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第67回 帰れない夜のチーズフォンデュ

「舞子、マズい。雪で高速通行止なってしもた。帰られへんわ」


僕はかなりの焦りとともに、舞子にそう告げたつもりだった。

が、慌てるかと思った舞子はニコニコしている。


「じゃ、泊まれるとこ探さないとね」


「あら?そんな感じなんや」


僕の声には焦りが混じっていたのに、

舞子は、まるでずっとこうなるのを知っていたみたいに微笑んだ。

僕はあまりにあっけらかんとした舞子の言葉に笑ってしまった。


「じゃあ、ご飯は後にして泊まれるとこ探そう。そしたらそこで食事もできるかもしれんし」


とりあえず、穂高温泉郷の方に行けば、泊まるところはありそうだ。

案内看板に従って車を西に向け、山道に入る手前で北に向かう。


「あ、ハルくん!ペンションがあるよ!」


温泉郷まで着くまでに、舞子が声を上げた。


道沿いに三角屋根の建物が、雪をこんもりと抱え込むようにして立っていた。

白い壁に焦げ茶色の木の梁がくっきり映えて、屋根には煉瓦の四角い煙突。

三角屋根の上で、煙突の煙が雪に溶けて淡く散っていく。

煙突のてっぺんにちょこんと乗った小さな金属の傘にも、真綿のような雪がふんわり積もっている。

大きな切り株がスライスされたような看板には「ペンション NO SIDE」と、手書き風の文字が可愛らしく描かれている。


窓からはオレンジ色の灯りがこぼれていて、外の白い雪景色の中でやけにあたたかそうに見えた。

入口の脇にはクリスマス用なのか、小さなモミの木に電飾が巻かれてチカチカ瞬いている。

駐車場にはルーフキャリアを着けた関東ナンバーの車が一台だけ停まっていた。

どうやらスキー客らしく、キャリアにはスキー板やストックが乗せられたままだ。


「NO SIDE?……ユーミンの曲みたいやな」


そう思いながら関東ナンバーの横に車を停め、玄関の扉を開けた。


「すみませーん!」


少しの間があり、奥から


「はーい」


と、クマみたいな大きなおっさんが出てきた。


「あのー、飛び込みで今夜泊まらせてもらえる部屋ありますか?」


「ありますよ!昨日までだったらクリスマスで満室でしたけど、今日は一組泊まってらっしゃるだけですから」


「良かった!助かります。お願いできますか?雪で高速止まっちゃって」


「はい大丈夫ですよ。急に降ってきましたもんね」


「じゃあ、ツインの部屋お願いします」


「あー、部屋はいくつも空いてるんですけど、実はツインの部屋が昨日からのバタバタでまだ片付けと掃除できてなくて、ダブルだったらすぐに入ってもらえますけどね」


「ダブルでいいです。お願いします」


舞子が、後ろからあっさり言った。


「え、いや……」


僕が振り返るより早く、舞子は平然とした顔で、


「大丈夫だよ?」


と笑った。


「わ。後ろにいらっしゃったんだ。じゃあ、ご案内します。あ、私オーナーの林と言います」


そう言ってクマみたいなオーナーは、僕たちを部屋に案内してくれた。

いや、僕はまだダブルで良いって返事してないんだけどな。


オーナーに案内された部屋に入ると、こぢんまりとした空間ながら、木の匂いがほんのり漂っていた。

白い壁紙に、梁の部分だけがむき出しの木で、さっき外から見た外観と同じチロル風の雰囲気だ。

窓の外は一面の雪景色で、ガラスにはうっすら水滴がついていて冷気が伝わってくる。


ダブルベッドは分厚い羽毛布団がかけられていて、掛け布団カバーは赤と緑のタータンチェック柄。

ベッドサイドには小さなスタンドランプがあり、柔らかい光で部屋を包んでいる。

壁には安曇野の山を撮ったモノクロ写真が飾られていて、ちょっとしたギャラリーのようでもあった。


角には丸い小さなテーブルと木の椅子が二脚。

その上にはポットとティーカップ、そしてティーバッグの紅茶とインスタントコーヒーの小袋。

まだほのかにストーブの熱気が残っているのか、部屋は思った以上に暖かい。


「わ~!すっごい素敵な部屋!小さい頃に読んだ絵本みたい!」


舞子はベッドに飛び乗ると、羽毛布団に顔を埋めて嬉しそうに声をあげた。

