第71回 君がいた場所
泉州ってどのあたりなんだろう?
旧国名・和泉國で、大阪の南部だということは知っている。
去年から車の「泉」ナンバーが「和泉」ナンバーに変わったというのも、二年くらい前から島を埋め立てて空港を作っているということも。
そうじゃなくて、舞子が「実家は大阪の泉州地域」と言っていた、それが僕にとっての「舞子の場所」のどのあたりかということだ。
しばし考えて、「泉大津」という名前を聞いたことがあるのを思い出した。
「へ~、大阪にも『大津』っていうのがあるんや、泉って和泉やんな?泉州の大津か。滋賀県の県庁所在地の出先か?」
と、そんなとぼけたことを考えたんだった。
「よし、まずは泉大津ってところに行ってみよう。」
舞子がいなくなった週の日曜日、僕はゴローちゃんを乗せたスプリンターカリブで出発した。
マップルの関西道路地図を助手席に広げる。
京都南から名神で吹田まで行き、新御堂筋を南下して御堂筋に入り、難波あたりから国道26号線をずーっと走ればたどり着けそうだ。
道路は、やはり予想どおり混んでいた。
新御堂筋の高架が終わり、御堂筋に吸い込まれる梅田の手前で、車の流れは一度深く息をつくみたいに滞り、赤いテールランプが長い列を作った。
進んでは止まり、また進んでは止まる。
ハンドルを握る手に、じわじわと焦りが滲んでくる。
難波までは、なんとか流れに乗れた。
けれど高島屋の前で、また動かなくなる。
街は驚くほど賑やかで、歩道を行き交う人の表情はどれも明るい。
僕だけが、この流れから一段取り残されているような気がした。
FM大阪のスピーカーから、フィル・コリンズ、ボビー・ブラウン、ジョージ・マイケル、スティーヴ・ウィンウッド、マイケル・ジャクソン……
軽やかな80年代のダンスミュージックが次々に流れてくる。
弾むリズムと、きらびやかなメロディ。
それは僕の胸の奥に溜まっていく焦燥感とは正反対で、浮かれた大阪の街並みを、まるでスクリーンの向こう側の世界みたいに切り取っていた。
──僕だけが、静かに取り残されていく。
そんな違和感を抱えたまま、車は少しずつ、ほんの少しずつ前へ進んでいった。
高速に乗るまでは落ち着きなく動き回っていたゴローちゃんも、今は後部座席に敷いたマジソンバッグの上で丸くなり、すっかり眠り込んでいる。
まるで僕のことを、カリカリをくれる、少し大きなこたつくらいにしか思っていないみたいだ。
その無関心さが、静かに僕の孤独を浮き彫りにした。
大国町、花園町、岸里。
聞き慣れない地名が次々と流れていく。
難波を抜け、国道26号に入ると、街の空気が少しずつ変わり、大阪の中心から遠ざかっていくのが分かった。
スーパー玉出の派手な看板を横目に見て、住吉大社を過ぎ、大和川を渡る。
堺の市街地では、青い「26」の標識がやたらと曲がり角を指し、方向感覚を鈍らせた。
やがて「高石市」という表示を越え、ようやく「泉大津」の文字が現れた。
「南海泉大津駅」の案内に従って曲がり、線路の高架に沿って駅周辺を探す。
けれど、舞子が言っていた「ニチイ」は見当たらない。
土地勘のないまま当てもなく走り続けた結果、気がつくと視界が開け、目の前に海が広がっていた。
海?
