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第57回 秋、ゆっくりと

「「ごちそうさま!」」


腹ごしらえを終えた僕たちは渡月橋を北へ渡り、午前の光にきらめく桂川を背にして、天龍寺の山門前を通り抜けた。

境内からふっと漂ってくる線香の匂いが、秋の冷たい空気に混じって、どこか懐かしい。


竹林へ続く道に入ると、空気がひんやりと変わった。

さっきまで日向の匂いをふくんでいた風が、急に静かで澄んだものに変わり、嵯峨野特有の、湿り気の少ない秋の冷気が頬をさらりと撫でていった。


両脇にすっと立ち並ぶ孟宗竹は、空へ向かってまっすぐ伸び、風が通るたびに無数の細い葉が触れあって、シャララ……と、ガラスの粒をこすり合わせたような音を響かせる。


その音は、街のざわめきとはまったく違う。

大きくも小さくもなく、ただ一定の“深さ”で竹林の天井から降ってくる。

僕も舞子も、自然と歩く速度がゆっくりになっていった。


足元には、まだ青さを残した小さな落ち葉が点々と転がり、竹の間を縫って落ちてくる光が、葉の影を淡いモザイクのように描き出す。

その光は、夏のように力強くもなく、冬のように冷たくもなく、“秋だけの透明な温度”で道に降りていた。


舞子はしばらく黙って歩き、小さな落ち葉をひとつ拾い上げた。

指先の上でくるりと回し、淡い緑と黄の境目をじっと見つめる。


「この道、昔の京都映画に出てきそうだよね」


その声すら、竹林の静けさに溶けるほど優しかった。


「ほんまに。

 なんか……古い写真でしか知らない景色が、いきなり“音つき”で目の前にある感じやな」


そう言って僕は、足元に揺れる光に目を落とした。

竹の影が風に合わせてゆらりと形を変え、その上を舞子の影がすっと重なる。


歩くたびに、落ち葉が乾いた音を立て、そのたびに季節がひとつ前へ進んだような気がした。


冷たく澄んだ秋の空気の中で、僕らの間にはことばにしない何かが、そっと寄り添っていた。


突き当たりまで行って、僕たちは来た道を折り返した。


「いい散歩だったね」


「うん。ホンマに来てよかった」


緑と光と風と静けさが、ゆっくり重なっていく午後だった。



野宮神社の前を抜け、タレントショップの看板が並ぶ通りをそのまま向こうに渡る。

路地をたどっていくと、木の香りのする古い商店や民家が並びはじめ、やがて駅の気配が近づく。


駅名標には「嵯峨」の二文字が白地に浮かんでいる。

改札を抜け、ホームに上がると、そこには、朱色とクリームのツートンカラーに塗られたキハ40系の気動車が停まっていた。

エンジンは低く唸り、油と金属の匂いが鼻をくすぐる。


「これで亀岡まで?」


「うん。峡谷を抜けて、保津峡を通ってね」


ホームに澄んだ空気が流れ、警笛がキュッと短く鳴った。

列車は静かに揺れながら動きはじめ、嵐山の喧騒がゆっくりと背後へ遠ざかっていく。


住宅地を抜けると、途端に山肌が迫り、川がきらりと陽を返しながら見え隠れした。

単線の細いレールが谷の奥へと吸い込まれ、列車はその“細い道”を頼りに、山の懐を縫うように進んでいく。


交換駅で対向列車をやり過ごし、トンネルをひとつ、またひとつ抜けるたび、さっき舟から見上げたはずの岩場や水煙が、今度は視線のずっと下のほうで、ふいに現れては消えていった。