舞子がダイブした布団がふわりと沈み、胸の奥が一瞬だけドキッと跳ねた。


「ふかふかー!ここならぜったいあったかく眠れるよ!」


う~ん、ダブル……まあ、舞子とだったら別に問題ない、はずだ。

ベッドは広いし、舞子は小柄だし、僕が端に寄って寝ればいい。


「じゃあ、この部屋でお願いします」


「分かりました。じゃあ、後で宿帳持ってくるんで、書いてもらうようお願いします」


そうして僕たちは「ペンション NO SIDE」のダブルに泊まることになった。


「また夫婦みたいに同じ苗字書くの?」


舞子が大きな目を輝かせて無邪気に言った。

僕は小さく頷いて、オーナーが持ってきた宿帳の、僕の名前の隣に「中田舞子」と書いた。

こうして名前が並ぶと、本当に夫婦みたいだ。


「あ、あと、飛び込みですけど晩ごはんって…」


「ええ、大丈夫ですよ。ただ、昨日まで大忙しだったんで、ちょっと残り物料理みたいになりますけど」


まあ仕方がない。背に腹は代えられない。


「では、七時に一階の食堂にお越しください。お風呂は各部屋に、そちらの扉になります。」


そう言ってオーナーは部屋を出ていった。

後ろ姿が本当にクマみたいだ。


「ねーねーハルくん、こういうペンションの残り物って、どんなのだろうね?」


「う~ん…まさか本当に煮物の残りとか冷えたコロッケとかじゃないとは思うんやけど…正直分からへんわ」


「なんだか楽しみだね!」


舞子はいつもにも増して好奇心いっぱいの顔だ。


「ペンションだ~!雪の中のおとぎ話のペンション!大きなふかふかベッド!」


そう言ってまたベッドにダイブした。


────


「さ、そろそろ食堂行こか」


ニコニコと部屋の中を物色している舞子を促して食堂に向かう。

木の階段は使い込まれているけどしっかりと磨き上げられ、上からペンダントライトのオレンジ色が降りていた。


「こちらにどうぞ」


案内された席は、外が見える窓のそばだった。

食堂の灯りは、いくつかある壁の間接照明とテーブルの上のキャンドルだけで、しっとりと薄暗く、僕たちの他には社会人のカップル風の一組だけだった。

多分駐車場にあった関東ナンバーの車のスキー客だろう。

ナット・キング・コールの『ザ・クリスマス・ソング』が静かに流れている。


落ち着いた赤と緑のチェックのテーブルクロスの真ん中には、赤い琺瑯の取っ手付き鍋が華奢な金属のスタンドの上にセットされていた。

鍋はとろりとした白いもの、立ち上る香りからしておそらくは溶けたチーズで満たされている。

スタンドの下から、アルコールランプの青白い炎がユラユラと揺れていた。

二組の白い小皿と、柄の長い二股フォークが置かれている。

傍らの籐のバスケットには、一口大に切られた山盛りのパン。


「えー?なにこれ?なにこれ?」


舞子の目がキャンドルの光を反射して輝いている。


「お飲み物はどうしますか?」


シンプルな黒いコックエプロンをした女性、オーナーの奥さんだろうか、細身で上品な女性が、ドリンクメニューを広げて僕たちの前に置いてくれた。


「これ、今夜のメニューは何なのでしょう?」


僕は飲み物を選ぶためにそう訊いた。


「チーズフォンデュです」


「チーズフォンデュ!?本で見たことある!」


舞子が大きな目を更にまん丸にして言った。

僕も、それがどういうものかは小説で読んだことはあるが、実際に目の前に用意されたのは初めてだ。

イギリスからスイスにバカンスにやって来た元貴族の一家が食べている場面がその十九世紀末を舞台にした物語に描かれていて、

その優雅な様子と美味しそうな描写に、僕もいつかは食べてみたいと思っていた料理だ。


「え…?確かオーナーさんは『残り物料理』って…」


奥さんはにこやかに頷いて、鍋の方を指さした。


「冬のアルプスではね、なかなか新しいパンが焼けなくなるんです。秋にまとめて焼いたライ麦のパンを、乾かして固いまま置いておくんですよ」


舞子が目を丸くする。


「え?パンってそんなに固くなっちゃうんですか?」


奥さんは微笑んで頷いた。


「ええ、石みたいに。でもチーズに浸せばまた柔らかくなって、美味しく食べられるんです。だからフォンデュは“残り物”なのに、今ではこうしてお客さまに喜んでいただけるごちそうになりました」


