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第70回 消えた舞子

何かがおかしい。

その日、講義と広研の用事で朝から出かけ、夕方アパートに戻った僕は、強烈な違和感を覚えた。


違和感の正体はすぐに分かった。


部屋のあちこちにあったはずのぬいぐるみがひとつ残らずなくなっている。

ぬいぐるみだけじゃない、小さな花の飾られた可愛い瓶も、買い物用の編みかごも、洗面所の歯ブラシも、玄関の赤い長靴と水玉模様の傘も、およそ舞子の匂いのするものは全て消え失せていた。


いつもならとっくにバイトから帰ってきて押し入れで本を読んでいるはずの舞子の姿も見えない。


トイレを開けると、ウサギちゃん柄のマットと蓋カバーは、落ち着いたグリーンの無地のものになっていた。

かろうじてふんわりと洗濯されたタオルと、ラベンダーの芳香剤はそのままだったが。


「舞子?」


ガタン。


押し入れの中から音がした。

続いてゴソゴソと動く音。


よかった、舞子は居るじゃないか。

急に休みになったのか、それとも体調でも悪くなったのか。


「舞子、いるの?開けるで」


そう言って僕は押し入れの扉を引いた。




────「にゃーん」


押し入れには、舞子ではなく大きなキジトラ猫がいた。

敷き詰められていたクッションも、隅に置かれたミニテーブルもない。

僕のクリップランプは、窓のカーテンレールに戻っていた。

カリカリの袋だけは残っている。


この大きなキジトラは、近所で何回か舞子が、カリカリをあげながら話しているのを見たことがある。

確か名前は…


「ゴローちゃん?」


「にゃーん」


やはりそうだ。 なんであのゴローちゃんがここに?

僕は混乱した。


一体どうしたっていうんだ?


昨日まで、舞子は普通にここにいたじゃないか。

毎日一緒に銭湯に行って、一緒にご飯を食べて、「崩御・新元号関連報道」「昭和史・皇室関連特番」ばかりになったテレビを観てたじゃないか。


「『へいせい』ってなんか音の引っ掛かりがなくて間抜けな響きだね」


って昨日まで一緒に笑ってたじゃないか。


もしかしたら気分的に模様替えしただけかもしれない。


いつ?


朝、僕が大学に出かけるときには部屋はいつもどおりだった。

模様替え?

じゃあ今まであったものはどこだ?

押し入れの巣までなくなって、舞子はこれからどこで寝るんだ?


