第63回 笑顔の奥
「この辺な、京見峠いうて、夜なったら京都の夜景、めっちゃすごいねん。」
「へえ。この前連れてってくれた…将軍塚?だっけ?あそこより?」
「あっちはな、京都タワーとか街の灯りが近くにドーンって見えたやろ?」
「うん。すごくきれいだった」
「京見峠はな、もっとうしろの方から、街全体が、わーっと広がって見えるねん。『宝石を散りばめたように』って言い回しあるやろ?あれ、たぶんそのまんまや。」
「ふうん…」
「将軍塚みたいにちゃんとした展望台もなくて、ただの峠道やからな。車の中から夜景見る感じやねんけど、ライト消して外出たら、本気で何も見えへんで。自分の手も分からんくらい。」
「そんなに?」
「うん。『真っ暗』とかやのうて、『真の闇』ってこういうことか、ってなる。」
「すごいねー。そしたら、また夜に連れてってよ。」
「ええけど…舞子、大丈夫か?怖がりやん。」
「ハルくん一緒なら大丈夫だよ。」
いつもの調子で言って笑う舞子を、フロントガラス越しの光が柔らかく照らしていた。
ポニーテールの先が、カーブのたびにちょこんと揺れる。
峠を越えると、冷たい朝の空気が、窓ガラスを抜けて胸の奥まで入り込んでくるようだった。
東の山の端から射す光が、山肌の紅葉を一枚一枚すくい上げるみたいに照らし、谷底を流れる川を白くきらめかせる。
鷹峯から、細くて信じられないくらいクネクネした山道に入り、京見峠を越えて、京北町へ向かう周山街道を目指していた。
十一月も半ばを過ぎた、よく晴れた日曜日の朝だった。
◇ ◇ ◇ ◇
「美山の方にな、ええとこあんねん。ダムの近くで無料でバーベキューできて、紅葉もめっちゃきれいな場所。」
深夜シフトの休憩時間に、ヒロくんがコーヒーをすすりながら、ふとそう言った。
それが合図みたいになって、「秋のバーベキューやろうや!」と話が一気に盛り上がった。
翌日にはもう、夏の琵琶湖バーベキューと白浜旅行のメンバーで行こう、というところまでまとまっていた。
「もうハルヒトの元カノのお守りは嫌やからな。ていうか最近、『元』なんかどうかも怪しいし。」
タツヤは鼻で笑いながら、今回は高校生バイトのショウコちゃんを横に乗せていくと言う。
タカトモは、ついこの間、四十八回ローンで買ったミニクーパーでミナコと。
ヒロくんも、最近の様子からしてヨーコを乗せてくるのはほぼ確実だ。
ということは、僕の車には舞子とユリカ?
いやいやいやいや。
それだけは、どうしても避けたい。
どんな爆弾が落とされるか、想像しただけで胃が痛くなる。
「あ、僕はまたバーベキュー道具いっぱい積んでいくから、後部座席はもう荷物でパンパンやな。舞子乗ったら、誰も乗られへんなー。」
ほとんど棒読みの言い訳を口にしてみたものの、
「いや。琵琶湖の時はハルヒトにおんぶにだっこやったから、今回は俺が仕切る。ハルヒトは自分の椅子と飲みもんだけ持ってきてくれたらええ。水道とかないとこやから、紙皿と紙コップも全部こっちで用意する。」
ヒロくんの宣言ひとつで、僕の浅知恵はあえなく吹き飛んだ。
さてどうするか、と頭を抱えていたところに、
「あ、ミナコが言うてたけどな。サクラも最近、走り屋でもないのにシビック買うたらしくて。ナラシがてら出したいから、ユリカと、白浜来られへんかったユミコ、拾て行く言うてたで。」
タカトモが缶コーヒーを振りながら言った。
おお、サクラ。救いの女神よ。
そんなこんなで、総勢十一人なのに、車五台という、どう考えてもガソリンの無駄遣いとしか言いようのない編成で、日曜の朝十時、大野ダムに集合ということになった。
ちなみにマサキは法事で不参加だが、
「サクラ来るんやったら、そっち行きたかったわ…」