舞子は嬉しそうにパンの山をのぞき込み、「へえ、なんか素敵」と小さくつぶやいた。


奥さんはにこやかに続けた。


「元々はパンだけだったんですが、今はソーセージや蒸した野菜なんかもチーズにつけて楽しむんですよ。この後に少しずつお持ちしますね」


舞子が「へえ~!」と目を輝かせる。


僕はドリンクのメニューを見ながらたずねた。


「これに飲み物を合わせるとしたら、何がいいでしょう?」


奥さんは一瞬考えてから、やさしく答えた。


「チーズフォンデュには白ワインがよく合います。もしアルコールが苦手でしたら、温かい紅茶やぶどうジュースでもおいしく召し上がれますよ」


「じゃあ、おすすめの白のグラスワインと…舞子はこの白ぶどうジュースでいい?」


「うん!」


「それでお願いします」


「はい。少々お待ちください」


奥さんがメニューブックを畳んで取り上げ、キッチンの方に歩いていった。


「ね、ハルくん!チーズフォンデュだって!」


「な!これはちょっと嬉しい予想外やな」


食堂は間接照明の穏やかなオレンジ色でほんのりと照らされ、テーブルではキャンドルが揺れ、ビング・クロスビーの低い声が、静かに流れている。

窓の外は、まだまだ降り続ける大粒の雪。

積もった雪が街灯を反射して、外の方が明るいくらいだ。


「帰れなくなって良かった…」


舞子が小さく呟いた。


────


初めて食べるチーズフォンデュは、最高に美味しかった。


パンはもちろんカチカチではなく、美味しいハードパンだった。

クラストはパリッと香ばしく、気泡の大きなクラムは柔らかい。


二股の長いフォークで刺して鍋に沈めると、香り高く溶けたチーズが絡み、口の中で渾然一体となる。

飲み込むのが惜しいくらいだった。


お任せで出してもらった白ワインとも、お互いに高め合っている。


チーズは、グリュイエール、エメンタール、ゴーダを削ってブレンドしていると奥さんが説明してくれた。

全部初めて聞く名前ばかりだ。

それらのチーズとコーンスターチ、そして白ワインを、ニンニクの切った面を塗りつけたフォンデュ鍋でトロトロと溶かすという。


パンだけでなく、出してくれた蒸し野菜(じゃがいも、にんじん、ブロッコリー、マッシュルーム)は、チーズにくぐらせると、野菜が急にごちそうになったような気がするし、三種類のソーセージも、どれも美味しかった。


「ソーセージはフランクフルト、キルバス、ブラートヴルストです」


奥さんが説明してくれたが、やはりこれもフランクフルト以外は初めて聞く名前だった。

キルバスは燻製の香りがたまらないし、ブラートヴルストは厚切りにスライスされていて、スパイスの香りが立ち、思わずビールが欲しくなる味わいだった。

それに唯一名前を知っているフランクフルトさえ、高速のパーキングで食べるあいつとは全然違う味わいで、スモークされた豚肉の深い味のするものだった。

間違ってもケチャップと、まかり間違っても和辛子なんかつけてはいけない。



舞子はさっきから


「わ!」「うわ!」「え?!」


という音しか出していない。

もちろん頬はパンパンだ。

ずーっとフォークを持ったままで、パンを刺してはチーズを絡めて口へ、ソーセージを刺してはチーズを絡めて口へ、じゃがいもを刺してはチーズを絡めて口へ、という無限ループを繰り返していた。