舞子は六甲山で海を珍しそうに眺めていた。じゃあここじゃないのかもしれない。
海と反対側に車を走らせると、再び26号線に出て「和泉市」という表示が目に入った。
路肩に車を寄せて地図を広げていると、眠っていたはずのゴローちゃんが起き出し、膝の上によじ登ってきた。
顔をぐっと近づけて、
「ニ゛ャー!」
と一声。
なんでこいつは、いつも要求だけはやたら強気なんだ。
苦笑しながら後部座席をフルフラットにし、ボウルにカリカリを入れる。
ゴローちゃんは「それでええねん」とでも言いたげな顔でさっさと戻り、いい音を立てて食べ始めた。
もう一度、地図に目を落とす。
この先の信号を左に折れれば、JRの線路があって、どうやら駅が近いらしい。
「よし」
小さくそう呟いて車を出す。
最初の信号を左折した、その瞬間だった。
──視界いっぱいに、巨大な建物が現れた。
『ニチイ』
屋上に突き出した赤い看板、四つ葉のクローバーを咥えた鳥のマーク。
あった。
探していた名前が、こんなにも堂々と目の前に立っていた。
車を立体駐車場に入れ、半ば駆け込むみたいに店内へ入った。
上の階から順番にエスカレーターを下り、売り場を目で追いながら歩く。
いない。
どこにも、舞子はいない。
考えてみれば当然だ。
この巨大なショッピングセンターの、無数の通路と人波の中で、
たった今、彼女とすれ違う確率なんて、ほとんどゼロに等しい。
それでも足は止まらなかった。
「もしかしたら」という根拠のない期待だけを握りしめて、
一階の食料品売り場まで降りて、通路を一つ一つ覗いていく。
やがて、「贈答品コーナー」という控えめな看板が目に入った。
吸い寄せられるように、その一角へ向かう。
──あった。
棚の上に、あの丸いゴーフルの缶が並んでいる。
確かに、舞子が言っていた通りの光景だった。
肝心の舞子は、どこにもいないのに。
それでも胸の奥に、妙な達成感が灯った。
ここが、舞子の記憶の中にあった場所なのだと、ようやく確かめられた気がした。
まるで、完成しないパズルのピースを一つだけ見つけたみたいな、
静かで、空っぽな安堵だった。
いや、これで満足している場合じゃない。
見つかっていないんだ。
僕は自分に言い聞かせるようにして、駅の方へ歩き出した。
ゴローちゃんは、さっきカリカリを食べたあと、また丸くなって眠っているはずだ。
車の中に残してきた静かな気配を思い浮かべながら、改札へ向かう。
改札口では、駅員さんがハサミをカチカチ鳴らしながら、切符を切り続けている。
その規則的な音が、やけに耳に残った。
僕は改札前の壁際、灰皿の横に立ち、タバコに火をつけた。
一本吸い終わっても動かず、また一本。
行き交う人の流れを、ただじっと目で追う。
顔、顔、顔。
知らない人ばかりだ。
その中に、あの丸い頬と大きな瞳を探してしまう自分がいる。
もちろん、舞子はいない。
喉がいがらっぽくなって、改札脇のKIOSKでサンガリアの甘いコーヒーを買った。
缶を握ったまま、また人の波を眺める。
気づけば、もう一時間半が過ぎていた。
それでも、舞子は現れなかった。
僕はようやく諦めて、駅の伝言板の前に立つ。
チョークを手に取ると、白い粉が指先についた。
それが、ここに残せる最後の痕跡のような気がして、
僕は一度、息を整えた。
「XYZ」
チョークで書いた三文字は、駅のざらついた板の上で、やけに白く浮いて見えた。
それはいつだったか、舞子が冷蔵庫に貼っていたメモに残していた文字と同じだ。
嵐電に揺られて嵐山へ行き、桂川のほとりに並んで座って、舞子の作ってきてくれたおむすびを食べた日。
ボートに乗って、わざと水をかけられて、ふたりでずぶ濡れになって。
タレントショップの前で、意味もなく写真を撮り合って、
一日中、理由もなく笑っていた。
あんなに騒がしかった時間が、
今はもう、どこにも見当たらない。
舞子は、どこへ行ってしまったんだろう。
この三文字に込められた意味も、
そして、舞子自身の行き先も、
今の僕には、まだ何ひとつ分からなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
結局その日、出町柳のアパートに戻るまでゴローちゃんはずっと後ろで丸くなって寝ていた。
「寝る子」でネコとはよく言ったもんだ。
今日も一人で銭湯に行って、
