第56回 やさしい秋
「あんた、次の日曜日忙しいか?月末の」
母からそんな電話がかかってきたのは、10月も後半に差し掛かってきた月曜日の事だった。
「いや、別に予定ないけど、どうしたん?」
「いやな、8月の地蔵盆のお祭りでな、福引きで保津川下りのペアの招待券当たってな」
「ええやん。親父と行きや」
「そう思てたんやけどな、なんや色々せつろして、やっと行けるなぁ、いうのが次の日曜日で、期限も10月いっぱいやさけ行かな、思てたら、急に奈良のおっちゃんが日曜日にこっち戻んで来らる事になって、行けへんようになってしもたんよ」
なるほど。それで僕にチケットをくれるのかな?
「ほやさけ、今月いっぱいやさけもったいないから、あんた行かへんかと思てな。」
やはりそうだった。ちょっとラッキーだ。
「こないだの可愛い(かい)らしいお嬢ちゃん、舞子ちゃんやったな、連れてったりぃな。嵐山でランチも付いてるで」
「ありがとう。ちょっと待って」
そう言って僕は受話器の口に手を当てて、押し入れの巣で漫画を読んでいた舞子にきいた。
「舞子ー、次の日曜日、保津川下りって行ける?」
「え!? あのテレビでやってたやつ? 船頭さんが竿で岩とかよけて、みんなでザッパーン!ってなるんでしょ?」
「それそれ」
「行く行く!わーい!」
大喜びだ。
「あ、ほな行かして貰うわ。ありがとう。」
「ほな、郵便で送るさけな。楽しんで来ぃ」
そう言って電話は切れた。舞子はこの前買ったるるぶをめくって、
「保津川下り、保津川下り、あった!」
と早速情報収集をしていた。
◇ ◇ ◇ ◇
僕が誕生日をすっぽかしたあの日からも、舞子の態度は不思議なくらい変わらなかった。
相変わらず明るくて、よく笑って、僕の前ではいつも通りの舞子のまま。
ただ、ひとつふたつ、前とは違うことが増えていた。
週に一度くらい、
「バイト先で仲良くなったお姉さんの家に泊まってくるね」
と言って出かけるようになった。
あれほどしょっちゅう焼いてくれていたお好み焼きの回数が少しずつ減って、
冷凍庫にいつも入っていた“舞子特製お好み焼きストック”も、気づけば残りわずかになっていた。
ある日の夕方、僕はふと思い出して声をかけた。
「舞子、最近あんまりお好み焼き作らへんようになったけど、どうしたん?」
「うーん、特に理由はないけどね。
バイト先のコックさんに、美味しいサンドイッチの作り方教えてもらったの。
今はそれがマイブームなの。私の中で」
なるほど。
確かに最近の舞子は、よくサンドイッチを作ってくれる。
バイト先のホテルに納入される角食を従業員価格で分けてもらっているらしいそのパンは、
ふわりと香りが良くて、歯ごたえがあるのに柔らかく、舞子が薄く塗ったバターの香りと一緒になるとそれだけでごちそうみたいだった。
そのパンで作るサンドイッチは、ハムとチーズ、つぶしたゆで卵、ツナ──
どれも素朴で、どれもやたら美味しくて、気づけば皿から消えていた。
「ハルくん、そんなにサンドイッチ好きだったっけ?