でも、とりあえず今は、舞子が帰って来るまで待つしかない。

あ、その前にこの猫、ゴローちゃんをどうしたものか。

部屋でおしっこなんてされたらたまったもんじゃない。


「とりあえず、商店街のペットショップでも見に行くか。」


誰に言うわけでもなくそう呟く。

最近は、家の中で猫を飼うための猫用トイレなんてものがあるらしい。

箱に専用の吸水する砂を入れといたらそこで用を足すんだとか。


ペットショップが閉店する七時までに買いに行かなければならない。

とりあえず、舞子がいないかと鴨川デルタに向かう。

たまに一人でここで風景を見ているって言ってたし。

ゴローちゃんを抱っこして外に出る。

アパートの前で下ろすと、どっかに行ってしまうかと思ったゴローちゃんは、ずっと僕の後をついて来た。

ベンチに座り、押し入れから持ってきたカリカリをベンチの端っこに一掴み。


ゴローちゃんはシュタっとベンチに飛び乗り、音を立ててそれを食べ始めた。

日が落ちた一月の夕方はまだまだかなり寒い。


ゴローちゃんを眺めながらタバコを一本吸うと、抱き上げて商店街に向かった。


「ここで待っててな」


そう言ってアーケードの前でゴローちゃんを下ろし、コンクリートの上にカリカリをまた置く。

今度はすぐには食べず、クンクンと匂いを嗅いでから僕を見上げて、


「にゃーん」


と鳴いた。

もし買い物に行っている間にどこかへ行ってしまったら、それはそれで仕方がない。

猫用トイレの砂なんて、いつかまた使うこともあるだろう。


ペットショップの片隅に積まれていた「猫のトイレ砂」と書かれた紙袋を一つ、それから合いそうなプラスチックの箱を一つだけ選んでレジに向かった。


レジ袋をぶら下げて店を出ると、ゴローちゃんはまだそこにいた。

足元のカリカリは、きれいに無くなっている。


「ほな行こか」


声を掛けると、まるで言葉が分かるみたいに、とことこ後ろをついてくる。

完全に「カリカリくれる人」と認定されたらしい。


アパートの前でいったん抱き上げて部屋に戻る。

箱に砂をザーッと流し込み、部屋の隅に押し込むように置いてみた。


ゴローちゃんはしばらくそれを眺めていたが、やがて当たり前のような顔で箱に入って、シャッシャッと砂をかき始めた。


「…おお、ほんまに使うんか」


舞子の痕跡が消えた部屋で、

ラベンダーの芳香剤に混じって、猫砂の粉っぽい匂いと、ゴローちゃんの存在だけが、はっきりと残っていた。


◇    ◇    ◇    ◇


九時になっても、舞子は帰ってこなかった。

ゴローちゃんはコタツの中に潜り込んで寝てしまった。

「猫はこたつで丸くなる」なんて歌があるが、あれは嘘だ。

ゴローちゃんはこたつの中ではでろーんと伸びている。


あ、そうだ。

今夜は深夜シフトでバイトに入っているんだった。

気づいて大慌てで買い置きのどん兵衛をすすり込み、今日は車で北野白梅町に向かう。


────


朝までたっぷりと働き、もしかして帰ったら舞子がいるんじゃないかと期待して部屋のドアを開けたが、

そこにいるのはこたつ布団の裾の上で丸くなっているゴローちゃんだけだった。


今日はバイト明けにも関わらず一限から午前中いっぱい講義がある。

我ながらバカなシフトを入れてしまったものだ。


ほとんど何も頭に入っていない講義が午後に終わって、既にかなりフラフラではあったのだが、舞子のことが気になってもう一度鴨川デルタに行ってみた。


でももちろん舞子はいなかった。


ふと思いついて、僕は舞子のバイト先のホテルに行ってみようと思った。

が、モーニングなんかとっくに終わっている時間帯に、見知らぬ男が朝のバイトの女の子の情報を訊きにフロントに行ったって、怪しまれるだけだろうと思い直して、今日は近所で舞子が行きそうなところを探してみることにした。

ホテルには、明日のモーニングに客として行けばいい。

もしかしたら、例の仲の良いお姉さんのところにずっといて、明日は普通にモーニングセットを運んでいるかも知れない。


商店街の古本屋さん、花屋さん、スーパー。

住宅地に戻って、細かい路地や、猫が入り込みそうな家と家の間の細い隙間も見て回った。

鴨川デルタにももう一度、そこから糺の森を通り抜けて下鴨神社までも行ってみた。


いつの間にかあたりは暗くなり、そして舞子の姿は見えなかった。

昨日の夜から今朝までバイトをして、そのまま大学に行っていた僕はそろそろ限界で、おまけに朝も昼も何も食べていないことに気づいた。

でも今日は気分的に王将でもテンイチでもなかったので、松ヶ崎通まで出て、千成食堂で普段なら絶対に頼まない焼き魚定食を食べた。


「ハルくんがお肉じゃなくてお魚食べるなんて珍しいねー」


舞子の声が聞こえた気がしたが、そんなのはもちろん幻想だった。


ついでに横にある栄盛湯でお風呂も入っていこうかと思ったのだが、もしかしたらいつもの東山湯温泉に行けば舞子が居るかも知れない気がして、部屋に戻って着替えを取り、赤いタオルを首に巻いて小さな石鹸をカタカタ言わせながら歩いた。


お風呂から出て、店の前でタバコを二本吸ってみたけど、もちろん舞子は出てこなかった。

せっかく温まった体が冷えただけだ。


仕方ないから今日はもうさっさと寝てしまおう。

そして明日は朝六時に、舞子のバイト先のホテルのモーニングを食べに行こう。


そう思って僕は部屋に戻り布団に入る。

眠れないかと思ったけれど、体はクタクタに疲れていて、あっという間に眠りに落ちてしまった。


◇    ◇    ◇    ◇


「ニ゛ャー!」


耳元で怒っているかのようなゴローちゃんの声で目が覚めた。

時計を見ると朝の五時。


「ニ゛ャー!」


ゴローちゃんはまだ怒っている。

台所から皿を取ってきてカリカリを入れてあげると、飛びついてニャフニャフ言いながら食べ始めた。

お腹が空いていたのか。

カリカリの皿の横に、小さなボウル皿にお水も置いた。


トイレを見ると、ちゃんとそこでおしっこもうんちもしたようだ。

偉いもんだ。

で、これはどうしたらいいんだ?

