第68回 昭和64年
十二月二十七日を過ぎると、京都は一気に年の瀬の顔になる。
細い西洞院通や新町通を歩けば、「今日は破っていい」と言われて嬉しそうに障子紙をビリビリ破る子ども、その跡の桟をぬれ雑巾でていねいに拭き上げるおばあちゃん、横では、お父さんがノリを刷毛で塗り、新しい紙をピンと貼っている。
隣の家では、竹を立てて松飾をくくりつけている。
路地に漂う糊の匂い、木槌の音、子どもの笑い声。
年の瀬の慌ただしさと温かさが、街全体を包んでいた。
けれどその温かさの上に、薄い灰色の膜みたいなものが一枚かかっている気もした。
渋滞の烏丸通を埋める車のフロントには、しめ縄がぶら下がり、その真ん中に小さなみかんが鎮座している。
信号待ちで並ぶと、どの車もオレンジ色の実を付けていて、冬の街に果実がいっせいに実ったように見えた。
この前は人混みに怯んで引き返した錦市場だけど、やっぱり年を越すには行かないわけにはいかない。
あの雑踏に身を投じてこそ、「年末を迎えている」って実感がわいてくる。
ニシンの甘露煮にかまぼこ、お蕎麦に金時人参、雑煮大根に丸餅。
ひとつひとつ荷物が増えるたびに、白味噌の匂いや、正月の朝の食卓が頭に浮かんできた。
「舞子、明日の元旦は朝早くからバイトやんな?」
僕はお蕎麦のおつゆ用に濾した鰹節の香りに包まれながら訊いた。
「うん。三が日は毎日朝からバイト。年始の京都のホテルだもんね」
「そか。ほな、大晦日の夜から車で出かけて年越し初詣とかは無理やな」
「早く寝ないとね」
前々からその予定は聞いていたんだけれど、やはりちょっと残念だ。
春に前を通って、舞子が厳島神社と間違えた白髭神社にもう一度行きたかった。
「ハルくんも、明日は滋賀県の実家帰るんでしょ?」
「うん。夕方には帰ってくるけどな」
錦市場で買ってきた生蕎麦を湯気の立つ鍋に入れて茹で、丼に盛る。
その上にニシンの甘露煮を乗せ、金色に輝くおつゆを張る。
紅白のカマボコと刻んだ九条ネギを散らし、仕上げに包丁で薄く削り取った柚子の皮をひとひら。
「はい、年越し蕎麦。まだお昼やけどな」
「わ!ありがとう!美味しそう!」
舞子はそう言ってまずおつゆを一口飲み、お蕎麦を箸でつまんで口に運んだ。
僕は祇園で買ってきた原了郭の黒七味をぱっぱっと振りかけ、同じくまずおつゆを一口。
「「はぁぁ~!」」
二人同時に、ため息とも感嘆ともつかない声が思わず出た。
舞子はお箸でそっと甘露煮のニシンを崩し、蕎麦と一緒に口に運んだ。
「……んっ!お魚がふわっとしてるのに、甘辛い味がしみてて……お蕎麦と合うんだね」
目を丸くして小さく頷く姿に、僕は思わず笑ってしまう。
僕にとっては馴染みの味だけれど、舞子にとってはきっと新鮮なんだろう。
「せやろ? ニシンの脂と甘さが、おつゆに染み出しててな。これが年越しって感じなんよ」
舞子は次のひと口を待ちきれないように、今度は少し大きく蕎麦をすする。
柚子の香りがふわっと鼻に抜け、昆布と鰹の風味が後から追いかけてくる。
「はぁ……ほんと、しあわせ……」
舞子は頬をほころばせながら、湯気越しに僕を見た。
僕もまた、同じように蕎麦をすする。
ただの年越し蕎麦なのに、舞子と並んで食べるだけで、どこか特別なご馳走になっていた。
「ごちそうさま。美味しかった~」
ホクホク顔とはこういう顔を言うのだろう、という顔で舞子が箸を置く。
石油ストーブの上のヤカンがシュンシュンいっていた。
コーヒーを淹れよう。
テレビからは落語や演歌の番組が流れていたが、時折アナウンサーの低い声で「天皇陛下のご容体について」というニュースが割り込んでくる。
笑い声が途中で切られ、スタジオの空気まで少し低くなる。
笑いとしめやかさが交互に訪れる、奇妙な大晦日の午後だった。
窓の外から子どもの笑い声が聞こえた。
「さ、舞子。三時なったし、錢湯納め行こか」
「うん。帰りに商店街でアイス買って、食べながら散歩して帰ってこようよ」
「ええな。下鴨神社から鴨川デルタコースやな」
開店したばかりの錢湯では、大晦日もポールとジョンが出迎えてくれた。
一の汚れを、なんて大層なものじゃないけれど、僕は念入りに髪と体を洗い、ヒゲを剃った。
湯船に浸かると、ジョンが国境のない世界を想像してごらん?と歌いかけてきた。
ラブ・アンド・ピース。
湯気の向こうで、今年のいろんなことが少しずつほどけていく気がした。
ほとんど毎日一緒に来ているもんだから、舞子の出てくるタイミングもすっかり分かっていて、
小さな石鹸カタカタ鳴らしながら待つこともなくなった。
僕達はアイスを食べながら糺の森の参道を南に歩いた。
葵公園に入ると両側からだんだんと賀茂川と高野川が迫ってきて、三角州の天辺になる。
さすがにこの季節に川に入っている子供はいなかった。
僕たちはゆっくり歩いてアパートに戻った。
街のあちこちから、年越しの支度をする匂いがした。
お風呂上がりとはいえ、体が冷えている。
「さむ!さむ!」
そう言ってストーブの火を点け、こたつのスイッチを入れて潜り込む。
テレビを付けると、光GENJIが「パラダイス銀河」を歌っていた。
「この曲がレコード大賞ねえ…」
「円山公園の酔っぱらいのイメージしかなくなっちゃったよ、私」
どう考えても最優秀歌唱賞の島倉千代子の方が大賞に相応しかったが、まあ事務所の力とかテレビ局の都合とか色々あるのだろう。
コーヒーを温め直していると、また低い声のアナウンサーに画面が切り替わった。
昭和が終わるんだろうか?