と、名残惜しそうに言っていた。
◇ ◇ ◇ ◇
鷹峯街道から周山街道に入ると、道の両側に北山杉が整列していた。
枝打ちされた幹が、針のようにまっすぐ空へ伸びている。
ところどころ、白っぽい幹が等間隔に並んでいて、「磨き丸太」の産地らしいきっちりした風景だ。
朝の光はまだ谷底までは降りてきておらず、斜面の上の方だけが明るく光っている。
足元には薄い霧みたいな冷気が残っていて、窓の隙間から入ってくる空気がひんやりと気持ちいい。
集落が開けると、畑と板葺き屋根の向こうに、杉の緑が段々畑みたいに重なって見える。
盆地状の周山に入ると、道は少しだけ緩んでまた山に寄り添いながら北へ。
若狭へ抜ける古い幹線らしい、素朴な里山のリズムが続く。
杉の濃い緑の中に、カエデの赤や黄色が刺繍みたいに入り込んでいて、山肌のあちこちが燃えているみたいだった。
さらに北へ進み、北山杉の列が途切れると、道は谷あいを抜け、美山の里に出る。
昔ながらの田畑と、茅葺き屋根の家がぽつぽつと現れ始める。
煙突から上がる白い煙が、冷たい空にまっすぐ伸びていた。
「すごーい。日本昔ばなしの世界みたいだね」
舞子が、窓ガラスに顔がつきそうな勢いで外を見回している。
由良川にかかる長い橋を渡ると、川面が朝日を反射してきらきら揺れていた。
やがて道は九鬼ヶ谷池のほとりをかすめる林間に入り、杉と雑木のトンネルの中をくねりながら進む。
いくつかカーブを抜け、静かな集落を過ぎて府道12号を由良川沿いに走り続けると、川幅がふっと広がり、その先に大野ダムの湖面がちらりと見えた。
駐車場に車を入れる。
「まだ誰も来てないね。」
「そやな。まあ、そのうち来るやろ」
エンジンを切って外へ出ると、ひんやりした空気の中に、水と木と土の匂いが混じり合っていた。
伸びをして、ポケットからタバコを取り出す。
「いっつも思うけど、ハルくんって待ち合わせに着くの早いよね。」
隣で舞子が笑いながら言った。
「途中で何かトラブルあっても大丈夫なように、ちょっと早めに出るクセついてしもてんねん。で、もし何もなかったら、早く着いたとこでのんびりしたらええやろ、って。」
「たまに、のんびりしすぎるくらい早いけどね。」
「まあ、今日はちょうどええくらいや。」
舞子が肩をすくめたちょうどその時、
「あ、あれじゃない?」
舞子の視線の先を見ると、ブルーグレーのアコードワゴンが駐車場に滑り込んで来た。
「おはよう。相変わらず早いなー。」
「おはよう、舞子ちゃん。」
ヒロくんとヨーコが降りてくる。
「まだ誰も来てへんし、荷物運び始めよか。ハルヒト、手伝って。」
「おっけー。」
ハッチバックを開けると、バーベキューグリル、クーラーボックス、木炭の段ボール箱、折りたたみのテーブル、細々したものが詰まったコンテナボックス…ぎっしりだ。
「ここの下歩いてちょっと降りたら、勝手にバーベキューできるとこあんねん。」
ヒロくんが先頭に立ち、僕たちは荷物を抱えながらついていく。
ヨーコと舞子も、持てる物を手にして坂を降りた。
開けたスペースに出たところで、「この辺に置いてってー」と指示が飛ぶ。
何往復かして荷物を全部下ろすと、今度は自分たちの荷物の番だ。
僕らの分と言っても、コールマンの折りたたみチェアと、商店街で買ったミニサイズのクーラーバッグだけだ。
スチールベルトクーラーはさすがに大げさすぎて、今回は留守番だ。
「ハルくん、この赤と白の可愛いコロンとした子、何?」
舞子が、車の後ろでごそごそやっている僕を覗き込んだ。
「これ?コールマンのウォータージャグ。去年、叔父さんがアメリカのお土産でくれてん。」