作ってもすぐなくなるね」
舞子はそう言って、いつものようにふわっと笑う。
その笑顔を見るたび、胸のどこかがじんわり温かくなって、そして少しだけ、痛んだ。
舞子は明るい。
僕は、その明るさに甘えているだけなのかもしれなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
日曜日の朝は、抜けるような秋晴れだった。
紅葉にはまだ早いはずなのに、空はどこまでも澄み、山の稜線が、切り絵みたいにくっきり浮かんでいる。
朝8時過ぎ。
僕と舞子を乗せたスプリンターカリブは、静かな河原町通を南へ下り、国道1号線と重なる五条を西へ折れた。
堀川通で1号線が南へ分かれ、僕たちはそのまま五条通──9号線を西へ、西へ。
町並みの影が徐々に薄くなり、山が近づくにつれ、光が冷たく澄んでいく。
千代原口を越え、老ノ坂トンネルを抜けた瞬間、車内の空気がふっと入れ替わった。
湿り気の少ない、秋特有の澄んだ冷たさ。
夏の名残が完全に後ろへ退いて、季節の境目をまたいだのが分かる。
田んぼはもう刈り入れを終え、黄金色が消えた跡に、短い切り株だけが一面に残っていた。
その合間から、白い煙が静かに立ちのぼっている。
わらを燃やす匂いが風に乗って窓から流れ込み、舞子はゆっくりと胸いっぱいに息を吸い込んだ。
「なんだか懐かしい匂い…」
「秋の丹波の匂いやな。」
舞子は小さく頷き、ほんのすこし目を細めて外の景色を眺めた。
あの横顔は、風景と同じ温度の光の中にあった。
9時半過ぎ。
保津川下りの乗船場そばの駐車場に着く。
舗装されていない地面に降り立つと、足の裏にジャリッと乾いた音が広がり、朝のひんやりした空気が首筋を滑っていった。
観光バスはまだ2台ほど。
紅葉には一歩早いこの季節だけがもつ静けさが川沿いに広がり、僕たちの一日の始まりを、ゆっくりとしたリズムで迎えてくれていた。
昨日電話で予約した僕達の乗る船は10時出発だ。
乗船分の招待券を渡し、係員さんの指示に従う。
木造の平底船に腰をおろすと、前と後ろに立つ船頭さんたちが、川の流れに合わせて静かに櫂と竿を操った。
ただそれだけなのに、船が水の上をすべるたび、胸の奥まですっと風が通っていく気がした。
川面のきらめきが船底に反射して、舞子の腕にも淡い模様のように揺れた。
最初は流れがやわらかく、朝の光を受けて透き通った川面の上を、船はそっと滑りはじめた。
右手には、澄んだ空にくっきりと浮かぶ亀岡の山並み。
稜線はほんのり金色を帯びていて、山肌の緑にもところどころ秋の気配が混じる。
左岸には、朝露を含んだ竹林が風に揺れ、細い砂州が、水に触れた部分だけ銀色に光っていた。
舞子はひんやりした空気を吸い込みながら、「きれいだね……」と呟くように言った。
やがて川はゆるやかなカーブを描き、岩場が迫ってくる。
前方の棹師が竹竿をすっと川底に差し込み、艫師が櫓で大きく水を押すたび、船は呼吸をするように向きを変えた。
「わ、近い!」
岩肌すれすれを通り抜けるたび、舞子が肩をすくめる。
岩影には落ち葉が渦を巻き、水は翡翠のような色でその間をすり抜けていった。
「大丈夫ですよ。岩のほうが避けてくれますさかい」
前の船頭が笑わせると、船の上に柔らかな笑いが広がった。
その空気がまた、秋の陽射しのようにあたたかかった。
峡谷に入ると、空が細くなる。
日陰の水は青みを増し、流れは急に速さを取り戻す。
棹が軋み、ひときわ大きな水しぶきが舞子の頬に散った。
「きゃあっ!」
驚きながらも、舞子は楽しそうだった。
水の冷たさに頬が赤く染まり、それが朝の光と混ざって、なんとも嬉しそうだった。
激流を越えると、ふいに静けさが戻った。
深い淵は鏡のようで、山の緑や、枝先だけ色づき始めた黄葉が、溶けるように水面へ映り込んでいる。
船頭が棹を休め、ゆっくり話し始めた。
「このあたりの岩は、ずっと昔から形が変わってません。
“獅子岩”とか“烏帽子岩”とか、名前が付いとるんですわ」
舞子はひとつひとつ岩を見比べながら、子どもみたいにまっすぐな目で頷いていた。
やがて、谷がふっと開ける。
はるか高いところに、一本の金属の線が光っていた。
「あれ、山陰本線や。帰りはあそこ通っていくんよ」
「えっ……あんな高いところ!?」
舞子が見上げた首筋に、午前の光が薄く降りた。
最後の瀬を抜けると、川幅が大きく広がる。
風が少しあたたかくなり、人の声も遠くから聞こえはじめる。
嵐山の河原が近づき、渡月橋の欄干が淡い秋色の山を背に浮かび上がった。
約二時間の川旅は、気づけばあっという間で、胸の奥だけ、ゆっくりと秋が深まったみたいだった。