ぐだぐだしている内に、窓の外はすっかり暗くなっていた。
「晩ごはんどうする?」
舞子が訊く。
「せやなあ…もう一回、今度はお店の年越し蕎麦食べに行こか?」
「いいねえ。京都の大晦日のお蕎麦!どこか良いとこありますかい、ニイさん?」
「まあ、アテはあると言えばある」
「じゃ、遅くなる前に行こう!」
今年、舞子と何度も自転車で通った川端通りを、大晦日にまた走る。
一年で何往復したんだろう?
来年は何往復するんだろう?
八坂さんの前を右折すると、祇園の街は人でごった返していた。
高瀬川のあたりで自転車を停めて阪急百貨店のあたりまで歩いてくると、人混みは一段と密度を増した。
人混みを避けて裏寺町に入り、新京極公園の方へ。
「ねえ、大晦日なのにこんな寂しい通りに、お蕎麦の名店があるの?」
舞子が不安そうに訊く。
「ほら、あそこ」
僕の指差す先には、ビルの半地下になったところに、毎度おなじみのあの看板、進入禁止の道路標識みたいな赤い丸に白の一文字のマークがあった。
「え!?お蕎麦屋さんって、これ、テンイチじゃん!?」
「いやな、今年最後にどうしても食べときたくて…」
「ハルくん、年越し蕎麦って」
「いや、ホラ!看板よく見て!『中華そば専門店』て書いてるやん!」
「確かに書いてるけど…ぷ」
舞子が吹き出した。
僕の勝ちだ。
中途半端な階段を降りてドアを開ける。
本店と違ってここはいつ来ても空いていて、割りと好きな店だ。
味もいいと思う。
「こんな小さなテンイチあるんだね」
「あ、舞子、床滑るから気ぃつけてな」
「滑るって…うわ!本当に滑る!」
「ヌルッヌルやねん、ここ」
窓際のテーブルに座ると、目の高さに道行く人の脚が見える。
「なんか変な感じするね、この位置」
舞子が笑う。
注文はいつもの、チャー定餃子ラーメン大盛りこってりニンニク抜き麺硬めネギ多め。
舞子もすっかり慣れた様子でこってり並を注文した。
「うんま!」
「な!?一年のシメにやっぱりこれいっとかなアカンやろ?」
「う~ん…『他にもあるやろ~』って気はしないでもないけど、これはこれでやっぱり美味しいね」
舞子の『他にもあるやろ~』は、さすが大阪泉州出身だけあって、東京モンの役者が喋るエセ関西弁とは違って、実にネイティブな発音とアクセントだ。
そういやどうして普段は大阪弁を喋らないのかまだ聞いてなかった。
まあいいけど。
来年の終わり頃には理解してるかも知れない。
「「ごちそうさま!」」
シメのテンイチ、すっかり満喫した。
時間は7時半。
「ほな、八坂さん行こか」
「八坂神社?何かあるの?」
「うん。大晦日は八坂さんでをけら火もらわんとな」
「おけら火?」
僕たちは四条通の人混みに揉まれながら、ゆっくりと八坂さんの方に歩いていった。
誰もがどこか浮き立っているのに、声の底には少しだけ遠慮がある。
その年の大晦日は、やっぱりいつもの大晦日とは違っていた。
八坂神社の大晦日には、京都らしい風物詩がある。
それが「をけら詣り」だ。
境内には大きな火が焚かれ、その火を「をけら火」と呼ぶ。
参拝した人々は縄の先についた芯に火を移し、それを消えないようにくるくると回しながら家に持ち帰る。
火を回すのは消さないためでもあり、厄を祓う意味もあるのだという。
家に帰ったら神棚の灯明や雑煮の火種にして、新しい年を清らかな火で迎えるのが古くからの習わしだ。
境内は人でごった返し、あちこちからざわざわと声が重なり合っていた。
参道の脇には屋台が並び、焼きそばや甘酒の匂いが冷たい空気の中に漂っている。
火に照らされた白い息が、みんなの頭上にもうもうと立ちのぼる。
暗闇に浮かぶをけら火のオレンジ色の輪が、四条通から境内へ、境内からまた町へと流れていく。
ゆらめく焔がくるくると回されるたび、火の粉がぱちりと散って、子どもが「わっ」と声を上げた。
ざわめきと、焔と、冷たい空気。
年が暮れていく瞬間を、まるごとその場に閉じ込めたような夜だった。
その火の向こうに、昭和という長い時間まで揺れているように見えた。
境内の奥へ進むと、吉兆縄を売る屋台がずらりと並んでいた。
縄の先には白い紙垂や、縁起物の小さな飾りが結びつけられていて、見ているだけでも新しい年を迎える気分が高まってくる。
「わ、これ買おうよ!」
舞子が目を輝かせて吉兆縄を指さした。