「あー、このボタンの蛇口、お茶とか入れて運動会に持ってくやつの、カッコつけ版だ。」
カッコつけ版て。
中はただの水だけど、手洗うのにも飲むのにも便利だと思って持ってきたのに、この言われようだ。
クーラーバッグを肩にかけ、右手にウォータージャグ、左手にチェアを持つ。
「舞子、ごめん、自分の分の椅子だけ持って降りて。」
「うん。どっちか持とうか?」
「いや、大丈夫。これくらいなら余裕や。」
さっき荷物を降ろした場所にジャグとクーラーバッグを置き、チェアを広げる。
「…ええとこやな。」
思わず口から出た。
下には、ダム湖の静かな碧。
見上げれば、赤や黄色に燃える木々。
十一月下旬の澄んだ空気が、頬を冷たくさせる。
「本当にいいところ。」
舞子の目も、木の葉みたいにきらきらしていた。
「おーい!来たぞー!どこやー!?」
上の方からタツヤの声が響く。
「こっちー!荷物持って降りてきてー!」
タツヤとショウコちゃん、タカトモとミナコ、サクラのシビックに乗ったユリカとユミコ。
次々にメンバーが降りてきて、河原が一気ににぎやかになった。
「ハルー!元気ぃ?」
ユリカが後ろから近づいてきて、僕の肩にあごを乗せてくる。
「元気やけど、それやめい。」
「えー、冷たいなあ。あ、舞子ちゃん、おはよう。」
「おはようございます…」
舞子の返事が、ほんの少しだけ固く聞こえた。
──お前のその乱痴気騒ぎ、舞子ちゃん見てたって。それ見て帰ったって。
マサキの声が、頭の隅でリフレインする。
「ユリカさん、何か手伝うことあったら言って下さい。」
舞子がぱっと笑顔を向けて、明るい声でそう言った。
その自然さに、僕は一瞬拍子抜けする。
杞憂、だったんだろうか。
「よっしゃ、できたー!」
ふと見ると、ヒロくんがドヤ顔でグリルの脚を継ぎ終えたところだった。
ヨーコが炭の箱を傾けて、ゴロゴロと中身を落とし込む。
「単純に炭焼いて肉焼くだけやし、楽勝やろー。」
そんな顔をしている。
ヒロくんは、ピンク色のゼリー状の着火剤を炭の上に絞り出し、チャッカマンをカチッと鳴らした。
ゼリーから青い炎が立ち上り、しばらくして白い煙が上がり始める。
うちわでパタパタとあおぎ、煙はもうもうと立つ――が、やがて、何事もなかったかのように消えた。
「あれ?少なかったかな。」
そう言って、今度はさっきの倍くらいの着火剤を絞り、再チャレンジ。
また白い煙、パタパタ、もくもく――そして、やっぱり沈黙。
「これも燃やしたらええんちゃう?」
ヨーコが、炭の箱の段ボールをちぎって上に乗せる。
アイデア自体は悪くない。段ボールは火が移りやすいし、空気を含んでよく燃える。
…ただし。
「うわー!」
うちわであおいだ瞬間、灰になりかけの紙片が大量に舞い上がった。
中には、まだ赤い火が点いたままのカケラもある。
さっきまで澄んでいた空気が、一気に煙たくなった。
それでも粘るヒロくんとヨーコ。
けれど、白い煙が薄くなる頃には、炭にはほとんど火が移っていないのが見えた。
「ううん…」
困り果てた顔を見て、僕はついに口を出した。
「悪いけど、ちょっと手ぇ出してええか?」
「いや、ここは俺が何とか…」
「何とかなってへんやろ」
「…なってへんな。頼んでええか」
観念したらしい。
「舞子、クーラーバッグの中にガス缶入れてるやろ?カセットコンロのやつ。」
「あるよー。はい。」
ウエストポーチから、叔父さんにもらったバーナーヘッドを取り出し、ガス缶にねじ込む。
「ヨーコちゃん、トング借りていい?」
「はい。」
炭を少し崩して、空気が通るように組み直す。
そのうちの一個に、バーナーの炎を集中させる。
ゴーッ。
青白い炎が、炭の表面をなめるように当たる。