さて、晩ごはんはどうしようかと考える。
答えは、だいたいいつも同じだった。
舞子の不在を埋めるみたいに、
僕は、彼女と一緒に行った定食屋を巡るという、
少し滑稽で、少し痛々しい儀式を始めていた。
春のミニコミ誌のために、舞子と下調べと取材で歩き回った店。
幸い、正月にもらったお年玉はまだ残っているし、
舞子と通ったのは、どこも安くて、量が多くて、ちゃんと美味しい、
学生向けの定食屋ばかりだった。
アローンの大盛りオムライス。
今井の鯖。
だるまやの大盛り定食。
ハマムラの中華そばランチ。
大鵬のてりどんきんし地獄盛三丁目。
山本まんぼの、まんぼ焼き。
ひとりで入る店のカウンターは、
どこも少し広く感じた。
そんな店巡りの合間に、
「鴨川ルクセッション」のライブが決まり、また毎週のリハーサルが始まった。
OBチームは春の大会に向けて希望が丘での練習を再開し、
バイト先では卒業で辞めていくスタッフの穴埋めで、シフトが増えた。
舞子といたことで、
どこかで止まっていたはずの僕の日常は、
彼女がいなくなった途端、皮肉なほど勢いを増して動き出した。
騒々しくて、忙しくて、
なのに中身だけがぽっかりと空いたままの、
虚ろな熱量を抱えたまま。
そして、舞子がいなくなったのを嗅ぎつけたかのように、ユリカが部屋に押しかけてくる日も復活した。
押し入れを見て
「あれ~?舞子ちゃん出てっちゃったんだ?」
となぜか得意げだった彼女は、すぐに週に一度はやってきて泊まっていくようになった。
マサキのブリティッシュパブに行くと、既に出来上がった香織がいて、あっさりと円山公園の方へ拉致された夜もあった。
僕の周りの女性たちによる「乱痴気騒ぎ」が、舞子の不在という穴を埋めるように、以前の倍の速さで回転し始めた。
けれど、舞子が出ていく前に残していった生活の痕跡は、あまりにもはっきりしていた。
トイレだけじゃない。
キッチンマット、玄関マット、布巾干し、カトラリー立て、マグカップツリー、コースター、こたつカバー。
どれもが、舞子の手を通った場所だった。
舞子の「可愛い匂いのするもの」は、きれいさっぱり消えていた。
その代わりに残っていたのは、
色味を抑えた、無駄のない、静かで整いすぎた生活空間だった。
そこには、
「もう、困らないように」
「ひとりでも、ちゃんと暮らせるように」
そんな無言の気遣いが、隅々まで行き渡っていた。
舞子は、出ていく前に、
僕の生活をここまで快適に、ここまで完成させてしまったのだ。
そのことに気づいた瞬間、
胸の奥に、遅れて鈍い痛みが走った。
必要とされていないわけじゃない。
ただ、もう手をかけなくていいところまで、
彼女はきちんと整えてから、いなくなった。
それが何よりも、
舞子の不在をはっきりと、そして静かに突きつけてきて、
僕はもう一度、どうしようもなく切なくなった。
◇ ◇ ◇ ◇
舞子と行ったことのある京都の店は全部回った。
三条の等間隔カップルの河原も、円山公園も、清水寺も、琵琶湖でバーベキューをした第二渚公園も、海津大崎も、彦根のをかべも、谷瀬の吊り橋も、白浜の白良浜も、六甲山牧場も、全部行った。
舞子専用だった僕の車の助手席とフラットにした後部座席は、今やすっかりゴローちゃん専用になり、ベッド代わりのマジソンバッグとクッションまで備え付けられていた。
僕がトイレの箱を持ってドアを開けると、ゴローちゃんは飛び出して僕の前を走り、車の前で待つようになった。
僕の車と、僕の日常は、舞子を失った代わりにゴローちゃんを手に入れた。
舞子と行った場所を巡る旅は、虚しかった。当たり前だが、そのどこにも舞子は居なかった。
僕は絶望のフタコブラクダの尾の先で、突然背筋が凍るほどの衝撃とともに、ただ一つ、最も重要な場所を忘れていたことに気づいた。
───軽井沢の蕎麦屋。
舞子と初めて会った場所。
十六歳の誕生日から僕と出会って京都に来るまで、住み込みで働いていたと言っていた。
京都に来るときも、その店の人に車に乗せてきてもらったと。
出ていった舞子が行くならそこしかないじゃないか。どうして気づかなかったんだ。
京都の街は、冬の寒さから解放され、鴨川デルタの草木が薄く緑に染まり始めていた。
「よし、ゴローちゃん、信州行くぞ!」
「にゃー」
カレンダーは、もう三月になっていた。