僕も一緒に並んで、一本を受け取る。縄の手触りはざらざらしていて、どこか温かい。
大きな火床に近づくと、炎の熱気が顔にじんと伝わってきた。
行列の人々が順番に縄の先を火にかざし、種火を移している。
舞子も両手で縄を大事そうに持ち、真剣な顔つきで火を移した。
「ついた!…ほら、ハルくん!」
ぱっと火が灯った瞬間、舞子は嬉しそうに僕に見せる。
揺れる橙の光が、彼女の頬を赤く染めていた。
「火が点いたら、縄をクルクル回して火が消えへんようにするねん。」
人混みのざわめき、屋台の匂い、焔のちらちらする明かり。
その中で舞子は、小さな火を抱え込むように持ち、クルクルと縄を回した。
その姿は、年の瀬のざわめきに混じって、ひときわ鮮やかに輝いて見えた。
「さ、ほなこの火ぃ消さんようにして、そろそろ帰ろか。明日早いし」
「そうだね」
舞子はそう言って、自転車を置いた高瀬川のあたりまで嬉しそうに縄をクルクルと回して歩いた。
「これ、考えてみたら戦国時代の火縄銃持った鉄砲兵が行軍してるときとおんなじやな…」
「そうなの?」
「うん。ドラマとかではそこちゃんとやってるの見たことないけど、前に図書館で調べた時に、挿絵付きで書いてあった」
「へー。でもなんでそんな、火縄銃のことなんか調べてるの?」
「『知的好奇心』てやつやな」
笑いながら自転車の場所に着き、火縄、いや、吉兆縄を持って走り出す。
自転車で走っていると前から来る風で火はちゃんと燃え続けている。
たまに火種が弱まるから時々クルクルしながら出町柳へと走った。
結構途中で消えてしまう人も多いらしいけど、舞子と僕の火はアパートまで消えずに守りきれた。
「ほな舞子、明日早いからもう寝。その縄こっちもらうわ」
「その火、どうするの?」
「内緒。おやすみ」
「はーい」
そう言って舞子は歯を磨くと押し入れの巣に潜り込んだ。
僕は火が飛び散らないように、台所の流しの上で二本の縄をクルクルと回していた。
僕はコンロの上に火種の着いた吉兆縄を持っていった。
「ふー」と息を吹きかけて少し火を元気にしてからコンロの栓をひねると、「ボッ」という音がして火が付く。
役目を終えた火縄は灰皿に入れておいて、自然に火が消えたら台所の隅っこに貼って、火事よけのお守りにするのが習わしだ。
無駄にコンロの火が点いているのが気にはなるが、仕方がない。
をけら火から移した火で雑煮を炊く。
この火を、朝までではなくても、せめて舞子の雑煮まではつないでおきたかった。
昆布を洗って水を張った手鍋に入れ、その間に金時人参と雑煮大根を切っていく。
鍋を火にかけ、沸騰する寸前で火を止めて昆布を取り出し、再び弱火にしたらそこにどっさりの鰹節を掴んで入れる。
グラグラ沸かしてはいけない。
お出汁を別鍋に濾し入れたら、そこに人参と大根を投入。
柔らかくなった頃合いで火を止めて、白味噌を溶き入れる。
ちょっと甘いかな~?位がちょうどいい。
これで雑煮の準備は完成。
僕はコタツに入り、裏の白いチラシにマジックでメモを書いた。
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あけましておめでとう!
雑煮の用意あるから食べて。
一、鍋温める
二、冷蔵庫にあるお餅入れる
三、柔らかくなったら完成
四、最後にこの糸カツオ乗っけて食べる
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メモの上に糸カツオの袋を乗っけたら、僕も歯を磨いてもう寝ないと。
◇ ◇ ◇ ◇
元旦、起きるともう舞子はバイトに出かけて居なかった。
台所の水切り棚にお椀が伏せてある。
鍋を見ると、白いお汁が少し減っていた。
火をつないだ甲斐があった、と思った。
コタツの上に、舞子の字でメモが残っていた。
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あけましておめでとう
お雑煮美味しかった
ごちそうさま
行ってきます!
P.S.きなこどこ?
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思わず笑って、それから少しだけ黙った。
昭和64年の正月だった。