炭の角が白くなり、その奥がじわっと赤くなり始める。
「こん時にな、ガスもったいないからって、あちこちにちょこちょこ当てたらあかん。」
頭の中で、叔父さんの声をなぞった。
「火は寂しがり屋やから、離れたら弱なる。くっつけたら強なる」
赤くなった炭とくっついている隣だけに、少しずつ炎の位置を動かしていく。
缶の表面がキンキンに冷たくなる頃には、グリルの炭全体にうっすら炎が回り始めていた。
「ほい。あとはさっきみたいに、ここからあおいで」
ヒロくんとヨーコにうちわを渡し、僕はようやく自分のチェアに腰を下ろした。
周りを見ると、他のみんなはそんな苦労なんてどこ吹く風で、すでに缶ビールを開けてそれぞれの椅子で盛り上がっている。
舞子は、ユリカと並んで何か楽しそうに話していた。
その光景に、胸のどこかが少しだけ緩む。
タバコに火を点けて、ゆっくり煙を吐き出した。
「おっけー!ほな、肉焼き始めるでー!みんな紙皿と紙コップ取ってー!」
ヒロくんの声が飛ぶ。
「はい、ハルくん。」
舞子が、僕の分の紙皿と割り箸を持ってきてくれた。
「おおきに。なんか、ユリカたちとだいぶ打ち解けてたやん。」
「う…うん。楽しいよ。」
一瞬だけ間があったけれど、舞子はいつもの笑顔でそう言った。
「タレはこっちなー!」
ヒロくんの右手には「金龍」、左には「エバラ」。その横でヨーコが「ジャン」を掲げている。
完全に「外で焼肉」一択コースだ。
「ほな…エバラで。」
僕がそう言うと、ヒロくんは例のメロディを口ずさみながら、紙皿にタレを注いでくれた。
「エ・バ・ラ、焼肉のたれ♪」
舞子の分も受け取り、テーブルの上に並べる。
グリルの上では、どこ産のどの部位かもよく分からない「ロース的な肉」が次々と焼けていた。
自分の皿に三枚、舞子の皿にも三枚取って席に戻る。
タレにくぐらせて、ひと口。
「お。うま。」
「おいし!」
声がぴったり重なった。
大して期待していなかったぶん、余計に驚く。
炭火で余分な脂が落ちた肉は表面が香ばしくて、中からじゅわっと肉汁があふれる。
エバラ焼肉のタレのちょっと下品なくらい濃い味が、こういう場ではちょうどいい。
「肉、全部で八キロ買うてきたから、がんがん食べてやー!」
「買いすぎやろ、ヒロー!」
と文句を言いつつ、気がつけば僕も舞子も何度もおかわりをしていた。
舞子の頬は、ずっと真ん丸にふくらんだままだ。
澄んだ空気。
遠くから聞こえる水の音。
見上げれば、青い空の下に紅葉した山。
炭火の上では肉が焼けて、脂がしたたり落ちる音がする。
そんな環境で、気の置けない仲間たちと肉を頬張っているのだ。
美味しくないはずがない。
「ふー、ちょっと小休止。」
そう言いながら、みんながチェアに沈み込み、缶ビールを手に「飲みモード」に入っていく。
グリルの上の肉はほとんど姿を消し、テーブルの上には空き缶が増えていった。
ふと見ると、舞子がまた、ちょこまかと動き回っている。
空き缶を集め、風で飛びそうなトレーを押さえ、ひっくり返った紙コップを重ねては一カ所に寄せていた。
「舞子ー。今日はヒロくんが仕切る言うてたんやし、そんな働かんでええって。」
声をかけると、舞子は振り返って少し照れたように笑った。
「でも、なんかじっとしてると落ち着かなくて」
そう言うと、またすぐに誰かのそばへ走っていく。
ユリカの笑い声、タツヤの大声、ショウコちゃんの高い声。
その間を、舞子のポニーテールが小さく揺れながら行ったり来たりしていた。
僕は、それを眺めながらタバコをくゆらせる。
湖の碧も、紅葉も、白い炭の煙も、やわらかい午後の光に包まれていた。
穏やかな午後だった。
この時までは。