「さっきの川だ」


舞子が窓に顔を寄せ、目を丸くしている。


「ほんまやな。上から見ると、全然ちがうわ」


谷が深くなるにつれて、列車の窓に当たる風がひんやり変わる。

切り立った崖をかすめるように走り、鉄橋に差しかかると、谷底から吹き上がる風が車体の下をさらりと通り抜けた。


保津峡駅が近づくころ、川の音が遠くのざわめきのようにかすかに聞こえてくる。

谷あいの小さなホームに、列車は短く停まった。

吊り橋が静かに揺れ、山肌の木々が午後の光をまとっていた。


発車すると、川はあっという間に後ろへ下がっていき、いくつかのトンネルを越えたところで、山がふっと“ほどける”ように開けた。


ひろい空気が流れ込み、田んぼの土の匂い、稲わらの乾いた香りが窓からそっと乗り込んでくる。

列車は速度を上げ、そのまままっすぐ平野へ。


ほどなく亀岡。


改札を出ると、山に囲まれた空の広さが胸いっぱいに広がり、思わず深呼吸した。

さっきまでの谷の冷たい風とは違う、ゆるやかな秋の匂いがあった。


そこから保津川へ向かって歩けば、朝、車を停めた砂利の駐車場までは、のんびり十五分ほど。


舞子が横を歩きながら、小さく笑った。


「戻ってきたね」


「うん。……このまま帰るのも惜しいな」


キーを回すと、軽く低いエンジン音が響く。

僕たちは駅前を抜けて国道9号に入り、京都方面へ向かった。

しばらく走ると信号の多い街並みが途切れ、周山街道の青い案内板が現れる。

左折して山道に入ると、民家が減って、杉林が道の両側から迫ってきた。


「わ、けっこう山の中だね」


「うん。京都のすぐそばやのに、急にこんなんやねんな」


やがて高雄口ゲートが現れ、嵐山高雄パークウェイに入る。

舗装はきれいだが、すぐにカーブが連続しはじめる。

右へ左へとハンドルを切るたび、舞子が軽く身体を預けてくる。


「すごいクネクネ道」


「まあこういう道が好きな人もいてはるからな。景色は保証するで」


標高が上がるにつれ、空がふっと広がった。

谷の奥まで続く曲線が遠くまで見渡せるようになり、山の斜面にはまだ濃い緑が残りながらも、ところどころに山吹色や橙色が筆先でなぞったように混じりはじめ、季節が静かに衣替えをしているのが分かった。


保津峡展望台に車を停め、欄干まで歩く。

ひんやりした風がひと筋、頬をなでた。


足元から、谷が一気に落ち込んでいる。

その底を、山陰本線の細いレールが川沿いに寄り添うように延び、さっき列車で走った軌跡がひとつの線になって、足元のはるか下に見えていた。


午後の光を受けた川面はところどころで銀色にきらりと光り、ゆるやかな曲がりに沿って、まるで時間を伸ばしながら流れているようだった。


斜面の木々のあいだから、保津峡駅の小さなホームと待合所が半ば隠れるようにのぞいている。

人影はなく、秋の静けさだけがそこにとどまっていた。


「ほら、あれや。さっきまで乗ってた線路」


「ほんとだ……下から見上げたのと全然違う。なんか不思議」


舞子は欄干に手をかけ、じっと見下ろしている。


「船のときはあの鉄橋の下をくぐったよね」


「うん。今こうして見ると、あれがあんな高さにあったんやなって」


少し風が吹き、谷からの涼しさが頬を通り過ぎた。


再び車に戻り、パークウェイを下る。

道は再びカーブが続き、ところどころで谷や山の稜線がのぞく。

前方に嵯峨野の町並みが近づくと、視界が開け、遠くに渡月橋方面の町並みや川筋が見えた。


終点ゲートを出ると、化野念仏寺の前だった。


「せっかくだから、お寺も寄ってく?石仏がズラーッと並んでて凄いで」


「うん。でも今日はいっぱい見たし、また今度連れてって」


舞子は笑いながらそう言った。

僕はハンドルを切りながら横目で舞子を見る。

秋の夕陽を受けた横顔は、少し色づき始めた山並みよりもやわらかく、あたたかかった。


車がゆっくり町並みに溶け込むころ、今日めぐった川も、竹林も、谷も、そのすぐ横で笑っていた舞子の横顔も、

ひとつの長い道のりだったように、胸の奥で静かに続いていた。

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