あ、もしかして昨日ペットショップで砂売り場の横にぶら下がってた、隙間のあるプラスチックの小さなスコップはこのための物か。

それは今日買いに行くことにして、いまは取り敢えず台所にあるイズミヤのレジ袋を裏返して手を突っ込み、濡れて固まった砂とゴローちゃんのうんちをつまみ、袋をひっくり返して口を縛った。

これ用の小さなポリ袋も必要そうだ。


さて、今日は舞子のバイト先のホテルモーニングに、舞子の消息を訊きに行く。

さすがに501にヘインズに革ジャン、ビーンブーツというわけにはいかない。

余計な勘繰りを避けるには、まず“格好”だ。


僕はラルフローレンの淡いピンクのボタンダウンに、Jプレスの紺タイ。

上からクリケットベストをかぶり、ブルックスのチノに金釦ブレザー。

足元はリーガルのローファー。アーガイルのソックス、そしてサドルの切れ込みには一セント硬貨。

鏡に映った姿は、我ながら“きちんとした大学生”に見えた。


まだ暗い駐車場でエンジンをかけ、三条方面へ走る。

ホテルのエントランスはもう暖房の熱を外に漏らしていて、僕の場違い感を早くも刺激した。


車を停め、恐る恐るフロントへ。


「宿泊客でなくてもモーニングは利用できますか?」


黒服のスタッフは淡々と、「料金を払えばご利用いただけます」と答えた。


──舞子のバイト先は、想像以上だった。


白いクロスのテーブルがずらりと並び、静けさの中でスタッフがしなやかに動く。

厨房からは白衣のコックが的確に指示を飛ばし、場に無駄がない。

僕の働く喫茶店の“モーニング”とは、世界が違った。


「こちらメニューになります」


革張りのメニューが丁寧に置かれ、ページを開くと和食・洋食が贅沢に並ぶ。

卵料理だけでオムレツ、スクランブル、目玉焼き…と細かく選べる仕様。

飲み物もフレッシュジュースまで揃っている。


そして値段を見て、思わず小声で呟いた。


「モーニング……やんな……?」


学生には震える価格だった。


無難に洋食セットを選んだが、運ばれてきた料理はどれも“別物”だった。

コーンポタージュは濃厚で、サラダは瑞々しく、ソーセージは燻香が鼻を抜ける。

完璧なオムレツは、外側つるり、中はとろり。ナイフを入れるたび形を保ったまま崩れる。


パンもふわふわのロールに、香ばしいバゲット。

「お代わり自由ですので」と微笑むスタッフを見ながら、ふと思う。


──舞子は毎朝、こんな場所で働いていたんだ。


コーヒーを飲み、銀縁の灰皿にタバコの灰を落として深呼吸する。

そろそろ訊かないと。


「コーヒーのおかわりはいかがですか?」

巡回してきた女性スタッフに意を決して声をかけた。


「すみません、こちらのスタッフさんで、林舞子さんっていらっしゃいますか?前に利用した時にとても親切にしてくださって」


用意していた台詞をそのまま言う。


「林は、先週いっぱいで退職しておりますが」


……え?


思わず呼吸が止まった。

辞めた? そんな話、一度も聞いていない。


固まる僕を怪訝そうに見つめるスタッフに、なんとか続けた。


「あ……そうでしたか。もう一度お礼を伝えたかったのですが」


それだけ言って席を立ち、会計し、「ごちそうさまでした」と告げるのが精一杯だった。

エレベーターは音もなく降下し、放心したままの僕をロビーへ運んでいった。


そんなバカな。

じゃあ舞子はどこに行ったんだ?


「あ、実家」


僕はハンドルを握りながら思いついた。

大阪の泉州地域としか聞いていないけど、探しに行ってみるしかない。

駅前にニチイがあって、贈答品コーナーにゴーフルが置いてある街。

見つかるかどうかなんて分からないけど、いやむしろ見つからない可能性の方が高いけれど。


とりあえず今週は最後のゼミがあるから、動くのは週末だな──そう考えた時、ふと気づいた。

舞子がいなくなった昨日は、ちょうど一年前、彼女が僕の部屋に転がり込んできた日だ。

冬の夕方、アパートの前で、短パン姿で三角座りしていた舞子。

あの光景が胸の奥でじわっと熱を帯びる。


いつの間にか、舞子が居るのが当たり前になっていた日常が、突然消えてなくなるなんて夢にも思わなかった。

何としても見つけて連れて帰ってこよう。

そしてまた一緒にお好み焼きを食べるんだ。



日曜になるまでの日も、講義やバイトの合間に京都の街を探し回ったけど、やっぱり舞子はいなかった。


◇    ◇    ◇    ◇


次の日曜日、僕は車の後部座席をフルフラットにし、そこに固まる砂の入ったトイレと、カリカリと水とボウルを積み込んだ。

スリットの入ったスコップも買った。ポリ袋も用意した。


「にゃーん」


ゴローちゃんを連れてきて車に乗せる。

僕とゴローちゃんの、舞子捜索の日々が始まった。

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