡がかすかに残っている。私の指にはペンだこと封蝋の跡。どちらも、仕事で作られた手だ。温かかった。法廷の石壁の冷たさとも、侯爵家の執務室の冷たさとも違う、ただ一つの手の温度だった。


事務所の窓から春の光が差し込んでいる。窓辺の鉢植えに、春告げ草の紫が咲いていた。


看板の文字は、まだ曲がっている。


でも、もう直さなくていい気がした。


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