「残り物がこんなごちそうになるんだ……」


と舞子は呟いた。

その声は、雪に吸い込まれるみたいにやさしかった。



「どうですか?楽しんでもらってますか?」


クマ…いや、オーナーがやってきた。


「いやもう最高です!」


「こんなの初めて食べました!一生の思い出になります!」


舞子はもう、「一生の思い出!」と本気で信じている顔だった。


「あ、そう言えば」


僕は、気になっていたことを訊いてみた。


「このお宿の名前の『NO SIDE』って、ユーミンからですか?」


「いやいや、もちろんあの曲も好きだけど、私が昔ラグビーやってましてね」


「え!?ホンマですか!僕も高校時代ラグビー部で、今もたまにOBチームで練習とか試合とかやってるんです!」


「おー!それは嬉しいね!高校はどこで?」


「滋賀県のZ高校です」


「お。名門じゃないですか。確か去年、」


「はい、僕らのときはいっつも決勝戦で負けてたんですけど、後輩が花園行ってくれました。オーナーはいつごろやってたんですか?」


「私は、K学院K山から、同志社行って四年間やってました」


「えー!?ほな、僕なんかより遥かに名門から名門ですやん!ていうか、僕今同志社の三回です!」


「おーっと!なんと!更なる縁が!嬉しいなー」


オーナーの口調が一気に砕けてきた。

ラガーマン同士が会った時のパターンだ。


「今はもうやってないんですか?」


「四回生の時に膝やってしまってね。十字靭帯。もう走れないんだよ」


「あー、なるほど。僕は高校の時にスクラムで肋骨いわして、タックルで右肩外して、今年の秋にもキックオフのロケットタックル行ったら肩抜けて救急車ですわ」


「ハルくん、また怪我の話してる…活躍した話とかはないの?」


もちろん僕だって活躍したことはあるし、伏見工業との練習試合でトライしたことだってある。

──細川さんが代表で海外行ってて不在の時にだったけど。


でも、そんな話よりも、とりあえずどんな怪我をしたことがあるかの話になる。

これもまた、ラガーマンあるあるだ。


「ちょっと待ってて!」


オーナーはそう言ってキッチンの方に行き、すぐに戻ってきた。

片手にワインのボトルを持っている。


「これね、大学のチームの同期がカンタベリーに一年留学してて、その時のお土産にもらった記念ボトル」


「お宝ですやん!」


「今夜は、お客さんとの出会いに感謝してこれを開けよう!」


「え?ええんですかそんな大事なもの?」


「いいのいいの!こんな機会でもなけりゃ、ずーっと棚の飾りなんだから」


そう言ってオーナーはこなれた手つきでソムリエナイフをふるって、本当にそのお宝ワインのコルクを抜いてしまった。

そこからはもう、飲んではタックルが決まった話、飲んではオールブラックスの話、飲んでは毎年のルール改正の話、とラグビー談義で盛り上がった。


舞子を置いてけぼりにしている自覚は少しだけあったのに、止まらなかった。


確かボトルが空になったところまでは覚えているのだが、そこから先は記憶が飛んで、気がついたらベッドの上で朝を迎えていた。


舞子は笑って聞いていたけれど、その頬が少しだけ赤くなって、

まぶたがとろんと落ちていた。


「私、眠くなっちゃったから先に部屋戻ってシャワーして寝るね」


と部屋に戻ったのは覚えているのだが。


◇    ◇    ◇    ◇


「ん…眩し…」


舞子がカーテンを開けたのだろうか、窓の外の銀世界が今日は晴れ渡った朝の太陽を反射して、部屋中に白い光を満たしていた。


「あれ?」


確か、明け方くらいにトイレに行きたくなって起きた時には、舞子が僕の胸のあたりにぴったりくっついて寝ていた気がするのだが、

今は広いダブルベッドの上で僕は一人だった。

舞子を起こさないようにベッドをそっと抜け出してトイレに行って、またそっとベッドに入ると、舞子がくっついてきた覚えがうっすらとある。


というか、舞子はどこだ?


と、窓の外から舞子の「ほーら!」という声が遠くに聞こえた。

僕はいつの間にか脱ぎ散らかしていた501を履き、着て寝ていたヘインズの上から革ジャンを羽織って、部屋を出て、ペンションの前庭に出た。


部屋の中に差し込んでいたのとは比べ物にならないほどの真っ白な光が目を刺す。


「ほーら!」


舞子の声がする。

やっと慣れてきた目をそちらに向けると、数羽のスズメの姿と、その中心にシルエットになった舞子がいた。


「おはよう舞子。朝から何してんの?」


「あ、ハルくん起きた!おはよう!」


「スズメ集まってるけど、何してんの?」


「バイト先で貰ってきたパン、昨日食べるタイミングなかったから、スズメさんにあげてるの!」


そう言って舞子は、バンザイするみたいなポーズになって頭の上にパンくずを投げた。


一面の銀世界の中で、舞子のその笑顔が一番眩しかった。

雪の粒が舞子の髪に溶けて、小さな光になっては消えていった。

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