船は静かに岸へ寄せられ、木の船底が砂を踏む音だけが、旅の終わりをそっと告げた。
記念撮影をしている修学旅行らしい制服姿の生徒たち、フルムーン旅行っぽい老夫婦、何組かの外国人グループ。
渡月橋周辺は観光客がそこそこいるが、歩くのに困るほどではない。
「お昼行こか」
そう言って、昼食分の招待券に同封されていた地図を頼りに店を探した。
──「え?ここ?」
僕は思わず吹き出した。
「どうしたの?」
舞子が不思議そうに僕の顔を覗き込んだ。
大きな目がキラキラと輝いている。
たどり着いたその店は、春の広研合同合宿で広告コンペの商品に高木が選んだあの店だった。
「今度から、皆で行く店決める時は俺が調べて俺が決める!」と僕が奮然と宣言した、あの“観光地価格”の湯豆腐御膳。
僕は笑いが止まらぬままに舞子に言った。
「いや、ここはやめとこう」
「え?どうして?せっかくお昼の招待券もあるんでしょ?湯豆腐いいじゃん!」
そういう舞子に、僕はあのときのことを説明した。
舞子も話を聞いて笑い出す。
「で、どうしよう?」
「あ、あそこのお店、松花堂弁当売ってる。お持ち帰り用って!」
店先のガラスケースには、透明の蓋越しに仕切られた弁当がずらりと並んでいた。
黒い漆塗り風の弁当箱は、観光地らしく華やかで、持ち歩きやすい作りだった。
透明な蓋の四隅には、小さな金色の飾り模様が入っている。
「けっこう豪華そうだね…」
舞子が指差した中身は、四つの枡にきれいに収められていた。
一枡目は俵型の白ごはんに小梅と黒ごま、隣に細巻き寿司が二つ。
二枡目は鰆の西京焼きと卵焼き、赤い花形の人参の煮物。
三枡目は海老と南瓜、ししとうの天ぷらに紅葉型の麩。
四枡目はほうれん草のおひたし、かまぼこ、黒豆の煮物。
色の配置も計算され、蓋を開けた瞬間に嬉しくなる見た目だ。
値札を見ると──ひとつ1,600円。
「……たっか」
思わず声が漏れる。
舞子はちらっとこちらを見て、にやりと笑った。
「ここは私が出すよ!保津川下りに乗せてもらったし!」
そう言って財布から五千円札を取り出し、店員に差し出した。
「お弁当二つですね、ありがとうございます」
紙の手提げ袋に入った松花堂弁当を受け取ると、舞子は袋の中を覗き込みながら足取り軽く歩き出した。
「桂川の中洲で食べようね」
「……ほんまにええんか?」
「いいの。今日は私がランチ担当!」
────
渡月橋を望む中洲のベンチに並んで腰を下ろすと、川面には秋の光がゆるやかに揺れていた。
紅葉にはまだ少し早く、岸の梢は深い緑に、ところどころ山吹色がひと筆さしたように混じるだけ。
それでも、澄んだ空気の中ではそのわずかな色の変化さえ鮮やかに見えた。
川下から運ばれてくる水の音にまじって、観光バスから降りた修学旅行生の笑い声、ゆっくり散歩している老夫婦の語らいがふっと流れてくる。
どれも邪魔にならず、この場所の風景の一部になっていた。
膝の上に置いた仕出し弁当の蓋を開けると、四つに区切られた枡の中に、やさしい色合いが広がった。
俵型の白ごはんには、小梅と黒ごまが小さな飾りのようにのり、隣にはきれいに巻かれた細巻き寿司が二つ。
鰆の西京焼きと、黄色くふっくらした卵焼きの枡には、赤い花形の人参が添えられ、目に入るだけでどこか温かい。
天ぷらの枡には、海老、南瓜、ししとう、そして紅葉型の麩。
冷めていてもなお華やかで、秋の色をそのまま閉じ込めたみたいだった。
最後の枡には、ほうれん草のおひたし、かまぼこ、黒豆。
控えめだけれど、弁当にしっとりした落ち着きを与えている。
舞子は南瓜の天ぷらをそっとつまみ上げる。
薄い衣がふるりと揺れて、まだわずかに温もりが残っていた。
「まだ温かいね」
口に運んだ瞬間、衣の香ばしさの奥から南瓜のほっくりした甘みがふわっと広がる。
舞子は目尻をゆるめて、その味を静かに味わっていた。
僕は西京焼きに箸を入れた。
白味噌の甘い香りが秋の風に乗ってふっと立ち上がり、やわらかな身は箸の重みだけでほどけていく。
川面を渡る風は少し冷たく、袖口にそっと触れる。
その冷たさのせいか、湯気はより白く、出汁や味噌の香りまでくっきりと鮮やかに感じられた。
それぞれが静かに食べ、静かに景色を眺める。
言葉にしなくても「秋の一日」を同じ速さで共有している──
そんな穏やかな時間だった。
「こういうの、外で食べると倍おいしいね」
舞子がそう言って笑い、僕もつられて笑った。
川のせせらぎと、人々の笑い声。
そして弁当の香りが、秋の嵐山の午後をゆっくり包み込んでいた。




