第62回 匂いの向こう側
「ね、ハルくん!私、商店街で買い物して帰るからそこでおろして。そしてハルくんは先に帰って、さっき教えてもらった鉄板を使えるようにするやつ、やっておいてね!」
賀茂大橋が近づいてくると、そう言って舞子は車を降りた。
ポニーテールがピョンピョンと跳ねていく。
鉄板を買った道具屋筋のお店の人の説明によると、鉄板は、要はダッチオーブンと同じような「儀式」を経ないと使えないらしい。
僕は舞子の司令通り先に部屋に戻って儀式を始めた。
まず、鉄板を洗剤を付けたスポンジでゴシゴシ洗う。
洗ったら泡を流し、水を張って火にかける。
沸騰したらお湯を捨て、今度は洗剤を付けずに金たわしでゴシゴシこする。
再びお湯を沸騰、次は空焼きをして野菜くずを炒め、それを捨ててまた金たわしから空焼き。
鉄板から煙が出始めたら油を塗って、更に火にかけて焼き付けたら完了だ。
「ただいまー!できてる?」
舞子が大きな白いビニール袋を持って帰ってきた。
「できてるで。いつでも使える」
舞子は買ってきた袋をぱっと広げ、手際よく野菜を洗い始めた。
「ありがとー。そしたらハルくんは、そっちでベースでも弾いてて。すぐに作るから」
僕はタバコを一本吸ってから、言われた通りベースを構えた。
そろそろ、豚肉とキャベツと生地が香ばしく焼ける匂いがしてくる頃だろう。
蒸し野菜の甘い匂いに変わり、「ジューッ!」とソースが焦げる音がして――あの、部屋いっぱいに満ちる幸せなお好み焼きの匂い。
…の、はずだった。
しかし、漂ってくる匂いも音も、僕の知っている流れとは違っていた。
というか、いつもの“最初の香り”がなかなか来ない。
しばらくして、ようやく熱したゴマ油の香りがふわりと広がった。
続いて、小麦粉の生地が焼ける香り。
そして、「ジューッ!」――だがそれは一瞬ではなく、グツグツ…と長く続く音へと変わっていく。
次に漂ってきたのは、肉、しいたけ、ニラ、醤油が一体になった、とんでもない旨さを予感させる香り。
最後にもう一度「ジューッ!」と強い音が響き、ゴマ油の香ばしさが一気に押し寄せた。
「……これ、お好み焼きちゃうな」
と、僕はようやく気付いた。
「できたよー、ハルくん。テーブルの上どけて!」
舞子がそう言って、この部屋にある一番大きな皿を持ってきた。
「はい、どうぞ!」
テーブルに置かれた皿の上にあるのは、お好み焼きではなく
「わー!!!餃子だー!!!」
「へへへ。ハルくん、いっつもラーメン屋で頼むし、王将もしょっちゅうだし、大好きでしょ、餃子?」
舞子が満面の笑みでそう言った。
「はい、小皿とお酢と醤油、そしてハルくんの大好きな辣油ね!」
ああ、君は女神か!
この部屋に舞い降りたジャパニーズ中華の女神か!
「いっただっきまーす!!!」
まず一個。
小皿のタレに、ちょん、と軽く浸す。
口に運んだ瞬間、
パリッ――と薄皮が小気味よく弾け、すぐにもっちりとした厚みが歯に返ってくる。
噛みしめた次の瞬間、
熱い肉汁がぶわっと広がった。
しいたけの旨味、ニラの香り、生姜の清涼感、そして豚肉の甘さが、
まるでひとつの生き物みたいに一斉に押し寄せてくる。
うまい。
……いや、とんでもなくうまい。
王将だの、テンイチだの、そんな比較が失礼になるくらい、舞子の餃子は、ひとつで完成を名乗れるレベルだった。
「うんま!!え、舞子、こんなすごい餃子作れるんや!」
「へへへ。ホテルの料理人の人にね、最近いろいろ教えてもらってるの。それ、にんにく使ってないから、いっぱい食べても明日大丈夫だよ」
「いやこれ、ほんま美味いわ! あ、舞子も食べようや」
「うん。でもまだ焼くから、最初のやつは全部食べていいよ」
「え?でも、いち、にぃ、さん、しぃ……三十個くらいあるで?」
「ううん。全部で皮、六十枚買ってきたから。まだ半分あるよ」
「……えー、ありがとう!!!」
気づけば、皿の上の餃子に箸が止まらない。
一つ食べれば、また次が欲しくなる。
皮の香ばしさと肉汁の甘みの余韻が、口の奥でずっと手招きしてくる。
舞子は次の餃子を焼きながら、時々こちらを振り返っては目を細めて笑っていた。
その笑顔が、胸の奥にじんわりと灯りをともす。
舞子は――僕に「美味しい」と言わせるために、今日一日を使ったんだ。
湯気がゆらゆらと立ちのぼる。
その中に、幸福の温度がまざっていた。
「もうすぐ焼けるよー。お皿に残ってるの、全部小皿に上げて、お皿こっちちょうだい」
いや、もうすでに何も残ってないが。
舞子に空の皿を渡すと、また次の餃子を三十個入れて持ってきてくれた。
「じゃあ、私も一緒に!あ、ハルくんもう三十個も食べてるし、私、そんなハルくんみたいには入らないから、余ったらラップして冷蔵庫入れて、明日またフライパンで温めて食べよう」
「分かったー」
そう言いながら二人で箸を伸ばす。
「あ。うんま。」
「やろ?」
「どうしてハルくんが自慢げなの?でもこれ、本当に美味しい!大成功!」
そう言って舞子は、ほっぺたをパンパンに膨らまし始めた。
僕もまだまだ食べる。
食べる。食べる。食べる。
「「ふわ~!ごちそうさま!」」
そう二人が言った時には、六十個の餃子はもう一個たりとも残っていなかった。
「全部食べちゃったねー」
「ホンマや。誰が明日の分やねん」
「おいしかった?」
「うん。最高!」
「良かった」
「でも舞子、お好み焼き鉄板で最初に焼くのが餃子で良かったん?」
「え?私お好み焼きなんて、一言も言ってないよ?」
舞子はそう言って笑う。
その声は軽やかだったのに、ほんの一瞬だけ、視線がすっと伏せられた気がした。
――ああ。
僕はまだ、何も分かっていない。
「ありがとう。舞子。」
結局、僕が舞子の誕生日を祝ってあげるつもりが、逆になってしまっていた。
本当にありがとう、舞子。
「お腹いっぱい」
舞子がそう言って、押し入れのクッションに転がった。
◇ ◇ ◇ ◇
舞子が「今日はお姉さんの家に泊まるね」と出ていった夜。
なんとなく足が向いて、マサキの店の扉を押した。
「おお~、出町柳のアラン・ドロン。噂は聞いたで?」
軽口を叩きながら、マサキはグラスを磨いている。
「まあ、初ステージやしな」
そう流す僕に、マサキは続けた。
「ユリカと香織ちゃんのキャットファイトな。ニシタツら、嬉しそうに話しとったわ」
僕は苦笑してごまかす。
「……せやけどな」
マサキは声の調子を少しだけ落とした。
「お前のあの乱痴気、舞子ちゃんも見てたらしいで。
親戚の子に見られるんは……そら、気まずいやろ」
その一言のあと、マサキは、冗談めかして軽く笑った。
――だが、僕の胸の内で、
氷のようなものが音を立てて沈んでいく。
「…舞子ちゃん、それ見て帰ったってよ」
カラン。
グラスの氷が、ひとつだけ転がった。




